第4話 ■■年後の約束


「わかってくれたよね? さぁ、はやく私の城に行って愛を育もうよ、壱也君」


「あ、愛!?」

 まさか、子供の頃の俺は吸血鬼と結婚の約束でもしたのか。全く実感の沸かない契約と吸血鬼と人間の間にはそうそう生まれないであろう言葉に脳が追い付かない。


「あはは、大丈夫。無理に偽りの愛を求めたりなんてしないよ。私たちに人間の心を操るようなチカラはないし、あったとしてもキミに使ったりはしない。私はそのままのキミに私のことを気に入ってもらいたいだけなんだ」


 そう言ってニコニコと笑う吸血鬼は、新婚生活に想いをはせるどこにでもいる人間みたいに純粋な姿をしている。ごく普通の恋する乙女のように、初恋のときめきに胸を躍らせる少女のように、あまりに幼くてピュアな印象を与えるものだから俺を自分の城に拉致しようとしているとは思えなくなってくる。


「私の城は二人で暮らすには広いけど、きっと気に入ってくれるよ。不便なことは何もないし、死ぬことだってない。私とおしゃべりしたり、絵を描いたり、運動したり、退屈だったら楽器も教えてあげる。楽しい事しかない、邪魔なモノもない、穢れたモノなんて私とキミしか存在しない。キミは私の傍にいて、キミのままでいてくれるだけでいいの。人間の世界とは遠く隔離された特別な空間、永遠に尊くて無限の愛おしさを秘めている場所だよ」


 しかし、夢を語る少女のような顔には凶悪な牙がついていることを忘れてはいけない。彼女の言っている事はあまりに真っすぐで不気味だ。


「その・・・俺と一緒に暮らす必要ってありますかね」

 このままついて行けば二度と元の生活には戻れない。一生家族や慧と会えなくなる気がする。


「ん? どういうことかな」


 口元がマスクで隠れているせいで怒っているのかどうかわからない。けど、ここで素直に彼女の言いなりになるなんて嫌だ。


「俺の事を気に入ってくれたのは嬉しいですけど、人間なんて沢山いますし、俺じゃなくてもいいと思うんですよ。吸血鬼さんの見た目なら大抵の男は好意的な印象を持つと思いますし」

 その言葉はご機嫌取りではなく、確かに吸血鬼は誰から見ても見目麗しい整った顔立ちをしている。その美しさと神々しさは牙と翼の凶悪さを補って余りある程のもので、これが人間離れした美人ということだと言い切れるほどだ。


「それに親しくすると言っても、いきなり同じ家に住むというのはちょっと大変というか、急というか。時々遊びに行くとかじゃダメなんですかね?」

 しかしどれだけ彼女が美しくとも、俺はこの教室を離れたくない理由がある。なんとかこの場をしのぎたいし、人間としての生活を失う覚悟なんて俺には出来ない。

 こんなことを言えば彼女を怒らせてしまう事くらい理解している。そこは「大好きだから苦しめたくない」という吸血鬼の言葉を信じるしかない。とにかく俺は、ここで言いなりになるわけにはいかないんだ。


「・・・・・・もしかして、私と一緒に行くのが嫌?」


 返答は怒りではなく、どちらかと言えば淋し気なものだった。留守番をさせられた子供か犬みたいに悲しそうな表情で、彼女は切ない紫色の瞳で俺を見つめた。


「や、その。貴女とが嫌というわけじゃなくて」

 ここで絆されるほど馬鹿ではないが、あまりにしおらしい反応をされたので少しだけ勢いが弱まってしまう。


「・・・俺はまだ十八歳の高校生で、将来やりたい事とか今やりたい事が、目が回るくらいに溢れてるんです。このさき一生の事を決めるにはまだ子供だし、やり残したことが多すぎる。俺は十年前のことを覚えていないから尚更、急に言われてもどうしていいかわからないんです」


 弱まった勢いは、取り繕った都合の良い言葉ではなく俺の中にある弱気と不安をさらけ出させた。

 そう、俺は怖かったんだ。突然言い渡された非日常への誘いに素直に恐怖してしまった。両親と、慧と、友達と、部活の奴等と、先生とこの先会えなくなるかもしれないという突然の事実が怖くて、それが嫌だ。


 目の前の彼女を怒らせる恐怖より、悲しませる罪悪感より、俺は今の日常を手放したくないという気持ちが強かった。


「貴女との約束を破ってしまっているのならごめんなさい。でも俺、今直ぐに貴女のところに行くのは無理なんです。そりゃ吸血鬼さんには命を捧げてもいいくらいに感謝はしていますけど、それでも、俺は今の生活を手放すのがすごく苦しいんです」


 あえて『苦しい』という言葉を使ったのは無意識だったが、俺の策士で卑怯な部分が出てしまった気がする。


 吸血鬼は俺の言葉をじっくりと嚙み砕くように頷き、籠った声で返した。


「よかった、キミは変わらないね」

「えっ?」

「私は人間の気持ちがわからないんだ、急に迎えに来てごめんね。不安な気持ちにさせるなんて思ってなかった」


 吸血鬼は一歩、二歩、と俺に近付いてくる。真っ暗闇の空間は何処までも後ずされるような気がしたがここで彼女を拒む行動は良くないだろう。


「そんな怯えた顔しないでよ」


 すぐ目の前までやってきた吸血鬼は、口元を大きく隠す分厚い皮マスクを取った。

 近くで見るとマスクには小さな空気穴のようなものが複数開いていて、それが人間がつけるマスクとは違う理由で存在しているモノだと証明づける。


「好きだからキミを傷つけるようなことは出来ない。キミがそれを望むなら私は素直に受け入れるしかないんだ」


 彼女の細い指先がいつの間にか俺の頬に触れていた。ひんやりとした体温と鋭い爪先。背中全体がゾクリと短く震える。


「・・・吸血鬼さん」


「私達は待つのが得意な種族だからね。人間には考えられないくらいの時を待って待って待って待って待ち続けて生きてきたから。今更少しくらい我慢するのは容易い」

 目を細めて、愛おしそうな視線と氷のような繊細な指が俺の頬と首筋を舐めるように這う。

「・・・その代わり、ちゃんと最後は私の元に帰って来て」


 その言葉の重みに、俺は何となく眼を反らした。『最後』なんて言葉が若干十八歳の俺にはあまりに非現実的だったからだ。


「これはそのおまじない。私とキミが、特別な時間を共有する為の」

 そう言うと吸血鬼は、正面から俺を抱きしめるように両腕を背中に回した。

「大丈夫、痛くないから」


 チクリ。


 左の首筋に何かで刺されたような感覚。しかし痛みは無い。


 言葉を発しようにも身体が麻痺し、されるがままに吸血鬼を抱きとめるような形で硬直させられた。ただ首筋の感覚だけはやけに鮮明で、痛みは無いのに何かが流れていく様みたいなものだけハッキリとわかる。

 吸血鬼と対面しているのだから、その行為にはある程度察しがついていた。しかし、俺の身体が訴える感覚は血を吸われているというより、何かを注入されている時のようだ。献血と予防注射の違いみたいな曖昧なモノなので確かとは言えないが、異物が首筋から俺の全身にまわっていくような、そんな気がした。


「・・・ぷは」

 小さく息を吸う声が耳元から聞こえてきた。と同時に首筋の不可解な感触も消える。


「これで私はキミのことを好きなだけ待つことができる。キミは好きなだけ好きなように人間の生活を楽しめばいいよ」


 あまりにも俺にとって都合が良い言葉。こんなに簡単に終わって良いのだろうか。

 しかし、俺の身体はまだ動かないし相槌すらうてない。


「ただし、人間モドキとしてだけどね」


 突然の不穏な言葉。どういう意味だ。めいいっぱい力を入れて吐きだそうとした言葉はただの呼吸として掠れて終わった。


「あと二十年もすればキミの周囲はキミを迫害し始め、あと百年もすればキミの事を知る人間はいなくなる。そうしたら今度こそ私と一緒に永遠の愛を探そう」


 百年? なんの話だ。説明をしてくれ。俺に何をした。


「ふふっ、何のことだかわからないって顔をしているね。そのうち嫌でも理解することになるから心配いらないよ・・・大丈夫、全ての人間がキミを疎んだとしても、私だけはキミのことを待ち続けていられるから」



 不可解な寒気と漠然とした不安に塗れて、俺の視界は再び暗転した。


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