第7話 移住への決意

 研修最後の夜は、お約束となっているらしい打ち上げパーティーが用意されていた。

 農業体験研修所の事務所の脇にテーブルやいすがセットされ東京ビッグサイトで見せてもらった写真のように、バーベキューのコンロまで用意されている。

 バーベキューコンロの炭火で名産のまほろば牛や地元産魚介類や肉を焼いて味わえる趣向だ。

 パーティー会場の横は広々とした畑が広がっており、夕暮れが近づく空が目に映る。

 研修施設の職員や、長期研修中の研修生そして今回研修に協力した臼木農林業公社の面々も参加して宴会が始まった。

「どうだい宮口君、農業をやってみようという気になったかい」

 岩切が、地元特産の焼酎をドボドボと功のグラスに注ぎながら声をかける。

「そうですね。設備投資のお金さえ何とかできたらトライしたいですよ」

 それは功のいつわらざる本音だ。

「ちなみに、君は有機農業にこだわりがあったりする?」

「いいえ別にそんなことは考えていないんですけど」

 功は岩切の質問に答えながらコップに注がれた焼酎を飲みあぐねて困っていた。

 功にとって焼酎はアルコールが強すぎる酒なのだが、岩切はお茶のような感覚で口にしているように見える。

 岩切は功の答えを聞くとゆっくり飲んでくれと言い残してそそくさと席を離れていった。

 岩切は主催者側として研修生全員に酒を注いで回るつもりらしい。

 功が焼酎がたっぷりと残ったグラスを片手に、暮れていく景色を眺めているといつの間にか真紀が功の横に来ていた。

「お疲れ様でした。慣れない作業ばかりで大変だったでしょう」

 真紀は研修通yと違って優しい言葉をかけてくれるが、彼女が抱えているのは地酒の吟醸酒の一升瓶だった。

 功は無頓着に日本酒を注ごうとする彼女にグラスに入っているのが焼酎だからと断ったが、彼女は事も無げに言う。

「そんなの早くあけちゃいなさいよ」

 彼女は功が焼酎を飲みあぐねていたとは思わないようで、さらに一升瓶を押しつけてくる。

 功はやむなくグラスの焼酎を一気飲みする羽目になってしまい、功の脳裏にはまほろば県の酒の席で自分が最後まで生き延びることができるのだろうかという不安がよぎった。

「功ちゃんはまほろばに来て農業を始めるつもり?」

 研修二日目当たりから功の呼び名は「功ちゃん」が定着している。

「魅力も感じるけど、自営で農業始めるほどお金がないからどうしようかと思っているんだ」

 功の所持金は会社勤務の期間とその後のアルバイトによって貯めた貯金が百万円を少し超えるくらいだ。

 それだけ貯められたのも実家に住んでいるおかげだが、功の言葉を聞いた彼女は、秘かに微笑みを浮かべた。

「それならいいことを教えてあげる、うち農林業公社に研修生としてきたら、技術研修を受けながら毎月一五万円の研修手当がもらえるの。待遇いいと思わない?」

 いきなり話を持ちかけられてもそう簡単に決められることではないし、昨日から話を聞いていたら、研修生と言いつつ農業機械のオペレーターもしているような気配だ。

「僕は農作業をしたのも初めてで、経験が全然ないから無理ですよ」

 功は正直に自分の能力的に無理だと言ったつもりだったが、真紀はそう思っていないようだ。

「大丈夫、オンザジョブトレーニングって聞いたことがあるでしょ。実務ををこなしながらスキルアップしていくから、すぐに戦力として使えるようなるわ、私もいろいろ教えてあげるし」

 功は研修初日の彼女の小うるさい指導ぶりを思い出して少々尻込みしたが、バイト生活の収入を考えると、そこそこの研修手当がもらえて、将来も農作業受託組織のオペレーターとして暮らしていけるのならなんだか悪くないような気がする。

「持ち出しなしで研修が受けられて、後々は職員として採用してくれるならそんなに悪い話ではないかな」

 功はうっかり本音をもらしてしまった。

「よし、あなたは臼木農林業公社の研修生になって働いてくれる気があるということね。局長、彼はやる気あるみたいよ。早くきて」

 彼女の言葉の後半は山本事務局長に向けられていたようだ。

「助かるよ。常時動けるオペレーターが確保できなくて困っていたんだ。4月から研修生扱いにするけどできたら3月から非常勤として手伝ってほしいんだけど」

 功の視野の死角にいた山本事務局長が、スライドインするように功の目の前に現れて、勧誘を始める。

 彼は三月からと言ったが、二月は残すところあと一週間ほどしかない。

「住むところについても、今ちょうど空きが出たからすぐに世話ができると思う」

 功たちも一部始終を見た、研修期間途中で大阪の実家に帰った西村が住んでいた宿舎をあてがうつもりらしく、功はなんだか複雑な心境だ。

「何にしても、地元の連中がなかなか戻ってこないのに、縁もゆかりもないあんたがこうして、まほろば県まで来てくれるのが俺はうれしいよ。とりあえず飲んでくれ」

 そういって山本事務局長が差し出してくるのはボルドー産とおぼしき赤ワインのボトルだった。

 功はここの連中は何故各自が違う種類の酒瓶を抱えているのだろうと絶望的な気分になりながら自分のグラスの吟醸酒を飲み干し、おとなしくワインを注いでもらった。

「結構飲めるじゃないか」 

 功は山本事務局長の声がなんだか遠くから聞こえてくるような気がしており、既に悪酔いしつつあるのは明らかだった。

「山本局長に聞いたけど、臼木農林業公社の研修生になるつもりだって?」

 いつの間にか戻ってきた岩切が功に話しかけたが、功は意識がもうろうとし始めている。

「成り行きでそんな話になりつつあるんですけど」

 功はさっきのお返しに岩切さんのグラスになみなみと焼酎を注いたが、岩切はむしろ嬉しそうにしている。

「功ちゃんが農林業公社に来たら、一人前の農家になれるように私がビシバシしごいてあげるわ」

 真紀が気炎を上げるので、功は思わず首をすくめたが岩切は真紀の元気そうな様子に相好を崩した。

「そいつは頼もしいな。宮口君はうちの長期研修生にしようと思っていたのに、山本君に先手を取られたよ」

 そんな会話が交わされている脇で、功はグラスだけを持ってその一角を脱出した。この連中と一緒にいては酔いつぶれてしまうと思ったのだ。

 そして研修生仲間の吉田さん達が歓談している輪の中に入って、功もまほろば牛のバーベキューにありつくことができた。

「功ちゃんもまほろばに来て一緒に農業をしようよ」

 そう言いながら、さんがテーブルに置いてある酒瓶を見回し始めたので、功は先手を打ってその辺にあった缶ビールを吉田のグラスに注いだ。

 これ以上アルコール度数の高いお酒を飲まされてはかなわないと思いその場の酒のの種類を比較的アルコール度数が低いビールにしたかったのだ。

 吉田は酒の種類には頓着しないらしく、功にも缶ビールを注いでくれた。

「農業って、きついけどやりがいがありますよね」

 功が水を向けると、吉田さんはうれしそうに答える。

「そうとも、いいことを言うね。まほろば県も農業の後継者が少なくなってきているから、功ちゃんもここに移住して農家になってくれればいい」

「功ちゃんて割と人当たりがいいから、オペレーターやっても地域にとけ込めるわよね」

 テーブルの向こう側にいた茜も功に気付いて話に加わる。

 彼女は、農業体験研修所の長期研修生の人とベビーリーフにする野菜の種類がどうとか、功の理解が及ばない話を再開するが、功と吉田はグラスを片手に茜たちを眺めている。

「茜ちゃんは美人だね」

 つぶやく吉田に功もうなずいてみせるが、横合いから功の希望を打ち砕く声が響いた。

「彼女は、榊原さんが農家として軌道に乗るのを待っているらしいわよ」

 声の主は真紀で、彼女もいつの間にか吉田たちのグループに移動してきたのだ。

 おおむね察しが付いていることでも、だめ押しされると何だか気落ちするもので、

 功は恨めしげな目で真紀を見た。

 しかし、真紀は功のそんな様子に気づく素振りもなく微笑んでいる。

「研修生の件は、山本局長は本気で期待しているからまじめに考えてね」

 功は地元からこれほど勧誘されるとは思っていなかったので、意外な気分で周囲の人々を眺める。

「川崎さんはこの辺の農家の後継者なの?。機械の扱いも上手だよね」

 真紀は微笑みながら首を振り、功が油断して空にしていたグラスに再び吟醸酒をなみなみと注ぎながら言った。

「私は東北の出身なの。おじいちゃんとおばあちゃんは農業をしていたけど、私はここに来て初めて野菜とか触ったのよ」

 そういえば、彼女の話し方やイントネーションは地元の人たちとは違っている。

 功は東京からまほろば県までの道のりの遠さを思い出したが、東北からここまではさらに遠い。

「なんで、そんな遠くからここに研修に来たの?」

「私のおばさんの旦那がわだつみ町の漁師さんなの。おばさんが気仙沼市に住んでいた時に、水揚げのために漁船で寄港したおじさんと恋に落ちたんだって」

 親類のつてがあったから研修に来たってことなのかだろうかと考えながら、真紀が吉田に一升瓶からお酒を注いでいる姿を目にしたところで、功の記憶はとぎれた。

 目が覚めた時、功は農業体験研修所の事務所に寝かされていた。

 床の上には新聞紙が敷かれ、毛布まで掛けられている。

 二日酔いで痛む頭を押さえながら起きあがると、枕元には洗面器までおいてあった。

 上半身を起こしたままぼんやりと周囲を見ていると、ソファに座ってコーヒーを飲んでいた岩切が功に話しかける。

「大丈夫か。酔っぱらって、変な踊りをしていたから、急性アルコール中毒にならないか心配したよ」

 岩切の言葉を聞いて功はやってしまったと頭を抱えたい気分だった。

 大学時代の記憶から身に覚えがあり、ヲタ芸の踊りを披露してしまったと察しがついたからだ。

 別の意味で頭痛を感じながら壁の時計を見るともう朝の六時になろうとしていた。

「それから、まほろば牛のバーベキューを食べながら、あのかわいい牛ちゃんがこんな姿になるなんてとか言って泣いているからびっくりしたよ」

 功は皆が起きてくる前にこっそり東京に帰る方法はないだろうかと本気で考え始めた。

 しかし、地方では公共交通機関が少ないので、早朝から姿をくらますのは不可能だった。

「農林業公社の山本事務局長が朝になったら渡してくれと言ってこれを置いていったよ」

 岩切りが示したのは、臼木農林業公社研修生募集要領と書いた物々しい書類だった。

「君にとっては急な話だとおもうけど、こういうのも何かの縁だと思うから前向きに考えてやってよ」

 功はパラパラと書類をめくってみた。A四用紙にぎっしりと文字が並んだ書類だ。最後の方には申込用紙や履歴書のような書式もついている。

「僕は全然農業の経験がないのに、研修生になって大丈夫なんですか」

 功がそう聞くと岩切はコーヒーカップを置くと真顔で答えた。

「大丈夫だよ。そもそも農業研修生というのは農業の技術を身につけるために所定の期間研修するための制度だ。それに、山本君や真紀は一緒に仕事をするパートナーとしてシビアな目で研修生候補を探している。君は彼らのお眼鏡にかなったんだよ」

 功は本当なのかなと二日酔いで霞が掛かったような頭で考えながら起きあがり、岩切に散歩に行ってくると言い残して外に出た。

 空は明るくなり始め一面に朝靄が立ちこめている。

 しばらく歩くと、研修所の隣の農家の敷地が見えてきた。

 そこは肉用牛を飼っている農家で、茶色の毛並みの牛が柵の中を歩いており、功はその茶色い毛並みの牛こそが肉用牛のまほろば牛だと聞いていた。

 前日も散歩に来てしばらく眺めていたため、バーべキューの席で酔っぱらった時に思い出したに違いない

「バーベキューにされなくて良かったね」

 声をかけると、その牛は返事の代わりにしっぽを二回振ってみせる。

 功は牛の顔に個性があるとは思っていなかったが、まほろば牛はつぶらな瞳の可愛らしい顔立ちをしている。

 2月中旬なのに辺りでは菜の花が咲いており春の雰囲気が色濃く、夜が明けてくるにつれて朝靄はうすれていく。

 辺りの森は冬でも落葉しない照葉樹が多い。そのため田や畑の向こうに見える山は緑が濃く、霧が晴れてのぞいた青空が映える。

「ここで暮らしていくのもいいかもしれない」

 どんよりした雲間から日差しが差し込むように功の気分は明るくなった。

 功は、少し日常から離れたおかげで、これまで引きずっていたいろいろなことを吹っ切ることができたような気がしていた。

 三月早々に引っ越してきて研修生として農業を勉強しようと、功は心に決めて農業体験研修所の事務所に戻った。

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