肆:快美

「ダイジョブですカ?」


 女の目の前で派手に自転車で転んでみると、立ち止まって手を差し出してきた。

 片言だが、聞き取れないこともない日本語だ。

 こいつが、宗玄の言っていた呪い屋の妻らしい……。

 明るい褐色の髪に、冬の空みたいな色の瞳。燻した香草の香りに混じって、人の血と魚を混ぜて腐らせたような芳醇な匂いがする。

 この女から邪気は感じない。それどころか無垢さすら覚える。隠しているとは言え、その筋のやつらが見れば、そういう気配を少しは感じるはずだ。

 どうやら、本当に妻の方は仕事に関わってはいないってのは信じても良さそうだ。


「ああ、助かるよ。コイツを直したいんだが……見張っててくれないかい?」


「いいデスよ。この国、みな親切。ワタしも、親切、返しタいです」


 じりじりと初夏の太陽が照りつけているにも関わらず、この女はオレの頼みを快く引き受けてくれた。

 こんな人の良さそうな女と、血生臭い呪い屋が夫婦だっていうんだからヒトの世は面白いものだ。

 小走りで駆け出して、人目が着かない路地へ入っていくと、積み上げられたガラクタの影に潜んでいた宗玄がぬっと姿を現した。


「あの女、確かに霊力はすげえが……全くの素人だ」


 工具箱を手渡されながら、オレは宗玄の予想通りだったと伝えて指示を仰ぐ。


灰鳴カイメイを憑かせる。名を聞いたら左足で地面を二度叩け」


 宗玄は、そういいながら懐の小さな万年筆の筒を取り出した。

 薄灰色の煙がもわもわと出てきたと思うと、煙は地面の上に溜まり、灰鳴カイメイの形になる。


「了解。んじゃあ、仕事に戻る」


 不服そうな表情を浮かべる灰鳴カイメイだが、仕事は忠実に実行してくれるようだ。まあ、主従の縛りを受けている怪物ケモノが、主人の命令を無視すれば耐えられない程の激痛が全身を襲ってくるから嫌でもやらなきゃならんものなのだが……。

 走り出したオレの遙か後方から、這うようにして着いてくる灰鳴カイメイを確認しながら、オレは呪い屋の妻が待つ場所を目指す。


「さて……と、これでも買って……と」


 曲がり角を進む前に、自販機で冷たい水を一本買うために立ち止まるとオレの影にぬるりと潜り込んだ。

 訝しげな表情をしていたのを可笑しく思いながら、オレは汗を拭っているターゲットの元まで駆け寄っていく。


「暑い中待たせちまって悪いねぇ」


「Oh……ありガトございまス。いたダきまス」


 冷たい水を手渡すと、呪い屋の妻は無邪気に微笑んでペットボトルの蓋を空ける。

 頬に張り付いた後れ毛を耳にかけて、彼女は喉を鳴らして水を飲むのを横目に見ながらオレは自転車のチェーンに手をかける。

 適当にガチャガチャやりながら、立ち去る様子のない彼女を見上げて他愛もない話を交わす。最近暑いだとか、新婚であることとか、地元では入れ墨は珍しくないとかそんなことを。


「へぇ、ノルウェーだと夏はお日様が沈まないのかい?」


「ハイ、Midnattsol でオットはCecilia ずっと一緒ダよ、言ってくれマシた」


「はっは、幸せそうでいいねぇ」


 目を細める。影がざわめく。

 さっきから手こずっていたフリをしていた自転車のチェーンをガチャリとハメて、オレは立ち上がって思い切り伸びをした。

 ぐぐーっと背筋を伸ばすオレを呪い屋の妻がニコニコと微笑みながら見ている。


「ハイ、子供も、おなかにいまス。わたし、とてもしあわせ」


 無垢な笑顔、木と草の香り、そしてドロドロとした呪いと恨みの残滓が発する腐った魚に似た匂い。

 背筋がゾクゾクする。無垢で無邪気な存在の心をめちゃくちゃにするのは、誰も踏んでいない新雪を最初に踏み荒らす時の高揚感に似ている。


「そういや、Ceciliaってのがあんたの名前かい?」


「あ、はい。オットからハ、いつもはセシルて呼ばれます」


「セシーリア、これからあんたにお願いがある」


 名前を得た。これでオレの仕事は終了だ。

 左足で二回、地面を叩き、オレはきょとんとして小首を傾げている彼女の両手をそっと取って自分の胸元に持っていく。

 ああ、早く命令をくれ。我慢が出来ない。

 足下がビリリと僅かに痺れる。青白い稲妻を体に纏わせた灰鳴カイメイが口を開いた。


「斑、その女の霊力を全て喰らった後、記憶からお前の存在を消せ」


 灰鳴カイメイの口から、宗玄の低い声が聞こえる。稲妻を使って遠くからでもオレへの命令を伝えられるコイツの能力は味方であれば心強い。


「いいよぉ」


 いくらどんくさい素人でも、嫌な気配を感じたのだろう。体を強ばらせて身を退こうとした彼女の手を引き寄せて冬の空みたいな色の眼を覗き込む。

 オレの胸元に体を押しつけられた彼女の首元に顔を埋めた。一気に腐敗臭が強くなる。舌でちろりと彼女の肌を撫でると、ガムシロップを飲んだみたいな灼ける様な甘さが全身を包み込む。

 体をビクリと震わせているセシーリアの背中に腕を回しながら、快感と快楽と灼ける様に熱くなっている頭の中で理性を保つために歯を食いしばる。


『ボクも手伝ってやる。呑まれるなよ』


「ひっひ……頼りにしてるぜ?」


 静の声がして、熱でふわふわぐるぐるしていた頭の芯だけが冷たくなる。

 なにをしているのかはさっぱりわからない。でも、こいつに任せておけばきっと大丈夫だって信じて歯を食いしばっていると、オレの体の内側で暴れていた霊力はいつのまにか大人しくなって静が『よく耐えた』とだけ言って、気配が消えた。

 褒められることは嫌いじゃない。こいつはオレを認めてくれて、褒めてくれて自由にしてくれる。だから一緒に成井家に刃向かえた。ああ、今はそうじゃない。また静が小言を言う前に目の前の仕事に集中しなくちゃいけない。

 霊力をありったけ喰われたセシーリアは、だらりと手足の力を抜いてオレに体を預けた。


「妻の霊力が消えれば、呪い屋は成井家の仕業だと決めてかかるだろう。動きがあればまた連絡をする」


 彼女の首元から顔を離し、肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んでいると、宗玄の言葉が聞こえた。主人の言葉を一方的に伝えてから、灰鳴カイメイは這うように遠くへ去って行く。

 オレは脱力しているセシーリアを抱き抱えながら、近くの公園を目指して歩いた。


「ごちそうさまでしたっと」


 木陰になっているベンチにセシーリアを座らせて、オレは公園を後にする。

 久々に喰った大物の霊力で腹もいっぱいだし、さっさと帰るか。成井家の近くは息が詰まるし……。

 はあ……と溜息を吐いて、駅に向かって歩いているとこちらに敵意をぶつけてくる小さなブレザー姿の女が近付いてきた。

 ああ、沙羅さらか。

 いわゆる、ツインテールという髪型をした年頃の乙女は、オレの前に立ち止まると、気の強そうなつり上がった鳶色の瞳でじろりとオレを睨み付けた。


「……こんなところで何をしているのです?」

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