32 追憶

 一歳になった頃、妹ができた。

 自分にきょうだいができるなんて初めてのことで、とても感動した覚えがある。俺の妹。とにかく愛らしくて、目一杯溺愛した。この子と同等か、それ以上に大切な存在なんて、この先増える気がしなかった。

 妹は『唯奈』という名前で、この世に生を享けた。唯奈は昔から、幼い俺の目から見てもわかるくらい、利口で良い子だった。純粋で、人を疑うことを知らない。そんな子だったから、俺が守らなければならないと、強く思った。

 そんな唯奈が二歳になったある日。

 いつも遊びに使っている公園に、先客が四人いた。子供二人と、その両親らしき大人二人。二人の子供の内一人が、唯奈より身体が小さい女の子で、舌っ足らずな声で俺たちに話し掛けてきた。俺たち、というより、唯奈が中心だったと思う。その子の名前は『小春』といった。唯奈より一つ年下の子だった。

 もう一人は、子供であることには違いないのだが、当時の俺たちにはとても大人に見えた。それもそのはず、彼女は小春より五歳も年上の姉で、つまり唯奈より四歳、俺より三歳年上だったのだから。幼い頃は、それだけの年齢差がかなり大きかった。彼女の名前は『聖夜せいよ』といった。

 俺たちは、この出会いを皮切りに距離を縮めていった。いつしか、家族と言っても差し支えない程の存在になっていった。聖夜が九歳、小春が四歳になる年、黒野家に『初夏』という新しい家族が生まれた際も、俺たちはまるで、自分たちにもまた一人妹ができたかのように喜んだ。後に知ったことだが住まいも同じマンションだったので、互いに互いの家を行き来することも日常茶飯事だった。俺も唯奈も、そこが自分の家かのようにくつろいでいた。聖夜たちも聖夜たちで、俺たちの家でも非常にリラックスして過ごしていた。

 何にも代え難い、かけがえのない存在。失うことを考えたら、ひどく怖くなる存在。俺にとって、唯奈と両親だけだった存在。それが、聖夜たち三姉妹だった。


 小学生の頃。当時俺のクラスメイトは、俺が聖夜たちと仲良くしていることをとても不思議がっていた。それもそのはず。聖夜たちはタイプこそ違えど皆活発な性格で、それに比べ俺は、人付き合いも苦手で、昼休みも教室の隅で読書しているような根暗なタイプだ。まさに陰と陽で対極にあるはずの両者が仲睦まじくしている様子は、他人の目から見れば当然いくらか異質に映るだろう。女子とつるんでいることをからかわれたことも、一度や二度じゃない。しかし、俺はそんな周囲の目などどうでも良かった。聖夜たちと一緒にいるのが、何よりも楽しかったからだ。

 俺たちの関係性は、成長しても変わることはなかった。聖夜が中学生になって、部活や勉強で日常が一層忙しくなっていっても、俺たちは──聖夜は、五人揃って集まる機会を絶やすことはなかった。嬉しいことは嬉しいが、無理はしてないか、とつい心配になって問いかけてみると、聖夜は「疲れてても、あんたたちの顔見れば自然と元気になってくるんだよね」と、屈託なく笑った。眩しい笑顔だった。

 変わらない関係性。しかし、俺の心境には、ある変化が起こっていた。それを確信したのは小学四年生の頃、小春に指摘された為だった。

「唯君って、セイ姉のこと好きだよね? 恋してるよね?」

 言われた瞬間は、思考が停止して、咄嗟に言葉を返せなかったことをよく覚えている。

「私知ってるよ。漫画で読んだもん。恋してる人は、キラキラ~ってしてるって! セイ姉とお喋りしてる時の唯君、そんな感じ!」

 小春は当時まだ小学二年生だったが、愛読していた少女漫画の為に、やけに早熟な面があった。

 実は、小春に指摘されるより前に、俺は自分の心境の変化にどことなく勘付いていた。唯奈も小春も初夏も、大切な存在であることに変わりはない。だが、聖夜に対するそれは、何か違う気がした。うまく言葉にできない何かが、決定的に違っていた。またその正体が何であるかは、なかなか突き止められずにいた。ましてやそれを、二歳年下の女の子に暴かれるなんて、想像さえしていなかった。

 恋。この感情は恋。名前自体は知っていた。しかし、経験したことはなかった。いや、ないと思っていた。俺は知らぬ間に、それを経験済みだったのだ。


 この恋心を自覚した直後は、幼い頃から見慣れているはずの聖夜の顔を、普通に見ることができなかった。聖夜の一挙手一投足に、やたら心臓の鼓動が早まった。ただ一方で、確かにこれは以前から度々体感していたことだな、とも確認できた。

 黒野聖夜という人物は、俺たちの関係性と同じように、歳を取ったからといって変化することはなかった。もちろん、精神面での成長はある。だが、心根というか、その人の奥深くというか、そこが幼い頃から変わらない。常に朗らかで、姉御肌で、頼もしく、楽しく、強く、優しい人。今になって考えれば、当時は年相応に、思春期特有の悩みなどもあったろうに、聖夜はそのことを俺たちに全く感じさせなかった。『疲れていても、俺たちの顔を見れば自然と元気になってくる』という言葉に、確かに嘘はなかったのだろう。俺は、聖夜のそんな人柄に惹かれ、やがて恋心を抱いていた。

 小春に恋心を暴かれて数日経った後、唯奈にもそれを打ち明けたのだが、どうやら唯奈も勘付いていたらしく、やっぱりそうだったんだねと半分呆れ気味に言われた。その上で、聖夜姉さんならと、応援の言葉もかけられた。俺は、ここまで周りにあからさまだったらしい恋心と、思いがけず応援されてしまったことによる気恥ずかしさで、顔が真っ赤になった。当時は本当に消えてしまいたい程恥ずかしかったが、今となっては良い思い出だ。いや、俺にとって、聖夜たちと過ごした日々は、全て余すことなく良い思い出なのだ。

 また、唯奈に応援されたことで気付いたのだが、その時の俺は恋心を理解するのに精一杯で、肝心のそれをどう処理するのかを全く考えていなかった。世間的には、恋をした二人は、どちらかが一方に告白して、交際を経て結婚する。小春の影響もあったが、幼い俺でも、それくらいの知識はあった。しかし、聖夜への恋心を自覚したからといって、今すぐどうこうするという気は起こらなかった。当時の俺は、このままの関係性が一番心地よかったし、聖夜に告白したところで、ばっさり切り捨てられることは目に見えていたからだ。俺が小春や初夏を妹的存在としか見られないように、聖夜も俺を弟的存在としか見ていないに決まっている、と思っていた。俺としても、それで不満はなかった。聖夜と一緒にいられて、話して、笑い合えれば、それで満足だった。

 やはり、俺にとって何よりも耐え難いことは、聖夜と離れ離れになることだった。


 そんな心持ちのまま、小学六年生になったある日。

 クラブ活動があり、いつもより少し遅くなった帰り道、その途中の公園に聖夜の姿を捉えた。帰路に就いている時、聖夜に限らず唯奈たちとも、偶然ばったりと出会うことは時々あった。特段珍しいことでもなかったのだが、この時ばかりは状況が違っていた。いつもなら、気安く声をかけるのに、今回は声が出てこない。理由は、聖夜の隣に男子生徒がいたからだ。二人して公園のブランコに腰掛け、アイスを食べつつ談笑している。その姿は、さながら恋人同士のようだった。

 俺は思わず、その場から立ち去った。心が、ズキズキと痛んでいるのを感じる。がむしゃらに歩いている間、脳内には様々な考えが張り巡らされた。彼は何者なのだろう。クラスメイトだろうか。それとも部が同じなのだろうか。聖夜の恋人? いや、まだそうと決まったわけじゃない。聖夜の顔の広さなら、男友達くらいいるだろう。そうだ、単なる友達だ。あれだって、友達同士のフランクな距離感じゃないか。

 と、ここまで考えたところで、一つ疑問が浮かんだ。どうして俺は、聖夜に恋人がいる説を否定したいんだ? だって俺は、聖夜と今以上の関係になることを望んではいないはずだ。今の関係性で満足しているはずだ。聖夜に恋人がいたとして、俺たちの関係性に変化はないはず。現に、いたとしても俺は、そのことに今の今まで気が付かなかった。つまり、聖夜の恋人がいても、それは俺たちの関係性に何の影響ももたらさない。なら、問題なんかない。なのに何故。俺は、聖夜に恋人がいるとは、認めたくないんだ。

 気付いたら、いつの間にか自宅マンションが目の前にあった。夢中で歩を進めていたのだ。家の玄関ドアを開けると、唯奈たちからの「おかえり」という声が聞こえてきた。小春や初夏もいるらしかった。俺は疾る衝動を抑えきれず、唯奈たちに先程の出来事を相談した。今考えると、年下の子らに相談なんて情けない気がするが、当時の俺はそんなことを思考する余裕などなかった。また、妙な羞恥心があったのか、両親に相談するという選択肢もなかった。それに、唯奈も小春も、俺よりかは恋愛のいろはをわかっていたと思う。

 すると、返ってきたのはこんな答えだった。

「簡単だよ! 唯君は、セイ姉と今以上の関係になりたいんでしょ。もちろん、恋人ってこと!」

 単純明快な返答。またもや思考が停止した。ただ、前よりは長く続かず、すぐ我に返った。

「そ、そういうこと……なのか?」

「絶対そう! 唯君ってほんと鈍いんだから。唯ちゃんもそう思わない?」

「確かに、否定はできないかな。私でも、話聞いてすぐわかったくらいだし。というか、聖夜姉さんに恋人なんて、小春聞いたことある?」

「全っ然ない! セイ姉なら、できた時点で私たちに言いそうな気がするけどな~。どう? 帰ってきたら聞いてみる?」

「そ、それは……」

 今はまだ疑惑のままとどまっているが、もし真実になってしまったらと思うと、なかなか首を縦に振れなかった。

「まぁ怖いのはわかるけど、もやもやしたままより、はっきりさせた方が良いんじゃない? 初夏もそうした方が良いって言ってるよ!」

「え……俺?」

 いきなり名指しされた初夏が、驚いて俺たちの方を向く。当時の年齢を考えれば当然だが、流石に初夏にこの話は理解できなかったらしく、早々に飽きて玩具で遊んでいた。だから、突然名前を呼ばれてさぞ驚いたに違いない。

「まだ『俺』とか言ってる。女の子でしょ」

「まぁまぁ、初夏ちゃんは流石にまだわからないんじゃないかな……。でも、私も小春と同じ意見だな。単刀直入に聞いた方が気持ち良いと思うし」

「たんとー……?」

「ずばっと聞いてみるってこと」

「ずばっと……か」


「お邪魔しまーす!」

 と、聞き馴染みのある、快活で頼もしい声が聞こえてきた。聖夜だ。小春たちが駆け寄ってくる。

「おかえり、セイ姉!」

「初夏、ここは唯也と唯奈ん家っしょ~? もー、あんたたち家にいないと思ったらここにいたんだ? 本当びっくりしたわ~」

「えへへ、ごめんごめん。唯ちゃんたちもいるし、つい」

 俺の母親に「いつもすいませーん」と会釈する聖夜。もちろん、母はそれを無下にはせず、快く対応する。数え切れない程見ている光景だ。

「二人もごめんね~、遊んでもらって」

「ううん、気にしないで。私たちも楽しいから。ね、兄さん」

「ん……」

 何故かろくに声を出せず、その代わり精一杯頷いた。やはり直前にあんな話をしていたから、聖夜と顔を合わせること自体どことなく気まずかった。居心地の悪さを感じていると、小春がこそっと耳打ちしてきた。

「唯君、今がチャンスだよ! たんとー……たん……ずばっと聞いちゃお」

「えっ、俺が?」

「まぁ私たちでも良いんだけど、ほら、セイ姉も男らしい人の方が好きなんじゃない?」

「う……」

 当時の俺にとっても、そう言われるとかなり耳が痛かった。両親からの遺伝で、幼少期からずっと周りより身長が高めだった(この時既に、聖夜の身長を超えていた)俺は、その図体を非常に持て余していた。内面は「男らしい」だの「かっこいい」だのとよく言われる見てくれとはかけ離れていて、臆病で女々しいところが昔も今も存在する。聖夜に恋人の有無を問い質すことを渋っていたのが何よりの証拠だろう。外見と内面とのギャップには、当時から悩まされていたのだ。

 しかし、この時ばかりはなけなしの勇気を振り絞った。

「せ、聖夜」

「ん? どうした、唯也」

 心臓が早鐘を打つ。勇気出せ、俺。

「実は、さっき見かけたんだ。聖夜が、その、男の人と一緒に、公園にいるの。えっと、その人とは、どういう……」

 俺の緊張とは裏腹に、聖夜の答えはあっけらかんとしたものだった。

「あー、あれ? あいつはクラスメイトだよ。趣味が合ってさ、仲良いんだよね。家も同じ方向だから、よく一緒に帰ってんの」

 あまりにあっさりとしていたので、少し拍子抜けしたことをよく覚えている。

「じゃ、じゃあ、友達?」

「まぁ、そうなるかな」

「それじゃ、彼氏じゃないってことだよね?」

 小春が直球すぎる質問をしたところ、聖夜は大笑いしながら答えた。

「彼氏? ないない! 絶対ない! 大体あいつ彼女いるし、それもめっちゃかわいい子だし、私みたいな女は恋愛対象外っしょ。私も、あいつを男としては見れないしさ。ずっと友達のまんまだよ」

「そ、そうか」

 安堵の溜息を吐く。「良かった」と、誰にも聞こえないように呟いた。同時に、やはりこう胸を撫で下ろすということは、小春たちの言う通りなんだろうとも合点がいった。

 また、小春が耳打ちしてくる。

「良かったね、唯君!」

「あ、あぁ」


 俺は、聖夜と今以上の関係になりたい。当時はそれで納得がいっていたが、実際のところはそんな簡単なものではなかったのかもしれない。俺の聖夜に対する感情は、恋愛よりも崇拝に近かったように思う。近くにいるはずなのに、手が届かない存在。現代風に言うとか。とにかく、当時の俺が果たして本当に聖夜と恋人関係になりたかったのかと問われると、若干疑問が残る。

 話が逸れたが、その後も特に今までと変わったことはなく、聖夜と一緒に過ごしている時は、やはり幸せに満ちていた。しかし、欲が出てきていたのは紛れもない事実だったと思う。聖夜が、同級生と一緒にいるのを見ると、嫉妬のような焦りのような念に苛まれた。あの人は一体どこの誰なんだという疑念。あの人に聖夜を取られたらどうしようという不安。聖夜ともっと一緒にいたい、とその時既に強く願っていた。

 ならばいっそのこと、この想いを聖夜に打ち明けてしまえば良いのかもしれない。それも考えたが、実行は憚られた。もし、告白したことによって今の関係が壊れてしまったら。優しい聖夜なら、俺からの告白を受けた後でも、今まで通りに接してくれそうな気もする。しかし、それだって決して、完全な〝今まで通り〟にはならない。どこかしらで必ず影響が出る。必ずしこりが残る。俺は、そのことが本当に怖かった。こんな状況になるくらいなら、勇気が出ないなら、俺のこの想いは、墓場まで持って行こうと思った。聖夜への恋心と、決別する気にもなれなかったからだ。

 気が付いたら俺は中学生になっていた。聖夜も、高校生になっていた。

 聖夜は高校に進学して、近所のラーメン店でバイトを始めた。昔からラーメンが好きだったから、提供する側にもなりたかったのだそう。俺たちも、聖夜の手作りのラーメンを昔からよく食べていた。俺にとって、どの店のラーメンよりも美味しかった。

 聖夜の初めてのバイト代で、ラーメンを奢られた時。藪から棒に、聖夜から問われた。

「唯也さぁ、高校生になったらここで働く気ない?」

 あまりに唐突だったので、やはりすぐさま返答できなかった。

「ど、どうして?」

「いや~、やっぱ唯也はラーメン屋向いてると思うんだよね。だってラーメン好きっしょ?」

「それは、まぁ」

 最初のうちは、聖夜の手作りラーメンだけが好きだったが、だんだんとラーメン自体が好きになっていった。

「それに力仕事とかも。中学生の癖して、私よりもずっと背高いし、あんたが入ってくりゃ百人力だと思うんだよね!」

「そ、そうか? じゃあ、少し考えてみる」

 口ではそう言ったものの、内心では、聖夜に必要とされている事実に浮かれていた。ただ人手が欲しかっただけなのかもしれないが、それでも嬉しかった。この時同席していた唯奈でもなく、妹の小春と初夏でもなく、俺に声をかけてくれたこと。

「えー、良いじゃん! 唯君、セイ姉と一緒に働いちゃいなよ!」

「うん。ここで二人が働いてる姿、見たいな」

「俺も! 唯也のラーメン、食いたい!」

 聖夜に続いて、唯奈たちからも期待の眼差しが注がれる。押しに弱い俺は、こうなると断れない。ただ、先程も述べた通り、今回の場合は俺自身も乗り気だった。

「ん……じゃあ、わかった」

「おー!」

「その代わり、聖夜もここ辞めるなよ」

「わかってるって! 約束!」

 聖夜が右手の小指を差し出してくる。俺も差し出して「ああ、約束」と、指切りをした。


 その日以来、俺はこの約束を忘れた瞬間はなかった。高校生になったら、あのラーメン店で、聖夜と共に働く。当面の目標はそれだけだった。また、高校も、聖夜と同じ高校──月高に通いたいと思った。当然、俺が高校に進学した時は、聖夜はもう高校生じゃない。ただ、聖夜と同じ制服で身を包みたかった。それに、月高なら徒歩で問題なく通える。学力的にも問題ないはず。

「兄さんも、月高に行くつもりなんだ」

「ああ」

「あそこなら近いもんな~。俺もそこにしよっかな」

「うんうん、みんなで行こ!」

「もう、気早いな~、あんたら。小春と初夏は、まず中学のこと考えなって。いや、初夏はまだそれも早いか」

「あー、中学か~。私もう来年だもんね。セーラー服かわいいし、楽しみだな~! 唯ちゃんも、似合ってるし!」

「そう? ……ありがとう」

「俺、スカートとか動きづらいし嫌なんだよなぁ」

「あははっ、それ、私もおんなじこと思ったかも」

 いつも通りの、何気ない会話。俺は大体眺めているだけだったが、そこには、未来への希望が燦々と輝いていた。

 やがて、俺は中学三年生になった。中学卒業ももう目前。大抵の人は、ここが人生の岐路の一つだ。しかし、俺の歩む道は既に決まっていた。

 それに、俺よりも聖夜の方がずっと、重大な局面に立っていた。高校三年生。大学へ進学するか、社会へ出るか。聖夜はそのことを、真剣に考えていた。

「うーん、やっぱやりたいこと最優先! の方が良いよね」

「聖夜のやりたいことは何なんだ?」

「それがさぁ、ありすぎて決めらんないんだよね、これっていうのが。大学にも行ってみたいし、社会人の一員にもなりたいし」

「聖夜らしいな。そうだ。聖夜はラーメンが好きだから、ラーメン屋に弟子入りするなんてどうだ?」

「あ~、それも考えたよ。でも正直、決め打ちできるレベルの熱はないっていうか。ありすぎて決められないって言ったけど、逆に特別やりたいこともないんだよ。まぁこういう場合って、大学に行くのが一番無難なのかな」

「良いんじゃないか。聖夜がそれで良いなら」

「うん。とりあえず、行けそうな大学は目星付けとくか。唯也はもう、決まってるもんね。月高の先輩として言っとくけど、良い学校だよ! 校則もそんな厳しくないし、治安だって悪くない。学力レベルも、唯也なら余裕だろうし。念には念を入れといた方が、それに越したことはないけどさ」

「そうだな。もし落ちたら事だからな。完璧な対策をしなければ。アドバイスありがとう、聖夜」

「礼には及ばないよ。先輩として、幼馴染みとして当然のことをしただけ。てか、あんたなら私に言われなくたってそうしたっしょ」

「それはまぁ、そうかな。はは」

 受験生同士のそんな会話を、何度交わしたことか。


 そのうち月日が流れ、夏休みに入った。

 そこで、みんなで海へ行こうという話になった。発案者は聖夜だった。受験生なのに(結局聖夜は、近隣にある私立大学への受験を決めた)そんな遊んでいて良いのか、と両親からは苦言を呈されていたが、聖夜は「こんな時だからこそ遊びたいんだよ」と言って聞かず、最終的には両親側が白旗を掲げた。全く以て聖夜らしい、と微笑ましく思った。

 唯奈たちも、互いの家族ぐるみで海へ行けることをとても楽しみにしていた。しかし、俺だけは家に残り、一人受験勉強に時間を費やすことにした。直前まで迷ったが、やはり備えあれば憂いなし。聖夜たちも、少し残念がってはいたが、納得し応援してくれた。

 そして、当日。聖夜たちを見送った後、すぐ俺は受験勉強に取り掛かった。が、生憎集中できているとは言えなかった。脳内の僅かな隙間に、聖夜たちのことが入り込んでくる。今どの辺りの場所にいるだろうか。楽しめているだろうか。何かトラブルに巻き込まれてはいないだろうか。思考すれば、きりがなかった。昼食を摂っている時など、もう脳内にぎっしり詰まっている。やはり俺もついていけば良かったかもしれない、と少しばかり後悔した。

 夕方。そろそろ帰ってくる頃のはずだ。みんなから土産話でも受け取ろう。来年こそは、一緒に行きたいな。そうだ、勉強でわからない箇所があったから、聖夜に聞いてみよう。

 そう心待ちにしていた時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面を見てみると、父の名前があった。どうしたんだろう。疑問に思いつつ、スピーカーにして応答した。

「もしもし、どうした?」

 父が用件を口にした。

 その内容は、瞬時の理解がとても難しいものだった。脳内で処理できず、撥ね付けられてしまうもの。それでもやっとの思いで理解できた。しかし、飲み込んだ途端、視界が眩んだ。呼吸ができなくなった。今すぐ吐き出してしまいたくなる程の拒否感に苛まれた。床に座り込む。立てない。身体の震えが止まらない。すぐさま次の行動を開始させないといけない。頭では理解できている。なのに、身体が受け入れを拒絶している。


 海で初夏が溺れた。初夏は意識もあって無事だが、それを助けようとした聖夜が、意識不明で近くの病院に搬送された。今そこにいるから、来てほしい。

 電話の向こうの震えた声は、そう告げたのだ。


 聖夜が搬送された病院は、電車一本ですぐに着く場所にあった。駅も二つだけ隣で、移動にそこまでの時間は要さなかった。この時程、乗り心地がしない電車はなかった。実際、家を出てから病院に着くまでの細かい記憶は、今の俺の脳内から綺麗さっぱり抜け落ちている。いくら思い出そうと頑張っても、ほとんど思い出すことができない。無論、自ら進んで思い出そうとした経験も少ない。

 病院に着くと、待合室に聖夜と初夏以外のみんながいた。全員が憔悴しきっていた。尤も、あちらから見た俺も同じ様子だったろう。話を聞くと、どうやら初夏も大事をとって病室で安静にしているらしい。眠ってはおらず、話もちゃんとできる状態だが、当の本人は口を利きたがらないとのこと。当たり前だ。初夏も不安で仕方ないに違いない。初夏が無事であるのは、俺たちにとっても喜ばしいことだ。聖夜が助けてくれた。しかし、その聖夜は今、予断を許さない状況なのだ。初夏が無事である喜びよりも、聖夜の無事を祈る思いが勝ってしまっている。

 そこから何時間経っただろう。時間という感覚を、当時忘れてしまっていたので、具体的な時刻は覚えていない。ただ、食事も睡眠もろくにとることができないまま、日は沈み、空に闇が広がり、病院内の出入りもめっきりなくなった頃であることは覚えている。主治医の先生が来た。

 その人は簡潔に、明瞭に、だが悲痛混じりに言った。聖夜の、一命は取り留めたものの、昏睡状態に陥ったことを。いつ目覚めるとも知れないことを。明日目覚めるかもしれないし、何十年も目覚めないかもしれないし、このまま一生眠ったままかもしれないことを。

 それが告げられた時の光景は、今も想像するだけで目眩がする。小春たち聖夜の家族はもちろん、唯奈も、俺の両親も泣き崩れた。一方で俺は、どこか他人事のようにそれを見つめていた。まるで実感がわかなかったのだ。俺だけが、この場から取り残されている気分だったのだ。父からの知らせを聞いた時の、意識が飛びそうな感覚とはかけ離れた、冷静で頭が澄んでいる感覚。自分で自分が怖くなった。何故こんな時に限って、俺の涙腺は一滴の涙も出してこないのだろう。

 後に考えてみてわかったのだが、俺の脳はこの時、一切の情報の受け入れを拒否していた。というより、脳自体が既にパンクしていて、正常に機能していなかったのだ。要するに俺の精神は、もう崩壊しているのと同じだった。


 それから三年が経った。

 聖夜は、事故から一週間経った後に俺たちの家の近所にある大学病院に転院され、現在はそこで眠っている。未だに昏睡状態のままで、意思疎通もできなければ動くこともない。生命活動は維持しているので、それでも生きているということになるのだろう。

 三人は立ち直ってきている。あの頃より精神的にも肉体的にも成長して、普段はつらい過去など感じさせない程明るくて元気だ。しかし、当然と言えば当然かもしれないが、海は克服できておらず、特に初夏は海を一目見るだけで発作を起こす。

 三人の傷も、たった三年で癒える程浅くはないのはわかっている。だが、生傷が一番癒えていないのは、間違いなく俺だ。海が嫌いになったのは言うまでもないが、この経験を経て俺は、必要以上に人と関わらなくなった。それができる程の気力が、とっくに失せてしまったのだ。傷を抱えていながら、努めて快活に振る舞える三人が眩しい。直視したら、目が潰れてしまいそうな程に。かつて聖夜に抱いたものと同じ感情を、三人にも抱いている。

 高校生に上がったばかりの頃、バイトを始めた。無論、あのラーメン店で。しかし、どうしても足りない。聖夜がいない。どこを探してもいない。

「聖夜も辞めるなよって、約束しただろ」

 頻繁に、罪悪感と後悔が、俺の心に押し寄せることがある。あの時俺も行っていたら、聖夜も助けられたんじゃないか? 聞いた話によると、俺たちの父も聖夜たちの父も助けに入ったらしいが、もしこの中に俺もいたとしたら、何か変わっただろうか。過ぎたことに関して考えても、わかることは何一つない。俺の望んでいる通りのシナリオになったかもしれないし、却って足手まといにしかならなかったかもしれない。俺の脳内で、堂々巡りを繰り返している。

 過去は変えられない。だが、未来は変えられる。俺にはまだ、失いたくないものがある。それは無論、唯奈たちだ。過ちを犯した俺は、これ以上罪を重ねる訳にはいかない。三人は俺が守る。例え周りにどう思われようと、本人たちにも煙たがられようと、俺にはそうする義務がある。そうすることが、聖夜への贖罪だ。と、勝手に思っている。

 今の俺は、聖夜に合わせる顔も、三人を守る資格もない、単なるエゴの塊だ。しかし、俺はもうこれ以外に生きる術がない。三人も、聖夜たちの家族も、俺の家族も、みんな前を向いている。俺だけが、過去に囚われたまま、ずっと進めていない。


 とあの会議室で顔を合わせた時、どこか同じものを感じた。そういうシンパシーの類は、もともと特に信用している訳ではなく、今回も大して大事にはしていなかった。だから驚いた。彼が、俺が聖夜たちに抱いている感情と、同じ感情を唯奈たちに向けていることに。また、唯奈たちも、俺と彼が似ていると感じていたことに。俺のシンパシーは当たっていた。俺自身だけではなく、第三者までも認識している程に。

 思えば、彼があの日俺たちの教室へ来たのも、何かしらの打算があったように思える。大方、唯奈たちから相談を受けて。そうされても仕方がない程に、俺の言動は目に余るものだった。弁解の余地などない。

 それに、俺の心配は全くの杞憂だった。実際に対話してみてわかった。彼らはきっと、俺の危惧したような危険な人物ではない。寧ろ、警戒されているのは俺の方だ。

『もう既に壊れてるから、気にしなくて良いなんて言うんですか?』

 ──痛いところ、突かれたな。

 その通りだ。俺は、唯奈たちとは違う。絶望の底に射し込む光の先へ、どうしても進むことができない。進もうとしても、身も心も満身創痍で、傷が悲鳴をあげる。このままでは俺は、ずっと絶望の底で生きる羽目になる。それは間違いなく地獄だ。だがもうそれで良い。地獄で生きることを選んだのは俺自身だから。

「兄さん」

「──え?」

 回想に耽っていると、不意に唯奈から話しかけられた。

「……どうした?」

 平静を装って尋ねると、無言で手書きの地図を渡された。その場所は、俺にとっても、唯奈たちにとっても、印象的な場所だった。

「この場所、って」

 唯奈は、真剣な眼差しで答えた。

「明日の放課後、ここに来て。みんなで話したいことがあるの」

「みんなで……? ということは、お前たちも同席するのか? 大丈夫なのか?」

「心配ありがとう。でも、大丈夫。私たちで決めたところだから」

「それなら良いが……。彼らも来る、のか?」

「うん」

 唯奈は本気そうだった。

 やはり、唯奈たちは前に向かって歩いている。でも俺は──。

「お願い。絶対に来て」

「──!」

 妹の、真摯な眼差しを一心に受け止める。何の目的があるのか、そこまではわからない。しかし、断る理由も見つからなかった。俺としても、彼らにしっかり謝罪できるのは好都合だった。

「……わかった」

 かくして明日、唯奈たちと話し合うことになった。あの忌まわしき場所、二駅先の海沿いにあるカフェで。

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