Episode 4

 馬になど乗ったことがないソフィアであるから、疾駆する訳にもいかず、速さを抑えてラクーを進ませた。普段は乗り手のことなど全く気にかけないため、揺れに揺れて乗り心地は最悪な愛馬であるが、今日は気を遣っているのか、そうでもない。

(……いや、乗りにくいのは俺が飛ばすのが悪いのか)

 確かに早駆けするときは、乗り手に伝わる振動などに構ってはいられまい。速さが優先である。きっと悪意はないのだろうな、と思い直して、ラクーの首を軽く叩いてやった。

 人目と日差しを避け、森の中の小道を進む。木の葉が微風そよかぜにさわさわと鳴った。木漏れ日は柔らかい。

 二人共、元より口数が多い訳ではない。色々話してみたいと思っていたソフィアも、いざとなるとどう切り出して良いか分からなかったし、グレーザーは喋るにしても喋る話題を思いつかなかった。緊張気味の沈黙には些か辟易したが、ソフィアの具合が悪くならなかったことは幸いである。

「もうすぐ着く」

 エディンガー邸から海岸まではそこまで遠くない。森を抜ければ視界は開け、辺り一面の海が見えてくる。

「……着いた」

 ソフィアを抱き上げ、白い砂浜に下ろす。爪先が地面に触れると、軽く沈む、柔らかな感触に驚いたのだろうか。手袋を外して屈み込み、つくりもののような繊手で砂を掬った。

 荷物を外して、ラクーを放す。愛馬は木陰に入り、膝を折って伏臥した。逃げる心配はない。気ままな馬だということをグレーザーも心得ていたし、ラクーの方も彼のことを、己を良く解する主人と認めていたのであった。

「美しい場所だろう……と言っても、分からんか」

 ──空が青い。海も青い。目が痛いほどの青に、色白のソフィアと煌めく銀髪は良く映えた。

「心地良い風ですね……この音も、素敵です。とても落ち着きます……」

 髪がさらさらと靡き、グレーザーの腕を撫でる。

「少し入ってみるか、海に」

「え……」

 差してやっている日傘の下から、不安そうな顔が覗いた。

「見えるものだけが、全てではない。触れねば分からぬものも、あるだろう」

 そう言って靴を脱がせる。

「掴まれ」

 左腕を差し出し、波打ち際へと誘う。ソフィアは恐る恐る、歩を進めた。

 湿った砂を踏み、びくりと身体を震わせる。そして、打ち寄せた波が裸足の彼女の足を洗った。

「きゃあっ」

 驚いて、グレーザーの腕にしがみつく。やがて、顔を綻ばせ、くすりと笑った。

「これが、海なのですね」

 彼女はワンピースの裾を摘んで屈み、水にぱしゃぱしゃと手を浸してみたり、飛沫を浴びては悲鳴を上げたりして幼子のようにはしゃいだ。

(この様を、例えばユリアが見たら、喜ぶのだろうか。それとも俺を憎むのだろうか)

 無邪気な笑顔がグレーザーには眩しすぎて、思わず目を逸らした。代わりに、眼前に茫漠と広がる、彼女には見えぬ海を眺めた。

(……見せて、やりたい)

 その思いが痛切に胸に迫る。

 海は、目にしてこそだと思うのだ。潮風も、冷たく優しい波も、心安らぐ濤声とうせいも、勿論、海というものの一部ではある。が、何と言っても海の美しさは、深みのある、輝く青にあるだろう。

 それだけは、どうしても彼女に伝えることができない。彼女は、青という色を知らないのだから。

 暫くして木陰に退避し、そんなことを考えながら遠い水平線を何とはなしに見据える。その隣で、ソフィアは波音に耳を澄ませながら微睡まどろむ。

「……エルダインさま」

「何だ」

「私、元気になれるでしょうか?」

 唐突な問いに戸惑う。何を言い出すのかと彼女の方を見れば、眠っているようでさえある穏やかな顔で、前を向いている。

「どういうことだ」

「いえ、最近、調子がいいので……このまま、元気になれるかな、と」

「……そうだな」

 彼女の身体が弱いのは、別に病気のせいではないという。となると、単に、体質と、寝たきりの生活が問題である。

「なるべく外に出て、動いた方がいい。それが第一だ。食事も、きちんと摂った方がいい……後は、気持ちの問題だ」

「……やっぱり、そうですか」

「ああ」

 訊かずとも分かるだろうに、と口には出さねど心中で呟く。

「何が言いたい?」

 鈍感なグレーザーは珍しく、彼女が何か言いたそうしているのを汲んだ。生来の口不調法故に、酷く率直な訊き方ではあるけれども。

 ソフィアは苦笑する。

「ずっと、外に行ってみたくて……でも、少し怖くて。エルダインさまがいらっしゃらなかったら、きっと、家でずっとひとりでした」

(礼など、要らぬ。苦しいだけだ)

 グレーザー自身でさえも、感じまいとして押し殺している痛みだ、ソフィアにそれが伝わるはずもない。尚も、彼女は続ける。

「みんな、私のことを気にかけてはくれますが、どこか、見限っているのです。見えないのだから、綺麗なものを与えても、外に出ても意味がないと……私も、そう思って、諦めていました。だから、エルダインさまが誘ってくださったことが嬉しいのです……目が見えないから、と言って連れ出してくださったことが。私の世界を広げてくださったことが」

(……そうか。そういうことなのか)

 彼女の哀しみの一端が分かった気がした。意外そうな顔と、笑顔の理由も、また。

「もしご迷惑でなければ、また、どこかに連れて行ってほしいです」

 ──訊かなければ良かったと思った。そう言われたら、それを、彼女の傍にいる口実にしてしまいそうだったから。

「……そうだな」

 掠れた声を、絞り出す口元──ソフィアのあの笑い方が、いつの間にかグレーザーに移っていた。

 彼女が喜ぶ様を見れば、胸苦しさは消えると思っていた。お礼を言われれば、自分も救われたような気になれるだろう、と。

 寧ろ反対だ。もどかしさとやるせなさだけが募っていく。

(……もし俺が、禁忌を破れば)

 鈍い痛みは消えぬまま、陽は傾き始める。

 ラクーを呼び戻し、発つ準備をした。傍らの、斜陽に照らし出された名残惜しそうな顔に、切ない微笑が戻った。

「エルダインさま。私、海が好きです」

「……そうか。それなら良かった」

 再びソフィアを抱き上げて、鞍に跨り、帰路に就く。

「……きっと、綺麗な場所なのでしょうね。見てみたかったです……」

 グレーザーの口の端が歪む。

 それが本音であろう。黄昏に溶けた呟きは、棘のように深々と突き刺さって抜けなかった。

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