二話 つがい

 タヌキ屋敷での騒動以降、僕の身辺には二つの変化がもたらされた。


 一つは先駆けて描写したとおりのこと。

 龍ヶ崎タヌキの間で、どうやら僕は一目置かれる存在になったらしい。

 あの小貝川の文吉と丁々発止渡りあった人間がいる、との噂は瞬く間にタヌキたちの地域社会に広がった。

 というか、当の文吉親分が積極的に広めているらしい。


「文吉さん、よっぽどあんたのことが気に入ったみたいだな」と夕声。「こんなのまるっきり日置さんの時と同じか、それ以上だ」


 僕がその叔父の甥っ子だということも噂の伝達を加速させたらしい。

 文吉親分の惚れ込んだ若者はあの日置先生の甥御で後継者だそうだ、とタヌキたちは噂した。

 人として生活する化けダヌキたちは電話やSNSまで駆使して、野生動物として生きる化けないタヌキたちは『溜め糞』という習性を使って(残した糞を利用して仲間同士で情報を伝え合うこの習性は、いわば野生のタヌキたちのSNSのようなものらしい)。


「嘘から出た誠だけど、これであんたは正式に日置さんの後継者に決まりだな」


 やれやれ、と僕はため息をつく。後継者と言っても、僕は叔父がどういう立場で何をしていたのか、結局なんにも知らないままなのである。


 とにかく、これが変化の一つ目。

 そして変化の二つ目。



 僕は夕声に求婚されるようになった。





『……あんた、あたしを嫁にしろ』


 あの夜、僕のワイシャツに額を埋めながら、夕声は確かにそう言った。

 あまりのことに僕が頭を真っ白にしていると、夕声はそれ以上なにも言わずに来た道へと走り去った。

 彼女がいなくなったあとも僕はしばらくその場に立ち尽くし、それからどこをどう歩いたのか気付くと家に帰り着いていた。

 疲れていたはずなのに、その夜は新聞配達のバイクの音が聞こえる頃まで寝付けなかった。


 一度眠って目覚めると、すべては夢だったように元通りだった。

 もちろん、タヌキ屋敷での一連の事件は確かに起こった(というか僕が起こした)ことだったし、翌日にはその影響も出始めていた。

 だけどそんなのは『すべて』の範疇に含まれない。そのときの僕にとっての『すべて』は彼女に集約されていた。


 翌日からも、夕声の態度は少しも変わらなかった。

 次の日の学校帰りに我が家に立ち寄った時も、彼女は前夜の告白については少しも触れなかった。まるでそんなことはなかったかのように夕声は振る舞ったし、僕もそのように彼女と接した。


 なにも変化がないことに僕は拍子抜けし、そして、正直安心してもいた。

 夕声との関係が何も変わっていないことに。変わってしまっていないことに。


 やっぱりあれは夢だったのかもしれないと、やがて僕はそう考え始めてすらいた。

 それが間違いだと知ったのは、そこからさらに数日後のことだった。


 夕方の駐車場で猫たちと戯れ、『猫は人差し指を無視できない』という印象的な言葉とともに猫との挨拶方を僕にレクチャーしてくれたその後で、彼女は言ったのだ。


「なぁハチ。やっぱり、あんたはあたしを嫁にするべきだよ」


 いつも通りの会話の流れの中で、まるでゲリラの奇襲攻撃みたいに。

 もちろん僕の思考は白紙と化している。頭が真っ白になりながら僕は夕声を見る。


 その瞬間に、これが夢でないことを理解する。


 夕声はさっきまでと同じように笑っていて、だけど、その笑顔は限界まで張り詰めていた。

 口角はわずかに痙攣し、小さな鼻の穴はかすかな拡大と縮小を反復している。

 そんな強ばった笑顔の中で、瞳だけが少しも笑っていなかった。


 十七歳の少女は、ありったけの真剣 シリアスを瞳に込めて僕にぶつけていた。これは夢でも、ましてや冗談でもないのだと、僕にそう気付かせるには十分過ぎるほどの。


「……ダメか?」

「だ、ダメかって……」


 自分が何を言ってるのかわかってるのか?

 僕はそう言おうとして、やめた。

 わかってないわけあるか。そんなこと聞くのは、それ自体が彼女に対する侮辱であり冒涜だ。


 それからしばし、僕たちは一言も口を利かないままお互いに見つめあっていた。

 視線をそらすことなんて出来なかったし、瞬きすることすら憚られた。

 緊張しすぎて、口の中がからからに乾いていた。


 ものの数分か、あるいは数十秒のことのはずなのに、数十分にも感じられた。


「にゃぁ」


 僕らの膠着状態を破ったのは、足下で発せられた猫の鳴き声だった。

 見れば子猫のマサカドが、僕のスニーカーに鼻頭をこすりつけていた。

 僕らは弾かれたように同時に目をそらした。まるで不純異性交遊の現場に踏み込まれたようなばつの悪さを感じていた。


「そ、そういえばさ、猫又ってほんとにいるのかなー」

「ね、猫又なー。二十年生きないとなれないらしいからなーあれ。猫の寿命で二十年って、結構ハードル高いもんなー。あたしの知り合いにはいないなー」

「そ、そうだねー。飼育下でも十数年、野生化だと二年くらいしか生きられないらしいもんねー猫って」


 白々しく上滑りする僕らの会話を、マサカドが呆れた顔をして聞いていた。







 そのときはそんな感じで有耶無耶になってしまったのだけれど、しかしもちろんこれは、いつまでも誤魔化し続けられるような問題ではなかった。

 というか、いつまでも誤魔化したままでいていい問題ではない。

 そして、そのことは彼女のほうもしっかりと理解していた。


 昔側の玄関チャイムが鳴ったのは、翌日の夜のことだった。


「話してもいいか?」と夕声は言った。

「いいとも」と僕は言った。


 そして二人で家に入った。



   ※



 ……と、ここまでの文章ではかなりクールに落ち着いた雰囲気を醸し出したけど、現実のやりとりは全然落ち着いてなかったし、少しもクールに進行しなかった。


「おいハチ! こ、こいつをくらえっ!」


 リビングに入った瞬間、夕声は通学用のリュックからなにやら書類を取り出して僕に突きつけた。

 いかにも、記入済みの婚姻届であった。


「ハ、ハチ! あた、あたしを嫁にしろ!」

「待て待て待て待て、待て!」


 真剣通り越して必死、というかもはや決死の剣幕の夕声に、とにかくクールダウンを促す僕。


「……どうしたの、これ?」

「が、学校帰りに市役所でもらってきた」


 無茶苦茶恥ずかしかった、と夕声は顔を赤らめた。

 市民課の受付でガチガチに緊張しながら「婚姻届ください」と頼んでいる制服姿の夕声を想像して、僕は危うく悶絶しそうになる。

 ダメだ、そのイメージは僕には特攻だ。


 しかし、もはやこれで『なにかの間違い』という線は完全に消えた。念のためにほっぺたをつねったりもしてみたけど、しっかりと痛い。つまり、夢でもない。


「十七歳って、もう結婚出来る歳なんだぞ? 日本じゃ女は十六歳で結婚できるんだ」


 それって全然普通のことなんだ、だから……! とそう言いつのる夕声に、それが普通と言い張るなら同級生に結婚してる子がいるのか確かめてきてくれ、と僕は帰す。


「というか、結婚って……」


 君、僕と結婚したいの? と。そう続けようとして、僕は口ごもる。

 核心部分を口にしようとした瞬間に、発作的な気恥ずかしさが襲ってきたのだ。


「こ、こういうのは、その、ちゃんとした手順を踏んでからじゃないと……」


 漫画のように赤面しながら、僕は見当違いなことを言っていた。


「ちゃんとした手順って、なんだよ?」

「いや、だから……まずは告白して、それから適切な交際を経て……つまり、結婚の前にまず恋愛じゃないの? 付き合うのが先じゃない?」


 僕がそう言った瞬間、今度は夕声が真っ赤になった。


「つ、付き合うとか恋愛とか、そんな恥ずかしいこと、真顔で言うなよ……!」

「結婚よりも恋愛のほうが恥ずかしいの!?」


 もじもじする夕声に思わずツッコミを入れる。人外の価値観は時折わからない。

 そうして二人して含羞に頬を染めながら理解したのは、僕たちはどちらも度しがたいほどに奥手だということだった。

 僕は年上のくせにご覧の有様だったし、勢い任せにプロポーズなんかしてきた割には夕声のほうも同様だ。


 そういうわけなので、我々は本題の入り口に立つまでにもさらにいくつかの工程を必要とした。

 まずは落ち着くために二人で麦茶を飲んで、テレビを少しだけつけて、二人とも一秒も画面を見ないままで消した。そしてどちらからともなく姿勢を正した。


 お互いに向かい合って座って、僕から先に切り出した。


「ええと……どうしてそういうことになったの?」


 いかにも、これが本題の入り口だ。まずはそこからはじめなければ。

 若干漠然とした質問だったけど、それでもしっかりと意図は通じたらしい。夕声は少しだけ伏し目になりながら答えた。


「……わかんない。ただ、気付いちまったんだよ」

「気付いたって、なにに?」

「……自分が、あんたとつがいになりたがってるんだってことに」

「つがっ……!?」


 つがい、という語彙の威力に、またしても僕は悶絶しそうになる。


「つまり、その……君は、僕のことが、す、す……」

「ス?」

「ぼ、僕のこと、好きなの?」

「す、すくっ……バカ! そんなハズいこと……バカっ!」


 自分で言うのもなんだけど、端から見たら僕たちって無茶苦茶めんどくさいと思う。


「……なぁ、あたしじゃ、ダメか?」


 一進一退の対話の中で、夕声が言った。


「あたしなんて、かわいくない?」

「あ、いや……」

「魅力ないか? あたしって、醜女(しこめ)か?」


 少しだけ身を乗り出しながら、不安そうな顔でそう聞いた。


 そんなことはない、と心の中で即答する。

 君と比べたら、テレビのタレントやアイドルなんてみんなくすんだ色をしている。君ほど表情豊かな女の子なんて一人も知らないし、千態万状なその表情のすべてが一等賞に金メダルだ。

 かわいくないどころか、君以上にチャーミングな女性なんか絵にも描けない空想上の生き物だ。少なくともこの僕にとっては。


 ……なんてことを面と向かって言う度胸は持ち合わせていないので、僕はひたすらしどろもどろになる。


「あたしじゃ、あんたの伴侶には相応しくない?」


 再びの不安顔に、再び心の中で即答。


 そんなことない。この三ヶ月、僕にとって君は最高の導師ガイドであり相棒サイドキックだった。どちらがホームズでどちらがワトソンかは知らないけど、一緒にいてこんなに楽しくて頼もしかった相手なんてはじめてだ。

 君以上のパートナーなんて今後一生望めないだろう。


 ……なんてことは、以下同文。なにを隠そう僕は小市民なのだ。


「……ハチ」


 夕声が、ほとんど縋るような目で僕を見て言った。


「もしかして、やっぱりあんたは、あたしが人間ひとじゃないのが――」

「ああ、それは違う」


 みなまで言わせずに即答した。今度ばかりはきちんと声に出して。


「前にも言った通りだ。君が人間だろうがキツネだろうが、そんなの関係ない。たとえ君が男であっても……いや、それはちょっと困っちゃうかもしんないけど……でもとにかく、僕にとって夕声はただ夕声でしかない」


 なんであろうと君は君だ、と僕は言った。

 自分でも驚くほど言葉は淀みなく発せられた。


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