八話 狐火

 意識を取り戻した時、百鬼夜行の情景はもはやどこにもなかった。

 宴会はいましもおひらきの時間を迎えていた。隠し芸……というか変身芸披露の時間はとっくに終わっていて、ひな壇ではさっき夕声に話しかけてきた和服の旦那(あの役員だか組長だかに見えるおじさんだ)が閉会の言葉を述べていた。


「おっす」


 隣には依然として夕声がいて、僕が目覚めたのに気づいて声をかけてくる。

 身を起こしながら、僕も「おっす」と応じる。

 それから、そういえばこれは初めて会った時と同じやりとりだなと、そんな風に連想した。

 まだ昨夜のことなのに、もう随分昔のことのように感じる。

 よもや森を出たら外では百年が経っていたとか、そんなことはないだろうな。


「まさか失神しちまうとは思わなかった。でも失神するほどビビってくれたって、タヌキたちがすんごい喜んでたぞ。連中、ますます芸を磨くってさ」

「ああ、そう……」


 元気なく答える僕と、僕のその消沈ぶりが面白かったらしく笑い出す夕声。僕を茶化してくつくつと笑う。

 嫌な気は、少しもしなかった。むしろ彼女がそこにいてくれたことに、僕はなぜだか安堵している。安らぎを感じている。


 まるで飼い主を見つけた犬のように。あるいは――。

 ……あるいは、なんだ?


 なにかが一瞬、心の内壁に触れた。

 しかし結局、それがなんであったのかはわからなかった。思考の履歴をいくら辿っても、その一瞬の感覚 クオリアの正体を掴むことはできなかった。


「なぁ」


 自分の心の作用に戸惑いを感じている僕に、不意に夕声が話しかけた。


「楽しかったか?」


 そう聞いた。あの表情豊かな瞳で。唇には絹のような笑みを浮かべて。

 その笑みがいつになく大人びて見えて、だから、僕は。


「……うん」


 満足そうに、夕声はにんまりと笑顔を引き伸ばした。



   ※



 閉会式が終わると人々は(人の姿のタヌキたちは)早々に広場から立ち去り始めた。

 印象的だったのは、僕が来るときに通ってきた道へと向かうものが一人もいなかったことだ。

 残り物の食べ物をお土産に持って、彼らはそれぞれ藪の中へとわけいって消えていった。


 人の道ではなく獣道を辿って、人の世界ではなく獣の世界に帰っていく。

 そんな後ろ姿の数々を、僕は奇妙な感慨を持って見送った。


「そんじゃ、あたしらも帰るか」


 自分も残り物の手羽先を包んでもらってきた夕声が、僕にそう声をかけた。

 彼女がどのような道を通って帰るのかは僕にとって大きな関心ごとだったのだけれど、幸いにも(たぶん、幸いだ)、夕声は鳥居の立ち並んでいる道の方へと向かった。

 人の往来によって踏み固められた、人の道に。


 僕の前に立って歩き出した夕声は、来る時に僕がそうしたようにスマホのライト機能をオンにして道を照らした。


「夕声さんにも灯りが要るの?」


 キツネの癖に暗視が利かないのかという意図で僕が問うと、「ばっかだな。今は人間の姿なんだから、目だって人間のだ」と夕声は答えた。手羽先をかじりながら。

 僕は曖昧な返事をして、自分もライトをつけて彼女の後を追った。


『今日は宴会だから、邪魔が入らないように道の長さを化かしてんだよ』


 さっき彼女の語ったことは、はたして本当だったらしい。行きの時には優に十分以上も歩き詰めたはずの小径こみちが、帰る時にはものの三十秒くらいで終点に至ったのだ。

 まったく呆気なく森は終わって、僕は夜の住宅地のアスファルトを踏んでいた。


 森の入り口に立って、僕はもう一度今来た道を振り返る。

 鳥居の道の先で、森はただ暗闇の口をぽっかりと開けていた。その先でさっきまで宴会が行われていたなんて、にわかには信じられないほど暗く静かに。


 ――にわかには信じられない。


 そうだ。今夜、にわかには信じられない世界の存在を僕は知ったのだ。

 ふと思い立って、一瞬だけスマホのライトを指で隠す。

 目が闇に慣れたのだろう、明かりを向けなくとも夜目が利くようになっていた。夜の中に町の輪郭がおぼろに浮き上がって見えた。


「楽しかったか?」


 夕声が、さっき聞いたことをもう一度聞いてきた。


「……うん。楽しかった」


 僕もまた同じように頷く。

 さっきのも今のこれも、多分、本音だ。

 今夜見せつけられた数々の場景はあまりにも非現実的で超現実的で反現実的で、どこまでも常識はずれだったけれど(ああ、懐かしき常識的な日々よ)。

 

 でも、確かに面白かった。確かに楽しかった。


「そっか」


 夕声は言い、それから。


「良かった」


 そう言って、優しく笑った。


 ずるいな、と僕は思う。

 ああ、大いにずるい。彼女は実に多種多様な笑顔を所有していて、それらを抜群に 時宜を得たタイミングで繰り出してくるのだ。


 まるで百の呪文を操る魔術師のように。

 いや、神社の娘だし、陰陽師か?


 またしても彼女の笑顔に見惚れながら、僕は仕返しのように問いかける。


「そういえば、君は化け合戦には参加しなかったんだね」


 再び『キツネの癖に』という意図を込めて僕は言ってみた。

 すると、夕声は。


「ああ、そこはほら、七化け八化けだからさ」

「……ナナバケヤバケ?」

「『狐七化け、狸は八化け』って言葉、知らないか? キツネが七化けるのに対してタヌキは八化ける。つまり、化けることに関してはタヌキはキツネに一歩長じてるってこと」


 だからああいう場ではキツネはタヌキに張り合わないの、行儀が悪いからな。夕声はそう説明した。

 なるほど、と少しだけ納得する僕である。

『狐七化け、狸は八化け』、そのことわざは僕も聞いたことがあった。こう見えて僕は国語の成績が良かったタイプだ。


「でも、昔話なんかだとキツネのほうが一枚上手なイメージがあるよ。キツネは人間をうまく化かしおおせるけど、タヌキはどの話でもおマヌケな理由で失敗してるような」


 僕がそんな疑問を呈すると、夕声は当然のように「そりゃそうだ」と言った。


「たしかに化けることに関しちゃタヌキが上だよ。でもさ、連中はなにより化けるのが楽しくて、化けることそれ自体が好きで化けるのさ。だからいろんなものに化けるんだけど、でも化けたらそこで満足しちまってその先のツメが甘いんだ」

「ふむ」

「けど、キツネは違う。キツネはタヌキよりずっとしたたかで、計算高くて、執念深い」


 つまり、と夕声は続けた。


「つまり、『化ける』ことについてはタヌキの方が上だけど、『化かす』ことについてならあたしたちキツネの方が上なのさ」


 得意げにそう言い切った彼女の声は、なんだか妙にしっとりとして僕の耳朶に触れた。

 それから夕声は、今度は普段通りの声で僕に言った。


「なぁハチ。あんた、今でもまだあたしがキツネだってこと、信じてないだろ?」


 問うというよりは確認するような言い方だった。

 どう答えようか少しだけ迷った後で、僕は、やっぱり素直にうんと頷いた。


「そっか。じゃ、どうしたら信じてくれる?」

「そうだなぁ。目の前でなにかに化けてくれるか、それともキツネの姿を見せてもらえたら信じてもいい」


 僕がそう言うと、夕声はくつくつと笑いながら「スケベ」と言った。

 いったい何がスケベだったのかわからぬまま、それでも僕はちょっとだけ赤面する。


 それから。


「じゃあさ、こんなのはどうだ」


 そう言って、夕声は手にしていたビニール袋から何かを取り出した。

 彼女が僕に見せたのは、さっき食べていた手羽先の、その骨だった。


「いいか、見てろよ」


 それだけ言うと、夕声は両方の手に持った骨を口元に持っていき、交差させた。

 彼女は骨に向かって、そっと、小さく息を吹きかける。

 すると。


「……すごい」


 夕声の唇の先に、炎が立った。

 温度を感じさせない、美しい炎だった。

 青、白、そして黄金……炎は瞬間瞬間に色を変えながら燃え、やがて静かに消えた。


「いまの、なに?」

狐火きつねびだよ」


 呆然として問う僕と得意げに答える夕声。


「あたしたちキツネは動物の骨を使って炎を起こすんだ」


 彼女は得意げに言って、それから続けた。


「どうだ? これで、半分くらいは信じたか?」


 夕声が再び僕に問う。僕は少しだけ迷ったあとで答える。うん、信じた。


「信じたよ。半分くらいは」


 ちぇっ、ケチな奴、と夕声が言う。さしてがっかりした様でもない声で。


「ま、いいさ。だってあんたとはこれから長い付き合いになるんだもん。だったらまぁ、最初は半分で十分だ」


 なにせあたしは日置さんからあんたのことを頼まれてるんだからな、と夕声。


「お楽しみはこれから、だ。今後ともよろしくな、ハチ」


 そう言って、彼女はくふふと笑った。

 僕は、こちらこそよろしくと言おうとして。


「こちらこそよろしく。……夕声」


 そこで初めて、僕は夕声を夕声と呼んだ。

 はじめて、僕は彼女を呼び捨てで呼んだ。


 夕声と言うのは、やっぱり、どう考えたって素敵な名前だ。

 だから彼女のその名前を、余計な添加物など一切抜きで口にしてみたいと、そのときなぜだかそんな欲求が生まれたのだ。


 呼びかけてしまったあとで、「やってしまった」という気分になった。

 後悔と羞恥の念に駆られながら、僕は彼女の反応を待つ。


 ほんの少しだけ間があった。実際以上に長く感じられる間が。

 そのあとで、夕声は言った。


「うん。友達同士なんだしさ、やっぱりそのほうがいいよ」


 そう言った彼女は、今まで見た中で一番嬉しそうな顔をしていた。

 多分、自惚れではないと思う。

 僕に夕声と呼び捨てに呼ばれて、彼女はとても喜んでいた。




 そのあと、僕は夕声を神社に送り届けてから帰路についた。

 夕声は自分の方が僕を送ると何度も主張したが、それは断固として断った。僕にだって男としてのプライドはあるのだ。


 帰り道で、僕は何度も空を見上げた。

 啓蟄(けいちつ)も過ぎた三月の夜、春霞はるがすみの大気の向こうには初春の星空があった。

 遠くの道路を自動車が走り過ぎていく音が聞こえた。ゆるい風が吹いていた。


 言葉にしがたい感傷が……いや、きっと言葉にしてしまうのは無粋ななにかが胸のうちにあった。


 やれやれ、と僕は思う。

 やれやれ、どうしてこんなにも気分がいいのだろう。


 様々な、実に様々なものを見聞きした夜だった。

 にも関わらず、脳裏をかすめるのは彼女の……夕声のことばかりだった。


 ――『化かす』ことについてならあたしたちキツネの方が上なのさ。


 そう言った彼女の言葉が蘇る。

 もしかして、僕はもうすっかり化かされているのだろうか?


 ところで、今夜もまた彼女の名前を褒めるのを忘れてしまったと、そう気づいたのは家について玄関の鍵を開けるときだった。


 でも、まぁいいか、と僕は思う。

 夕声が言った通り、お楽しみはこれからなのだから。



第一章・了

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