第15話 花木に囲まれた廃墟
「これで押さえなさい」
林さんは鼻血を出した真紀におしぼりを差し出すが、真紀はトラックまで走り、助手席に置いてあったポーチからポケットティッシュを取り出して鼻に詰めている。
そして、ウエットタイプのお手ふきを出してサイドミラーで見ながら顔を拭き、使い捨ての立体マスクを着用して戻って来た。
「最近土埃を吸い込むと鼻血が出やすいみたいで困っているの」
真紀が自分達の前で鼻血の処置をしたくなかった事を功はそれとなく察した。
「ちゃんと鼻血が止まるまではじっとしていなさいね、今日はもうやめて帰ったほうが良くないかしら」
林さんは心配して作業を止めようとするが、真紀は首を振った。
「ううん。力仕事じゃないし大丈夫よ。次は私の番だからそろそろトラクターに乗るわ。功ちゃんは裏の畑のアクセスを確認しておいて」
そう言い捨てると彼女はトラクターに歩いていった。
残された功は林さんと顔を見合わせた。
「賑やかな子ねえ」
林さんはぽつりと言って真紀の後ろ姿を見送っている。
騒々しいと言わないのは、思慮深く言葉を選んでいると思えた。
「功君も東日本大震災の被災者なの?」
真紀がいなくなったので質問の矛先は功向けられる。
「いいえ僕は埼玉出身です。農業が好きだからまほろば県に来たんですよ」
功は訊かれそうなことを先回りして答えた。
これ以上身の上話に尾ひれがついて拡散されては困るからだ。
林さんは一動作で立ち上がると、湯呑を片付けようとしている功に告げた
「後で片付けるからそのまま置いといていいわ」
林さんは功を手招きしながら歩き始めていた。
八十歳なのに、まだ当分は現役農業者として頑張ってくれそうな雰囲気だ。彼女は家の裏手にあるという畑に通じる道を見せようとしているのだ。
「うちで畑を耕す時はね、この道から手押しの耕耘機を上げて使っていたの」
問題の畑は林家の裏にあり、家の敷地よりさらに一・五メートル程高くなっている。
のり面は石垣になっており、上に登る道は道幅が一メートルほどあり、結構広いのだが、功達のトラクターには狭すぎた。
功がトラックの荷台からブリッジを渡したら登れるだろうかと作戦を考えていると、林さんがあそこをみてごらんと指をさした。
そこは、川向こうの斜面に見えている畑だった。
功達がいる家や真紀が耕運している水田は背後の山から谷底の川まで続く斜面を階段状に切り開いた棚田の上にあるのだが、川向こうの斜面も同じように棚田になっている。
しかし、よく見ると、雑草が生い茂ったり灌木が生えて見るからに荒れた土地が多かった。
「あの斜面の上の方に林家の家の先祖からのお墓もあるのよ。でも、川向こうには道がなくてトラクターもコンバインも入れにくいからどうしても荒らしてしまう人が多くてねえ。あそこの家がある辺りに花が沢山咲いているのが見えるかしら。」
そう言われてみると桃らしき花を始めとしてユキヤナギとか水仙の花も咲いているように見える。古い家も見えるが庭先に植えたにしては花々が咲いている範囲は広い。
「きれいな花が咲いていますね。桃園なんですか」
林さんはゆっくり首を振っていった。
「あの家の人達は花が好きでね。自分たちがいなくなってからも通りかかった人が楽しんでくれたらいいと言って周囲の畑にいろいろな花木を植えていたの。東北や関東から来た人が見て綺麗だと思ってくれたらきっと喜んでいるわ」
何となく話が飲み込めなくて功は聞いた
「その人達はどこにいったんですか?」
林さんはゆっくりと空を指さして見せ、彼女の仕草を理解した功はうまく言葉が継げなくて沈黙してしまう。
功の様子を見た林さんは、微笑みながら言葉を継いだ。
「決して変な話ではないのよ。あそこに住んでいたおじいちゃんとおばあちゃんが自分たちだけで生活できなくなって街に引っ越すときに花を植えていっただけのこと。でもそれから半年も経たたずに二人とも亡くなったから、自分達の余命が判っていたのかもしれないわね」
淡々と話す林さんはむしろ楽しそうな顔をしている。
「この辺りの家も畑もはそんな風にして次第に山に戻っていくものと思っていたの。他所から若い人が来てくれるようになったから大したものね。山本家の悪ガキもいつの間にかちゃんとしたことをするようになったものだととみんなで関心しているのよ」
林さんは山本事務局長のことを言っているようだ。
功と林さんがそんな話をしている間に、真紀は作業を終えたらしく、トラクターが作業道を登ってくるのが見えた。
功は林さんに会釈してから、家の敷地から下の道路に駆け下りた。そしてトラックの前で真紀を待ちかまえる。
戻ってきた真紀はブリッジを乗せたままのトラックの荷台に、前進でトラクターを乗せようとしていたが、功は後進でトラックに乗せるように身振りで伝えた。
真紀は最初怪訝な顔をしたが、トラクターを回頭させると後進でじわじわとブリッジを登る。
功が身振りで誘導するとトラクターは見事に荷台に収まった。
「何で向きを変えさせたの?」
真紀はトラクターのエンジンを止めると功に訊ねた。
「上の畑に続く道はトラクターでは通れそうにないけど、トラックの荷台からブリッジを渡したら上にいけそうなんだ」
功の説明に、真紀は懸念を示した。
「それ危ないんじゃないの。ちゃんとブリッジを固定できたら良いんだけど」
「とりあえずやってみようよ。今度は僕が運転するから」
功がトラックのエンジンをかけながら言うと真紀は様子を見るつもりらしく林家の庭に歩いていった。
功は荷台にブリッジを載せるとトラックをゆっくりと動かしてねらった位置に寄せていく。
ブリッジを架けると思ったよりも安定しており、十分トラクターで渡れそうだった。
自分がやろうかという真紀を制して、功はトラクターの運転席に座った。
「功ちゃん気をつけてよ、ドジなことをされると私が山本事務局長に怒られるから」
真紀はいつになく心配そうだが、功は躊躇なくラクターを始動した。そして、少しパワーを上げるとあっという間にブリッジを渡りきっていた。
問題の畑は家の裏手の山際なのだが意外に面積が広い。
功がトラクターで全面を耕運し終えて、さあ仕上げにかかろうかと思っていると、真紀のホイッスルの音が響いてきた。
功は一体何だろうと思いながらエンジンを切ってそちらを見ると、真紀と林さんが肥料桶を持って立っている。
その後ろには林家の管理機まで鎮座していた。どうやら、時間があるから肥料を撒いてうね立てまでするつもりらしい。
「苦土石灰と肥料を撒くからちょっと待っていて」
待っていろと真紀は言うが、ぼんやり待ってるわけにも行かないので功もそのへんからバケツを調達してきて、肥料散布部隊に参加することにした。
功と林さんが苦土石灰を撒き、その後から真紀がオクラの元肥用の肥料を散布する作戦だ。
「ほらほら、そんなに厚く撒いたら肥料にむらができちゃうでしょう。肥料は薄く撒くのが基本よ」
背後から真紀が小うるさく指示する声が響く。
功はいつものことなので聞き流して平然と作業を続けるが、功と一緒に作業していた林さんは楽しそうに笑って言う。
「あらやだ、私も一緒に叱られてるみたいよ」
彼女にとっては多人数で作業をすることが久しぶりなのかもしれない。
肥料を撒いた後はトラクターで仕上げの耕運をし、最後に管理機でうねをあげていくのだが、功がトラクターで仕上げた後を追いかけるように真紀が管理機でうねを立てて行くので、あっという間にうね立て作業も仕上がってしまった。
功と真紀は仕事が終わって帰ることになったが、とりあえず、上段の畑からトラクターをトラックの荷台に移動させる任務が残っていた。
功はここで落ちたら洒落にならないので慎重にブリッジを渡って荷台に載せることにした。功にとっては、ジェット戦闘機で空母に着艦するくらいに緊張を要する作業だ。
功が無事にトラクターを荷台に移し、真紀と一緒にブリッジを回収してトラクターをロープで固定していると、林さんが二人に告げた。
「どうもありがとう。おかげで今年もオクラがを作れるようになったわ。お礼に今夜は家で宴席の準備をするから事務所の二人にも声をかけて一緒に来なさい」
真紀は仕事でやっているのだからと断ろうとするが彼女は譲らなかった。
「年寄りの言うことは聞きなさい。山本君にも電話しておくからみんなで来くるのよ」
念を押されては真紀も断れず、功と真紀は彼女にあいさつをしてから、事務所に帰った。
功がトラクターを洗ってから片付けようとしていると、真紀が倉庫の脇で手招きした。
「ブリッジで荷台から畑に橋渡ししてトラクターを移動したことは山本事務局長には言わないでよ」
真紀はいつになく、真剣な表情だ。
「あれは、やはりまずい使い方だったかな」
「当たり前でしょ。私が怒られるからとにかく局長にはだまってて」
真紀にも現場指導係としての責任があるのだ。
そんなやりとりをしているときに、山本事務局長が急に二人の前に姿を現わした。
功と真紀は話を聞かれていたのかと慌てたが、山本事務局長はそんな二人の様子に怪訝そうな表情をした。
「おまえ達、林さんちで一体何をやったんだ」
功と真紀は顔を見合わせ、真紀が先に口を開いた。
「ごめんなさい、余計な事をしたかもしれない」
彼女はそう前置きをしてから今日の出来事をかいつまんで話した。もちろんトラクターの橋渡しの話は抜きだ。
「別に謝らなくていいよ、トラクターの作業は作業受託のメニューにあるから追加で料金もらえばいいし、管理機は林家のものを使ったからお手伝い程度の話だ。いいことをしてあげたと思うよ。林さんからさっき電話があって、晩に一席構えるからみんなで来いと言うから何事かと思っただけだよ」
「委託業務で行ったのにお礼してもらっていいんですか」
功が生真面目に訊ねると、山本事務局長はひらひらと手を振って見せた。
「こんな田舎だから、堅苦しいこと言わなくていいよ、林のばあちゃんがせっかく一席構えたのに行かなかったらかえって悪いだろ。この際だからみんなで行くぞ、気を遣うんだったら金子商店で酒でも買って行けばいい」
山本事務局長の考え方は意外とフランクだった。
結局、その日の夕方は岡崎も加わり、四人で林さんの家にお呼ばれし、ささやかな宴会となった。
もともと、集落の中で農作業を手伝ってもらったら、その晩におもてなしをする習慣があるらしい。
その夜は、林さんが山本事務局長の過去を暴露して座は盛り上がった。
山本事務局長は若い頃にロックバンドを作ってメジャーデビューを目指していたというのだ。
本人は必死で否定するが、岡崎の証言も飛び出した。
「そうなのよ、同級生の間でもあこがれの存在でかっこよかったのにねえ」
すっかり過去形にされているのがかわいそうなところだが、山本事務局長にもイケている時期があったらしい。
「事務局長がボーカルだったんでしょ、今度の忘年会の時にお披露目してよ」
「絶対にいやじゃ。」
真紀が水を向けたが、山本事務局長はかたくなに拒絶する。
功は、皆にいじられて機嫌が悪い山本事務局長を見ながら、いつか彼が農林業公社の仕事を始めたいきさつを聞いてみようと思っていた。
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