29 目覚め
今日、夢を見た。あの頃の夢だ。
小学生の頃の俺と千歳が、病室で楽しげに話している。内容は、近づく千歳の誕生日会について。何がしたいとか何がしたくないとか、笑顔で言い合っている。当時は、千歳の体調がとても良かったので、誕生日会を決行することができた。
「俺はね、やっぱクラッカーしたい! 千歳の誕生日祝ってる~って感じすんじゃん」
「ふふ、その気持ちは嬉しいよ、ありがとう。でも、あんまり大きい音出すと、他の患者さんに迷惑なんじゃないかな」
「あー、確かに、個室とはいえなぁ。じゃあさ、その分飾り付けはめちゃくちゃ豪華にしよ! マジでハッピー! って感じで!」
「あはは、マジでハッピー、か。良いね、そうしよう」
「でもやっぱさ、千歳がやりたいことしたいよ。千歳の誕生日会なんだから、俺のやりたいことばっかはちげーじゃん」
「僕の、やりたいこと……」
う~ん、と唸りながら考えている千歳。千歳は、大人しく自己主張が控えめな性格で、あまり自分から発言をしない。みんなが良ければ自分も良い、というスタンスだ。それが彼の長所であり、短所でもあった。
「ううん、僕は大丈夫。秋人や、みんなと一緒に誕生日会ができるだけで、僕のやりたいことは叶ってるよ」
「そう? 欲しいもんとかないの? 例えばほら、新しい植物図鑑とかさ」
「新しい……か。ちょっと興味はあるけど、でも、ずっと使ってるやつがあるし、それを大事にしたいかな。気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう」
千歳は、新しいものより自分が昔から使っているものを大切にするタイプだった。ただ今思えば、千歳は既に人知れず、自分の死期を悟っていたのかもしれない。
「う~ん、じゃ、ケーキは? どんな種類が良い? それは千歳が決めてよ! 俺は何でも好きだからさ」
「種類かぁ。正直そんなにわかんないし、食べられるのも限られるだろうけど、無難にいちごが良いかな」
「あー、定番! って感じするしね!」
「あっ、あと、これはケーキじゃないんだけど、りんごも、食べたい……かな」
少し照れくさそうにはにかむ千歳。千歳はとても少食だったけれど、好物のりんごは本当によく食べていた。
「ヘヘ、千歳ももう十一か。誕生日会、楽しみだなー!」
「……うん、そうだね。……あ、お母さん」
「え? ……あ! ほんとだ! 千歳のお母さーん!」
千歳の見つめている方向に振り返ると、入口に千歳の母親が佇んでいた。思わず手を振る俺。千歳の母親は、俺たちに見つかって驚いたのか、千歳と似た顔ではにかんでいる。
「あら、見つかっちゃった。二人で楽しそうに話しているから、邪魔しちゃ悪いかなって。お誕生日会の話してたの?」
「はい! やりたいこととか、いっぱい話してたんです! 話してるだけでも楽しかった! な?」
「ふふ、うん。そうだね。お誕生日会、楽しみ」
「そうね。もう来週だものね。やれることは限られると思うけれど、目一杯盛り上げましょうね」
千歳の母親の言葉に、笑顔で頷く俺たち。誕生日会には、俺と千歳の他にも、妹である千景と千歳の母親と父親、主治医と看護師数人が参加予定だった。
しかし、千歳と俺が誕生日会を迎えることはなかった。
場面が急に飛ぶ。千歳の誕生日会当日。俺は一人で千歳のもとへ行って、おめでとうを伝えた。千歳の母親は、パート終わり、千景を迎えに行ったあと合流するとのことだった。父親も、今日は大急ぎで仕事を終える、と言っていたらしい。
また飛んだ。俺は、病院の自販機で飲み物を買っている。トイレからの帰りで、喉の渇きを覚え、ついでに千歳の分も飲み物を買ってから帰ろうと思ったのだ。
それらの飲み物をどう処理したかは覚えていない。
病室に戻った時、千歳は、ぐったりしていた。
がむしゃらにナースコールを押したが、もう──。
そこで目が覚めた。
飛び起きた瞬間、寝汗が頬を伝う。寝間着のTシャツが、大量の汗で背中に引っ付いているのを感じる。こんな最悪な目覚めは久しぶりだった。
当時の夢を見ること自体は何度かある。だが、こんなにはっきりとしたものを見るのは初めてだ。夢にしてはやけにリアルで、本当にあの頃に戻ったようだった。それが言いようもなく嬉しくて、言いようもなくつらかった。
今日という日にこんな夢を見たのは、他でもない、まさに今日が千歳の母親に会う日だからだろう。
葬式の件を抜きにしたとしても、五年振りだ。緊張しない方がおかしい。当時、小学五年生だった俺は高校一年生。千歳の母親も、驚くだろうな。千歳の家族とは連絡を絶っていた。だから、俺がどんな中学へ行って、どんな高校へ行ったのか、知るはずもないのだ。そのへんも聞いてくるかも……。
……あれ? 待てよ。じゃあ何で、千景も母親も、あの時正門で待っていたんだ? いや、母親は千景から聞いたのかもしれない。なら千景は、どうやって俺の通ってる高校に辿り着いた? 冷静に考えれば当然の疑問なのに、あの時は気が動転していてそれどころではなかった。今でも近所ではあるっぽいし、偶然制服姿の俺を見掛けた、とかかな。
まぁ、今大事なのはそれじゃないか。早いとこリビングに降りて、顔洗って、朝食を腹いっぱい食おう。腹が減っては戦はできぬ。別に戦う訳じゃないけど。
「おはよ~」
いつもの調子で、先に起きているみんなに挨拶をする。みんなも各々、いつもの調子で返した。
「あの、お兄」
「ん? どったの?」
と、俺より先に朝食を摂っていた秋葉が、その手を止めて話しかけてきた。
「えと……今日、会うんだよね。その、千歳さんのお母さんに」
「うん、そうだよ。それが?」
「私のことも、伝えておいて。まぁ、元気ですよって」
「! ……ん、おっけー! 任せな!」
秋葉も、千歳の母親とは交流があった。優しくて穏やかな千歳の母親に懐いていたし、慕っていた。だから、やはりそれだけに、当時のショックは大きかっただろう。静かに俺を責め立てる千歳の母親に圧倒され、今にも泣き出しそうな顔で一点を見つめている妹の姿は、思い出すだけで胸が苦しくなる。きっと現在も、俺や母ちゃんと同じような複雑な気持ちを抱いているに違いない。
「他には何かある? 今こんな部活やってますよ~こんな趣味ですよ~得意科目はこれですよ~とかも言おっか?」
「何それ。そこまではいいって」
「だって、秋葉もあの頃よりでかくなってるじゃん。あー、でも身体は薄っぺらいまんまか」
「だから、いらないって言ってるでしょ。からかうなら、私がお兄の代わりに会ってこようか?」
「ご、ごめんごめん! 冗談だよ、そんな怒んなって」
「はぁ……。頼んだからね」
「ほーら、そこまで! 秋人、今日はたくさん作ったからね。たんとお食べ!」
母ちゃんが、朝食をテーブルに運んできた。言葉の通り、いつもよりだいぶ量がある。ラインナップも、とんかつやハンバーグといった、いわゆるがっつり系と呼ばれる食べ物たちがほとんど。
「うわ、多すぎ……。本当に、朝からこんなに食べられるの? 気持ち悪くなりそう」
少食な秋葉にとっては、見ているだけで腹いっぱいどころか吐き気を催しそうなメニューだ。眉間に深くしわが寄っている。俺も流石に、このメニューをこの量でこの時間に食べるのなんて、中学時代の部活の試合当日以来、いや、それでもここまでの量はなかったかもしれない。完食できるかも微妙なところだ。
「母ちゃ~ん、気持ちは嬉しいけどさ、流石に多すぎるって。まぁ、頑張って食ってはみるけど」
「あはは、ごめんごめん。張り切りすぎちゃって。お腹いっぱいなら、お父さんも一緒に食べてくれるから」
「えっ」
既に朝食を摂り終え、テーブルで新聞を読んでいた父ちゃんが、母ちゃんの言葉に小さく驚く。母ちゃんは、父ちゃんに対し時々こういう無茶振り(?)をする。明るくて冗談好きな母ちゃんと、真面目で物静かな父ちゃんは、性格としては正反対だ。それでも、こうして家族になれているというのは、どこかしら通じる部分があったのかも。
「……もう自分の分は食い終えたし、全部を食える保証はないぞ」
溜息混じりに返す父ちゃん。父ちゃんは、母ちゃんのジョークに呆れることはあっても、怒ることはない。少なくとも、俺は見たことがない。
「大丈夫! どうしてもってなったら、私も手伝うし。秋葉もお願いね!」
「は!? 絶っ対嫌だから! 私まで巻き込まないでよ!」
ただ、秋葉はよく怒っている。もともとの性格もあるだろうけど、反抗期? ってのもあるのかな。
「お兄、絶対完食してよね。お父さんの為にも」
「あ~い、頑張るわ。いただきまーす!」
俺は、この家族ならではの空気感、会話、ふざけ合いが大好きだ。仮に俺が一人暮らしを始めたとしても、定期的にこの時間はとりたいと思っている。
千歳は、家族だけの時間を、どのように過ごしていたんだろう。俺らと同じ家族構成だったけど、みんな穏やかなタイプだったから、うちとはだいぶ異なるんだろうなぁ。
俺から見た千歳と、家族から見た千歳は違う。今日は、余裕があればその辺も聞いてみようかな。
「秋人」
と、不意に母ちゃんが話しかけてきた。何なのだろうかと、首を傾げる。
「……今日、頑張ってね」
「あ……あぁ、うん!」
内容は、純度百パーセントの激励。なはずなのに、俺はどこか違和感を覚えた。何だか、母ちゃんの笑顔がぎこちなく感じたのだ。いや、母ちゃんはいつも早起きだし、単に眠かったり疲れたりしてるだけなのかもしれない。
とはいえ、激励されたのは事実だ。千歳の母親に、息子さんのバカで元気だったかつての友達はこんなに立派に育ちましたよ、ってこと、言動で表さなきゃ。
朝食を摂り終え、部屋に戻って、スマホを見る。液晶に、いくつかメッセージの通知が映っている。光ちゃんたちからだ。
千歳の母親と会うことを決心した翌日、俺は光ちゃんたちにもざっくりと話した。だから、今日のことも知っている。
通知をタップして、確認する。やっぱり、心配させちゃってるな。返信するために、メッセージを一つ一つ読む。
『起きてるか? よく寝れたか? 飯は食ったか? 今日は正念場だな、しっかり気張れよ』
「はは、光ちゃん、お母さんみたい。てかほんとに、試合前の内容だな」
この字面に、懐かしさを覚える。中学時代、部活の試合前に、よく光ちゃんからこのような内容のメッセージが届いた。一見淡々としていてぶっきらぼうに感じるけれど、こちらを気遣いエールを贈っているメッセージ。変わらないもんだなぁ。
他にも。
『おはよー😃 いよいよ今日だね。私たちは応援することしかできないけど、ファイト💪』
『秋人君、おはよう。体調は平気? 緊張してないかな? あまり肩に力を入れすぎないで、程よく気を抜いてね』
『おーい、起きてる? 過去と向き合うのはつらいだろうけど、頑張れよ。秋人ならできる! って、美玲も言ってるし』
『おはよう。応援してる。頑張って』
『秋人君、おはようございます! 僕たちは何があっても秋人君の味方ですからね。つらかったら、僕たちにも分けてください』
冬樹のメッセージまで読み切った瞬間、要さんからのものもきた。
『悪い、今起きた。もう朝飯は食った頃かな。昨日も言ったけど、お前本当すごいよ。苦しい過去に向き合うなんて、そうそうできることじゃない。誇るべきことだ。胸張って行ってこい』
胸と目の奥が、どんどんと熱くなっていく。俺にとって、最高の仲間たち。これらが本心かどうかは、正直わからない。でも、偽物であれ何であれ、この言葉たちが俺の心を奮い立たせたのは、紛れもない事実だ。それはもう、この先何があったとしても、揺らぐことはない。
と、かなり早朝に先生たちからも来ていたことにようやく気付いた。通知仕事しろよ、とぼやきつつ読む。春樹先生のは『頑張れよ』というメッセージと、人気マスコットキャラクターが応援してくれているスタンプだけな、簡素だが心打たれるもの。対して、雫先生のものは嘘みたいに長い。雫先生の性格が表れているが、これではメッセージというより手紙だ。
「え~っと……『拝啓、秋人様。本日はお日柄もよく』……あ~長えし全然読めねー! でも、要するに頑張れってこと? 何か、結構ポジティブっぽい言葉書いてあるしな」
しかし、文面一つとっても個性が表れまくってるの、本当面白いな。みんな各々、自分なりの激励を送ってくれている。ありがたいな。俺は、光ちゃんたちにメッセージを返信した。
✴
約束の時間が近づく。俺は、目的地のカフェへ向かって歩いていた。
家から寺への道は、なんとなく覚えていた。というか、この間も行ってそのまま帰ったし、やっぱりこれも、身体が覚えているもんなのだろう。
と。
「ここ、だよな。……あ」
約束した地であろうカフェを見つけた。それと共に、窓際で佇んでいる千歳の母親も見つけた。注文したものらしきコーヒーカップが机に置かれている。あと、何か本を読んでいる。小説だろうか。それとも、自身の日記だろうか。
あれ、どうしてだろう。以前のように、背筋が凍りつく感覚がない。緊張はしているものの、それも嫌な緊張じゃない。
考えていると、千歳の母親がこちらに気付いた。急いで会釈をすると、あっちも微笑みながら返してきた。あの優しくて柔らかい笑顔。昔と全く同じで、安心感さえ覚える。しかし、同じなはずなのに、どこか影を感じるのもまた事実だった。単なる記憶違いか、それとも五年で変わったのか。
店内に入り、千歳の母親のいる席へと向かう。遂に対面だ。
「あ、あの……久しぶりです」
「……ええ。久しぶりね、秋人君」
互いに、ぎこちない挨拶を交わす。そのまま、どうすべきかわからずに突っ立っていると「座って大丈夫よ」と言われたので、言葉通り千歳の母親の前の席に座る。
「何か、注文したいものはある?」
「えっと、いや、大丈夫です。水だけで」
「そう」
『……』
気まずい沈黙が二人の間に流れる。呼び出したのは俺なんだから、俺から切り出すべきだ。なのに、どう話し始めれば良いのか全然頭に浮かばない。いきなり本題から入るべきか、それとも、雑談から入るべきか。普段光ちゃんたちと話している際には、ここまで考え込むことなんかない。それは、昔の千歳の母親に対しても同じだったはずだ。あの頃と同じように、は無理だろうが、とにかくあの頃を思い出せ。
ぐるぐる考えを巡らせていると、千歳の母親から切り出された。
「今日は、秋人君から会いたいって言ってくれたのでしょう?」
「あっ、そうですね。まぁ、色々話したいなーなんて」
曖昧すぎる、あやふやな回答を返す。ここが本題なのに、誤魔化したって仕方がない。頭ではわかっている。ただ、直接的な言い回しをすることに対して、日和ってしまっている自分が存在する。
すると、千歳の母親は顔を曇らせた。千歳の葬式の時でさえ、この表情は見たことがなかった。ただ何かを気に病んでいるというよりは、罪悪感を抱いている。そんな印象だ。
「いや、そんな顔しないでください! 元はと言えば俺が──」
とりあえずそれを晴らそうとして、言葉を紡いだ。が、全部を言い切る前に、千歳の母親が頭を下げた。テーブルに当たりそうな程、深々としたお辞儀。その状態のまま、ゆっくりと口を開いた。
「五年前、私はあなたの心に深い傷を付けました。親として、大人として越えてはいけない一線を越えてしまいました。また、謝罪がここまで遅れてしまったことにも、お詫び申し上げなければなりません。本当にすみませんでした」
重々しく紡がれたその言葉は、微かに震えている。
しばらく、呆然と千歳の母親を見ていた。その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になって何も言葉が出てこない。何も、思考することができない。喉も締まっているように感じる。そんな状態が、実際は数秒程しか続かなかったのだろうが、俺の体感では一分以上続いた。
我に返る。千歳の母親は、まだ頭を下げたままだった。他のお客さんからしてみれば、こんな光景、異質以外の何物でもない。慌てて、言葉を返す。
「えっと、顔、上げてください!」
お辞儀をやめた千歳の母親の目は、うっすらと潤んでいた。悲痛な面持ちで、葬式の際に見たそれに近い。それを見て、また喉が締まりそうになるが、声を振り絞って続ける。
「俺が今日、あなたと──お母さんと話したいって思ったのは、決して謝ってほしかったからじゃないんです。ただ……前みたいな関係に戻れたらって、本当にそれだけなんです」
「前……みたいな?」
「はい。確かに、あれがずっとトラウマになってはいました。前正門の前にいるの見つけた時、怖くて足が震えちゃって、結局逃げ出したのも事実です。でも、あれからちゃんと考えて、もう五年も経ったんだから、このまんまにしないでしっかり折り合いつけなきゃなんないなって、そう思ったんです」
「折り合い……」
「いや、まぁ、とは言っても、具体的に何をすべきかーとか思い付いてるわけじゃないんすけど。てかほんと、考えるの放っといて先に動いちゃって。とにかく、そういうことです!」
上手くまとめることができなかったが、俺の言いたいことは伝わったと信じたい。
「そう、だったのね」
「それに、俺は──」
本当は、被害者面なんかできない。そう言いかけて、口を噤む。俺ばかりが喋ってしまっている。もうこの辺で黙った方が良いだろうか。考えたが、千歳の母親が俺の発言の続きを待っているので、結局、言い方を変えて言った。
「……お母さんがあの時言ったこと、そんな間違ってないなって。時々考えるんですよ。あの時、俺が病室にいたら、千歳は今も生きれていたのかなって。いや、今も、まではいかないかもしれないっすけど、少なくとも、あそこで誕生日会ができたのかな、みたいな。まぁ正直、怖いなとは思いましたし、ずっと引きずっちゃってましたけど、だからといって怒ってるわけでも謝ってほしいと思ってるわけでもないんで! 言ってること、めちゃくちゃっすかね。すいません」
懲りもせず、また感情のままにまくし立てる。そろそろ、母親にも何か発言させるべきだろ。そう思い口を閉じると、案の定、千歳の母親は口を開いた。
「……気持ちはわかった。でもね、私にとっては、当時秋人君を怖がらせて、トラウマを植えさせたこと自体が罪なの。この五年間、ずっと苦しかった。だから、秋人君に謝らなければ、折り合いをつけられない。秋人君の意思に反してしまうことになるのが、申し訳ないけれど」
「あ……」
そうか。そうだよな。真面目な人だから。昔から変わってない。変わってなかった。
すると、ずっと俯きがちだった千歳の母親が、前を、俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「だけど──本当に良いの? 私、あんなにひどいことしたのに、前みたいな関係、なんて」
「──!」
やはり、その瞳は潤んでいて、その声は震えている。
俺も真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと宣言した。
「もちろん。寧ろ、それを望んでます。俺だけじゃない。家族もです」
「そう、なのね。私も、私も同じ。千景も、夫も。千歳も、喜んでくれるかしら」
「絶対、喜んでもらえますよ! 千歳なら大丈夫っすよ」
あぁ、見てるか千歳。ようやくここまで来れた。これで俺は、過去の呪縛から解き放たれる。清々しい気持ちでいっぱいだった。千歳の母親も同じ思いだろう。
しかし、何故だか千歳母の表情は、未だにどこか晴れていないままだった。大元の問題はほぼ解決したはずだ。なのに、どうしてだろう。何かが気に障ったのだろうか。なら、こっちこそ謝らなければならない。
でも、今までのやり取りを思い返してみても、これといった心当たりはない。不思議に思っていると、千歳母から驚くべき言葉が飛び出た。
「ごめんなさい。私、まだあなたに言えてないことがあるの」
「……え?」
何だって? 俺に、言えてないこと?
「不思議に思ってない? どうして、私と千景が秋人君の学校まで来られたのか」
「──あ!」
そうだ。俺の家族と千歳の家族は、あの日以来連絡を絶っていた。俺がどこの高校に通っているかなんて、もっと言えば俺が学校に行っているかどうかさえ、わからないはず。ただ、そのことは、何らかの偶然の巡り合わせということで、自分を納得させていた。
「でもそれは……千景が、偶然制服姿の俺を見かけた、とかじゃないんですか?」
千歳母が、静かに首を横に振る。どうやら、並々ならぬ背景がありそうだった。
「じゃあ、どうして……」
「偶然見かけたんじゃない。私も、千景も、最初から知っていたの」
「最初から……?」
ここまで聞いても、千歳母の言う『俺に言えてないこと』が、よく汲み取れない。
「秋人君はずっと、お母さんから『私たちとの連絡ツールは絶っている』って聞いてたと思うんだけど」
「あー、はい。そうっすね。まぁ、連絡先自体は消してなかったみたいっすけど──」
自分の言った言葉に、はっとした。もしかして、言えてないことってこれなんじゃないか、と、点と線が繋がった。そして千歳母も、俺が気付いたことに気付いたらしかった。
「……わかっちゃった?」
「……はい。もしかして、なんですけど、その──連絡絶ってたってのが嘘、ってことですか?」
「……そう、正解。ただ、誤解しないでほしいの。秋人君のお母さんは悪くない。これでまた私のことが嫌いになっても、お母さんのことは嫌いにならないでほしい。責めるのは、私だけにして」
「と、いうと?」
まだ、全貌が見えない。どういう経緯で、そんな嘘を吐くことになったのか。千歳母が、母ちゃんのせいではないと、頑なに念押しする理由は何なのか。
千歳母は「少し長くなりそうだけど、良い?」と前置きして、話し始めた。
「五年前、まさにあの時ね。千歳のお葬式が終わった後、私はとにかく落ち込んでいた。いや、落ち込んでいた、なんてものじゃないな。奈落の底に突き落とされた。そんな感じかしら。もちろん、千歳のことだけじゃない。秋人君のことだって、どうしようもない自己嫌悪に陥っていた。そのことに関しては、突き落とされたんじゃなくて、もう自分から身投げしたようなものね」
「──っ!」
千歳母の言葉が、鋭くて、痛くて、苦しい。俺はもう、この人の何を恐れていたのかわからなかった。
「ずっと部屋に引き籠もって、泣いてばかり。そんな日々が続いてた時、秋人君のお母さんが、私の部屋の前にまで来たの」
「え、母ちゃんが……?」
「そう。ドアをノックして、私と話をしたい、って言ってきた。部屋から出られなくても良いから、とにかく話がしたいって。それはもう、驚いたわ。行動派な人ってことは知ってたけれど、まさかここまでなんて」
「いや、まぁ、そうっすよね。で、どうしたんですか?」
「ドア越しでだったけど、応えたわ。実はね、お母さんが来た時、驚きはしたけど、同時に何か……救われたっていうか、一筋の光が射し込んできたみたいな、上手く言えないけど、そんな感じがしたの。大袈裟に思われるかもしれないけれど、当時は本当にそう思った。私が秋人君のお母さんとそれなりに仲が良かったことは覚えてるかな? 私にとって、あの頃で一番仲良しだったのはあの人だったから、そう思ったんだと思う」
千歳母の目線は、話している間ずっと俺の瞳にある。
「もう勿体ぶる気もないから簡潔に言うね。秋人君のお母さんが、これからもお互いに連絡を取り合おうって、そう提案してきたの」
「母ちゃんが……そうか……」
「あ、でもね、それは私たちだけにして、子供たち──秋人君たちには秘密にしておきたいって言ったのは私。お互いの家庭は縁を切っていることにしましょう、って。変な要望でしょう? でも、当時、自分は秋人君たちにとって害をなす存在でしかないと、そう思っていたから。だから、本当なら今でも、秋人君と秋葉ちゃんはもちろん、千景にもこのことは秘密のはずだった」
「千景にも?」
「うん。何だろう、後ろめたさみたいなものがあって。だけど、あの子が鋭いのか、私たち夫婦が隠すの下手なのか、すぐにバレちゃった。もともと、万が一子供たちに勘付かれたら、正直に話そうって決めてたから」
千歳母の話を、全部飲み込めた。
「そう、だったんですか……」
また、千歳母が頭を下げる。
「隠していてごめんなさい」
その瞬間──両目から、大粒の涙が溢れ出した。ずっと堰き止めていたものが、みるみる間に零れてくる。
「本当にごめんなさい。またショックを与えてしまって……」
そんな俺を見た千歳母が、罪悪感に押し潰されそうな様子で言う。
──でも、違う。違うんだ。俺は、ショックで泣いたんじゃない。
この状態で、上手に説明できるかわからない。だが、ここでしっかり伝えなければ、俺たちの関係は振り出しに戻ってしまう。
「ううん、違うんです」
涙を拭いて、前を向く。驚いたように目を見開いているいる千歳母を見つめ、告げた。
「安心したんです。千歳たちとの繋がりは、なくなってなかったんだって。本当に、良かった」
千歳母が「え……」と、ほとんど吐息のような声を漏らした。その声は、俺の言葉を信じられないようにも、俺の言葉に安心しているようにも、俺の次の言葉を待っているようにも、単に気が抜けただけなようにも聞こえた。
「ずっと思ってたんです。俺たち家族と千歳たち家族との繋がりは、あの日を境に切れてしまったんだって。というか、俺が切ったんだって。でも実際は違った。切れそうにはなってたけど、俺の母ちゃんが繋ぎ留めてくれた」
千歳母の目を真っ直ぐに見据えながら続ける。
「だから本当に、ショックなんて受けてないんですよ。提案してくれた母ちゃんにも、それを受け入れたお母さんにも、感謝しかなくて」
昔、千歳母相手に、これだけ正直に胸の内をさらけ出したことがあっただろうか。いや、なかった。今にして思えば、俺は千歳母と接する際はいつも、どこか一歩引いていたように思う。それも、友人の親相手なら仕方のないことなのだろうが。
「でも、それは今だから言えることだ、とも思ってて。あの時秘密にされてなかったら、俺、受け入れられなかったと思うんです。だから、今日まで秘密にしてくれたのも、ありがたいなって感じます」
ところどころ、声が震える。また涙が溢れそうになる。
「何より、俺が信じた優しい千歳のお母さんは、ちゃんと存在してたってことが、すごく、本当にすごく、めちゃくちゃ嬉しいんです。──改めて、ありがとうございました。そして、前の関係に戻らせてください! どうか、お願いします!」
ここまで話して、俺が今まで、我を忘れて喋っていたことに気付いた。大人の女の人と高校生らしき男が、互いに泣きそうな顔で見つめている。赤の他人からしてみれば、本当に何が何だかわからないに違いない。だが、もう周囲の視線など気になっていなかった。
自分を落ち着かせる為に、一旦深呼吸をする。千歳母の言葉を待っていた。
そして。
「……ありがとう。本当にありがとう。今日話せて、折り合いをつけられて、良かった。改めて、当時は申し訳ありませんでした。秋人君が望んでいる方法で、私に、償わさせてください」
「──! はい!」
俺たちは無事、過去に決着をつけることができた。
「あ、せっかくだし、何か他に言っておきたいことってある?」
「あ~。実は秋葉のこと伝えといてって本人から頼まれてたんすけど、いらなくなっちゃいましたね。知ってるんすよね? 秋葉の学校も、部活も」
「うん、そうね。秋葉ちゃんも、クラスや同じ部活の子たちと元気にやってるって聞いてるわ」
「そう! まさにそれ伝えといてって言われました! あっ、そうだ。これは個人的に聞きたいって思ってたことなんですけど、千歳って家族だけでいる時どんな感じだったんすか? ほら、家族と友達では、ちょっと態度というか、そういうの違うもんじゃないっすか」
「ふふ、どうだったかしらね。秋人君が抱いている印象と、そんなに違いはなかったと思うけれど──」
✴
千歳母とは、しばらく昔話を楽しんだ。
その後、千歳母と別れ、帰る前に一旦みんなにメッセージを送った。家族はもちろん、光ちゃんたちにも。みんなにも予定はあるし、当然全員がすぐに返ってきたわけではなかった。ただ、内容はみんな一緒で、俺のことを喜んでくれているようだった。今回の件で、みんなにはすごく助けられたから、近いうちにお礼をしなければならない。
帰宅した時。まず母ちゃんと父ちゃんから謝られた。謝らなくていい、とメッセージで伝え忘れてしまったことを後悔した。俺は、千歳母に伝えたことをそのまま二人にも伝えた。すると、母ちゃんは泣いてしまい、秋葉が「もう、だから泣かないでよ。いや、泣きたくなるのはわかる。でも、お母さんが泣いてたら、私も悲しいし。それはお兄だって一緒でしょ」と、俺の意見を代弁するかの如く言った。どうやら、秋葉にも告白したらしい。二人は、それからずっと「ありがとう、ありがとう」と、俺たちに繰り返し伝えていた。
夕飯の時間帯になった時は、もう全員いつも通りだった。俺と母ちゃんがたくさんお喋りして、秋葉が時々ツッコんで、父ちゃんが温かい目で見守っている、お馴染みの光景が広がっていた。しかし、心なしかみんな、今までよりもずっとリラックスしているようだった。
そして、七月七日。千歳の命日であり、誕生日。
俺たちは、墓参りへ行ったあと、合同でパーティーを開催した。あの日できなかった、誕生日パーティーだ。俺たち家族と千歳の家族がこうして一斉に顔を合わせるのも、久しぶりのことだった。
すごく楽しかった。全員あの頃から変わっていなくて、あの日からの五年間は、全て長い悪夢だったんじゃないかと思ってしまう程だった。ただ、あそこに千歳の姿がないことが、夢ではなく現実だったということを何より証明していた。
そう、千歳が誕生日会直前で死んだことも、その後千歳母と仲違いしたことも、全部現実だ。それでも俺は、長い悪夢から目覚め「夢で良かった」と安心しているような感覚を抱えていた。正直に言って、千歳母と話していた時は、その状況にまるで現実味を感じなかった。しかし今では逆に、千歳が亡くなってからの、厳密に言えば千歳母と仲違いしてからの五年の方が、現実味を感じない。
不思議なこともあるもんだ。俺自身も寧ろ、この感覚をずっと欲していたように思う。この感覚になって良かったとさえ思っている。
何にせよ、良い夏の始まりになった。この一連の出来事に関わった全ての人に感謝したい。もちろん、俺自身にも。
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