突然海が見たくなったなら

 予定通り、十三時までの練習を終えると、あたしと美歌先輩は藤沢駅前のファミレスで昼食を撮った後、その足で海の方まで行くことになった。小田急線ホームから各駅停車片瀬江ノ島駅行きに乗り、およそ十分もかからないうちに電車は終点へと辿り着く。そのまま真っ直ぐ歩いていくと、橋を渡り、地下歩道の入口までやってきた。地下歩道の中には三方向への分岐点があって、真っ直ぐ歩くと江ノ島、右へ曲がると水族館のある西浜、そして左へ曲がると東浜へ行くことができる。今日あたしと美歌先輩が選択した道は左方向。そのまま階段をのぼると目の前に静かな東浜の海辺が広がっていた。


「そういえば茜ちゃんの実家の近くもこの辺なんだっけ?」

「あ、はい。もっとも、あまりいい思い出なんてないですけどね」

「……そっか」


 あたしと美歌先輩は砂浜に続く階段に腰を下ろし、ぼんやりとその光景を眺めていた。右手がすぐ届きそうな場所に江ノ島が見える。西浜に比べるとそれほど広くもない海岸のせいか、人もまばらだ。左手の方向へ向かうとすぐに漁港があるため、このやや窪んだ位置にある西浜海岸は、海というよりちょっとしたプールのような形にも見え、波もかなり穏やかなんだ。

 漁港の先、そこからさらに少し歩くと、真っ直ぐと海岸が続く七里ヶ浜があるはず。ここからは見えないけど、それこそあたしにとって苦い思い出しかない場所。


「それより美歌先輩、なんで今日は海が見たいって思ったんですか?」

「あ、うん。特に深い理由なんてないんだけど、あたしの大切な人が海が大好きでね、海を見るとその子のことを思い出して、あたし自身も初心に変えれるというか……」

「大切な人って、ユーイチ先輩のことですか?」

「違うわよ。あんなやつより、もっと大切な人」

「自分の好きな人よりも大切な人なんて、この世にいたりするんですか?」

「そりゃあね。いつも一緒にいて、あたしに生きる意味を教えてくれた人だから」

「生きる意味……?」

「てかなんであたしと管理人さんがそういう関係になってる認識なのよ!?」


 美歌先輩はしみじみとした思い出話をした後、いつの間にかぷんぷんとした怒り顔へと変化していた。美歌先輩の場合、主に管理人さんの話と胸のサイズの話になると急に精神年齢が下がってしまい、そのギャップが本当に可愛らしい人だ。偽りだらけのあたしには到底真似できなくて、あたしの憧れの部分でもあった。


「でもその管理人さんへの気持ちに気づかせてくれたのも、その人だったから」

「それってつまり、その人がいなかったらそれが恋だとも気づかなったみたいな話ですか?」


 美歌先輩は少しだけ照れ臭そうに、無言のまま首を縦に振った。


「後夜祭の時にキスしたのだって、その人の後押しがあったからだしね」

「ふ〜ん、そうなんですね。……って、待ってください。それひょっとして、ユーイチ先輩と美歌先輩が例のジンクスに倣ってキスをしたとか、そんな話だったりしますか?」

「うん、そうだよ。それがあたしのファーストキス。大切な思い出かな」

「てか真奈海先輩があの時妙に元気がなかったのはそういうことだったんですか!?」


 美歌先輩はまたしてもくすくす笑うだけで、急に黙ってしまった。やや悪戯混じりのその顔から察するに、真奈海先輩に対してもしてやったりという思い出なのかもしれない。というよりあたしはあたしでまた一つ真奈海先輩を弄るネタを知ってしまった。最近ユーイチ先輩とは妙に調子乗りまくりではあるし、そこへブレーキをかけるには格好のネタではあるかな。


「でも、あの子がいたから、あたしは去年頑張れた。あたしの今の人生なんて、本当にただのおまけかもしれないけど、そんなおまけに大切な意味を持たせてくれたのは、あの子だったから」


 おまけの人生……か。一度死にかけたことのある人の言い方なのだろうか。

 美歌先輩は芸能界に入る前、交通事故で両親を失っている。美歌先輩自身もその事故で意識を失うほどの傷を負ってしまい、意識を取り戻すまで何ヶ月も病院で眠っていたらしい。自ら命を絶とうとしたあたしなんかとは正反対で、それでも強く生きたいと願ったのか、それとも……。


「でも茜ちゃんの場合は、大切な人と好きな人が、きっと同じ人だったんだね?」

「…………」


 唐突に振られたあたしの話に、あたしはその回答に躊躇した。彼は間違えなくあたしにとっての命の恩人で、誰よりも大切な幼馴染だ。今は、自分の姿が誰にも見えないことを利点だと考えているのか、いつの間にか堂々とあたしの真横に座り、ぼんやり海の方を眺めている。れっきとしたストーカー男だ。

 回答に躊躇した理由は他でもない。あたしにとって彼は、あたしの好きな人だったのだろうか。そこがどうしても釈然としなくて、あの日、風呂場で彼に怒鳴ってしまった時から、ずっと考えてしまっている。恐らくそれが今回、あたしが笑顔を失った理由でもあるから。

 どうして彼に『もう二度とあたしの前に現れないで』なんて、言ってしまったのだろう。さっきの質問に対して回答が出せないことに、苛立ちを感じたから? それってただのあたしの我儘じゃん。


 だって彼はもうこの世にはいない、幽霊なんだよ……?


「ねぇ茜ちゃん。そろそろそこにいる彼のこと、紹介してくれるかな?」

「え……?」


 だけどあたしは完全に不意をつかれてしまった。ある程度は予測していたけれど、それが唐突だったせいか、きっと今のあたしは、ここにいる彼と似たような顔をしていると思う。まるで自分の鏡と向かい合うかのように、あたしと透は互いに顔を見つめあっていたりして。

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