十五話 人間も化かす
「つまりこう見えて、僕は椎葉八郎太じゃない」
「……」
「……」
空気が止まった気がした。まるでビデオの一次停止ボタンを押したみたいに。
「……なんだって?」
ややあってから、ようやく夕声がそう聞いた。
「いやだから、僕は椎葉八郎太じゃないの。ないんだってば」
なに言ってんだこいつ、という顔で夕声は僕を見る。
いやまぁ、無理もないのかもしれないけど。
さて、なにから話したらいいものか。
僕は少しだけ考えて、それから切り出した。
「えー、時あたかも鎌倉時代。源平合戦が終結して数年後、ある源氏の若武者が平家の落ち武者狩りを命じられて九州の山奥に――」
「はああああ?! またその話すんのかよ!」
なんであんたはいつも大事な場面で脈絡なくその話をはじめんだよ!
抗議というよりは真剣に僕の脳髄を心配するような調子で言う夕声をまぁまぁと制して、僕は語るる。
落ち武者狩りを命じられた源氏の若武者と、本来は討伐対象であるはずの平家の姫君との悲恋話。
本邦のロミオとジュリエット。
相容れない立場の違いを異類と捉えるなら、あるいはこの話も異類婚姻譚と呼べるのではないだろうか?
そうして語り終えたあとで、僕は言った。
「この若武者の名前は那須大八郎、あの壇ノ浦の扇落としで有名な那須与一の末弟だ。そして、大八郎と姫が出会って暮らした平家の隠れ里の名が、椎葉村」
「だから、それがいったいなんなん――」
と、そこでなにかに気付いたように、夕声が言葉を途切れさせる。
そうして彼女は、今し方話の中に出た名前を呟く。目の前に並べて、鑑定するみたいに。
椎葉村……那須大八郎……。
椎葉……八郎……。
「そういうことだよ」
僕は言った。
「椎葉八郎太は一番に尊敬する偉人の伝説にあやかってつけた名前だ。いいかい、それは自分で付けた名前なんだよ」
親からもらった生来のものじゃなくてね、と念押しするように言った。
「椎葉八郎太は職業上で使ってる名義、屋号ってやつだよ。ここ一年は本名よりそっちで呼ばれることが多くなってたから、咄嗟にそう名乗っちゃったんだよ。……いやだって、仕方ないだろ? 引っ越し初日に知らない女子高生がいきなり訪ねてきて、開口一番に『あたし、女化の栗林夕声』とこう来たもんだよ?」
どっちかと言えばもらい事故だよ、と責任転嫁を織り交ぜた弁解をする僕。
その後で、僕は自分の名前を告げた。
椎葉八郎太じゃない、正真正銘の本名を。
その名前を、夕声は何度か繰り返し口に出して呼んだ。
「……よく知ってるはずのあんたが、まるっきり知らない誰かみたいだ……」
「……騙すつもりはなかったんだ。だけど、君が僕を呼ぶときの『ハチ』って愛称が、なんだかすごく嬉しかったんだ。そうして訂正のタイミングを失ったまま僕は『椎葉八郎太』として君と仲良くなってしまって、それでもう、化けの皮を脱げなくなった」
そこまで言って、不意に理解した。
そうか、これは夕声の抱えていた不安と同じものだ。
僕にキツネの姿を見せることを躊躇い続けていた、かつての夕声と。
そう想った瞬間に、愛おしさがさらに増した。
こんな風にして君は不安だったのか。
こんなにも不安になるほど、君は僕のことを。
「『キツネにつままれた気分』って、こういうことを言うんだな」と夕声。「信じらんないよ……まさか、人間がキツネを化かすなんて」
あんた、いったい
タヌキ屋敷でも同じことを聞かれたことを思い出した。
あのときは『椎葉八郎太』と答えることができたのに、今はもう何も言えなかった。
答える代わりに僕は言った。
きっとかつての夕声と同じ心境となって、言った。
「さぁ、これで僕の化けの皮も剥がれた。椎葉八郎太じゃない僕を、君は拒絶するか?」
もしも拒絶されたら、そのときは、今度は僕が姿を消す番か。
そんな覚悟と共に口にした言葉は、即座に否定される。
僕が言ったのとほとんど同時に、夕声が首を横に振ったのだ。
「名前なんてどうだっていい。だってあんたはあんただもん。椎葉八郎太だろうとそうでなかろうと、あたしにとってハチはハチだもん」
「……その言葉、そっくりそのままお返しするよ。僕にとって夕声は夕声だ。もう何度も言ってきた通りね」
夕声がこくんと肯く。
僕の言葉を肯定して。
あるいは、それ以上の何かをもまた認めて。
「でも、もう一個大事な……というか、一番重大な問題が残ってる」
「え!? まだなんかあるの!?」
思わず問い返す僕に、あるよ! と夕声。忘れんなよ! と。
「……あんた、なんであたしを振ったんだよ?」
「……あ、あー」
答えなきゃダメ? と僕。
答えなきゃダメ、と夕声。ダメに決まってんだろ舐めてんのか!
僕はため息をついて、それから、観念して答えた。
「僕が君を拒んだのは、僕が大人で、君が未成年(こども)だからだよ」
僕の答えを聞いて、夕声はこれ以上無いほどにきょとんとした顔になる。
「え、そんだけ?」
「君も水沼さんと同じ事言うんだなぁ……」
僕は再びため息をつく。どうしてみんなこの問題をそこまで軽視できるんだ。
「そんだけって言うけど、無茶苦茶大事なことじゃないか。あのね、まともな大人は未成年に告白されても受け入れたりしないの。ましてや子供に恋したりはしないの」
言ったあとで、自分がもうすっかり汚れてしまったことを実感して、凹んだ。
だって僕はその未成年に、つい今し方、全身全霊で恋を叫んだのだ。
というか僕の物になれって言った。
お嫁さんになってくださいって言った。
言っちゃったのだ。
ああ……僕はもう完全に道を踏み外した。大人失格だし、人としてもダメかも。
「でもまぁ、覚悟の上だけどね。君を取り戻せるなら僕は悪にでもなるって、そう決めたんだ。たとえ社会通念上の
……って、夕声?」
落ち込むのをやめて顔を上げた、その視線の先に、震えている夕声を見つけた。
夕声は泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして。
「子ダヌキたちに嫉妬する理由なんて、最初からなかったんだ。あんたもうずっと前から、あたしのことを……」
言いながら、涙を拭う。
悲しみのものではない涙を。
「……なんだよ、そのヘタレな理由。そんなのもう、疑う余地なんかないじゃんかよ」
そう言って、夕声は嬉し涙に声をあげて泣き始めた。
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