第4話・許嫁、悶える(前)
それは、自室で凛菜さんの温もりを思い出しながら抱き枕にしがみついているときでした。
「きゃあっ! えっ!? うわっ、あれ、ちょっと、なんで! 待って! 出てって! 止まって! 動かないで!」
矛盾した命令が防音性の高い壁を容易く貫通していることから、私の想い人は相当なパニックに陥っているようです。
つまりこれは
で、す、が、慌てる私ではありません。同様の前例を三件程経験済みなので。
「ふぅ」
崩れていた寝巻きを着直し、凛奈さんにお見せしても問題ないレベルまで顔の緩みを正して隣の部屋へ向かいます。
「凛菜さん、大丈夫ですか?」
「氷浦ぁ〜!」
彼女の部屋をノックをするや否や飛び出してきた凛菜さんが……私の腕に……しがみついて……きました……!
せっかく作り上げたスマートな表情は瞬殺され口角が情けない程ぐにゃぐにゃになってしまいましたが、今現在、彼女の眼中に私はいないので(ちょっと切ないですが)気にしなくてもいいみたいです。
「あっあれ……」
震える指先で凛菜さんが示した壁には、黒い点。ではなく——小さな小さなハエトリグモ。体長は1センチもないでしょう。
あまりに凄惨な悲鳴でしたのでアシダカクモかと思っていました。
「どうしよう……あいつめっちゃ動くのめっちゃ早いの……!」
凛菜さんは普段の楽観さが嘘のように、虫が――特にクモが大の苦手。
「安心してください。あれは益虫ですよ。目障りな羽虫を捕まえてくれて――」
「益虫だってわかってても怖いものは怖いの! どうしよう……助けて……氷浦……」
「っ…………」
やばいです……怯える凛菜さん可愛過ぎます……。というかですね、強いんですよ、私の腕にしがみつく力が……! さっきのハグよりも強いんです……!
役得、過ぎますね……クモさん、虫取りだけでなくこんな機会を作ってくださってありがとうございます……!
「で、では私が外に逃しますので 」
殺してしまうのは可哀想ですし、ベランダから逃せば(逃がすところを見れば)凛菜さんも安心でしょう。
「触るの? 直接?」
「手に乗せるだけですよ」
「そんなことしたら氷浦の手、二度と触んないから」
クモが怖けりゃ人まで怖いってことですか!?
涙目でやや怯えながら、拗ねた子供のように私を見る凛菜さん。可愛いですけど、ですけど!
「そんなことになったら私が死んでしまいます! どうすれば……? 」
しばらく返答に悩んでいた凛菜さんですが、やがて一つの結論にたどり着いたらしく、小さな小さな声で爆弾発言を投下しました。
「今日は……氷浦のベッドで寝る」
「!!!!!!!」
落ち着きなさい私!
ここで浮かれて落胆するのは目に見えているでしょう!!
冷静に返答するのです!!!
「わかりました。それで私は凛菜さんのベッドで寝る、と。そういうことですね?」
「ダメ。クモが氷浦に触るかもしれないし。それにもう一人で寝るの怖いから……一緒に寝て」
イッショニネテ。いっしょにねて? 一緒に寝て!!?!??!?
「ほ、本望でしかないですが……しかし凛菜さん、好きな人と一緒に寝ながら……何もできないのは地獄でして…… 」
私! 悪い子です! こんなときに何を言ってるのですか! 凛菜さんを安心させてあげるのが先決でしょうが!
でもでも……私の気持ちは先程きちんと伝えていますし……。
「じゃあ胸触っていいよ 」
「!?!?!?!!??」
凛菜さん!? 何を言ってるのですか!?
「さっき……私の胸がどうたらって言ってたでしょ。私が寝た後なら好きにしていいから……一緒に寝て」
「……は…………はひ……」
あまりの感動で
クモってこんな……とんでもない益虫だったんですね……! 【蜘蛛の糸】を垂らされたカンダタってこんな気持ちだったんですね……!!
×
「おやすみ」
「おやすみなさい」
互いに寝る支度を済ませ、いつも通りのベッドイン。いつもと違う点と言えば……私の目の前に……凛菜さんの背中があること……!
「…………」
電気を消したあとも会話はなく、熱気を帯びた私の呼吸音だけが暗く静かな部屋に響いています。
「…………」
彼女の弱みに付け込むような気がして後ろめたさがないわけではないですが……据え膳食わぬは女の恥!!
……………………いざっ! 失礼いたしますッ!!
「……んっ…………」
「!!!!!!」
エッッッッッッッ!!!
触る……というにはほんの刹那過ぎてパジャマの感触くらいしかわからなかったのですが……今の声……凛菜さんは何かを感じ取ったということ……ですね……?
「ねぇ……氷浦、私まだ起きてるから。寝るまで……もうちょっと待って」
聞きたい……起きてるうちにもっと触って……今の声をもっと聞きたい……!!
いやいやいや、ルールはルール。きちんと凛菜さんが寝付いたことを確認してから……堪能させていただきます。
「わ、わかりました。すみません。おやすみなさい」
「ううん、私の方こそベッド狭くしてごめんね。おやすみ」
そんな! いつだって狭くしてくれていいのに! というかもうベッド一個捨てちゃいますか? ダブルで寝ちゃいますか!?
と、会話を紡ぎたい気持ちをぐっと堪えて凛菜さんが寝入るまでじっと待ちます。
寝返りもせず、ただ、ジッと。
そして体感では一時間程経ったので、念の為に小声で確認してみると、
「凛菜さん、まだ起きてますか?」
「うん」
淡白ながらはっきりとしたお返事……!
そう、ですか、まだ……起きて……。
「……寝ま……したか?」
体感では更に一時間が経過しました。そろそろ……そろそろお休みになられたのでは……?
「まだ」
「!!」
体感……で、は……更に……一時間…………。
「………………」
「…………氷浦?」
りんにゃ……ひゃん……の……こえ……すゆ……。
ねちゃだめ……がんばえ……おっぱ…………さわり…………。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。