第5話 少年たちの事情

 紅白戦の翌日、改めて一年生の中から、二人がベンチ入りメンバーに選ばれた。

 優也と正志の二人であり、背番号は正志が19で優也が20である。

「佐藤直史君が入学した時、白富東は上級生だけではベンチ入りメンバーが埋まらなくてね」

 そう国立は言うが、その国立自身でさえ、同時代性を持ってはいなかった。

 この話は現在、上総総合で野球部の部長を務める、元白富東のキャプテンである北村から聞いたことだ。

「白石君が19番、佐藤君が20番をつけていたそうだよ」

 そう言われるとなんだか、とんでもない背番号の気がする。

 実際のところはやや違うのだが。




 さて、それは翌日の話である。

 現在の白富東は、研究班も合わせると、部員は80人近くにもなる。

 その中で真剣に甲子園に行くことを考える者と、単純に野球を楽しみたい者、他にも色々とあるが、それが共棲しているのがおかしくて面白いところだ。

 上下関係があまりなく、一年でも知識のある者は、教える側に回ることがある。

 だがとりあえず優也は、試合後にコーチからピッチングのことを教えてもらっていた。


 潮もそれに付き合っている。

 三年間バッテリーを組む可能性があるのだ。

 それに潮はこの三日間、しっかりと優也のピッチングを見てきた。

 だから何が良くて、何が悪いかを指摘することが出来る。


 紅白戦終了後、ミーティングを終えると、それぞれがまず練習のメニューを考えていく。

 その前に自分の状態を把握するため、試合中に撮影していたビデオを見る。

 序盤のピッチングと、中盤のピッチング、そして終盤のピッチング。

 それぞれの中でも、特に分かりやすいフォームを抽出する。

「これがひどいフォーム。強い球を投げようとして、左手を引くタイミングが早くなりすぎている。結果ボールに伝わる前に、力が分散してしまっている。リリースが見やすくなって、簡単に打たれる」

 指摘されることは、いちいちもっともなのである。


 優也の問題は、体軸が一番に挙げられる。

 もちろん他にも色々と、それこそ細かいことはいくらでもあるが、体軸が通っていないため、コントロールの修正が利かない。

 その体軸とやらはなんなのか。

 簡単に言うと左右のバランス感覚である。


 ピッチングというのは、投げる方の右手が重視される。

 当たり前のように思えるが、実は逆の腕も鍛えることが、コントロールを良くする。

 それに右利きの優也の場合、左手を強くすると、腕を引くことで右手がより強く前に出る。

 左右の筋肉は、対称であることが望ましい。

 左手でのピッチングというのも、そのバランスを取るためには有効なものである。

 あとは普通に左の筋肉を鍛えて、体が開くのを抑える。

 左手を上手く使えば、コントロールが微妙な時にも修正がしやすい。

 そもそもリリースの瞬間、コースがずれると思ったら、左手を操作して微修正すればいい。


 勘違いしてはいけないのは、左手の鍛える筋肉は、アウターマッスルではない。

 アウターマッスルは出力の筋肉、それに対して制御の筋肉がインナーマッスルだ。

 インナーマッスルを鍛える効能は、制御だけではない。

 ストレッチや柔軟と合わせて行うことで、怪我をしにくくなる。

 インナーマッスルを鍛えるには、体幹も鍛えなければいけない。

 体幹こそはまさにバランスを取る筋肉なのだが、バランスボールを使ったり、片足での運動を繰り返すなど、色々と鍛え方はある。

 既に優也は、ある程度の体幹は備えている。

 だからそこから、さらに足りない部分を鍛えていくのだ。


 とりあえずメニューを作ってくれたコーチは、簡単そうに言った。

「地区大会まで一週間あるから、それまでに5kmぐらいは球速を増そうか」

 いくら何でもそれは不可能だろうと、優也は思ったものである。

「じゃあ君は今、全くコントロールを考えず、全力でボールを投げてるのかな?」

 そんなわけはない。コントロールを意識しなければ、暴投するに決まっているではないか。

「全力で投げても暴投しないようになれば、5kmぐらいなら上がると思わないかね?」

 それは……どうなのだろうか。


 別に信じられないという理由があるわけではない。

 だが信じにくいレベルの話ではある。

 一週間で5kmの球速をアップするなど。

「人によっては130kmぐらいの球速が、一日で10km上がることもあるからね」

 それはさすがに、言い過ぎではなかろうか。


 だが、フォームを正しくいじれば、一気に球速は上がることはある。

 もっとも単に速くなれば、いいというわけでもないのだが。

 このチームにいれば、自分はもっとずっと速い球が投げられるようになる。

「この先の身長の伸びにもよるけど、高三の夏には150kmを目指してみようか」

 まるで魔法使いの言葉のように、コーチの声は優也の耳に届いた。




 練習が終わって家に戻ってからでも、病院の面会時間にはどうにか間に合う。

 正志はもう慣れた感じで、病室へと向かう。

 病院の中にある匂いの中でも、特に独特な匂い。

 母の名前が書いてあるプレートは、四人部屋のものである。


 まとめておいた荷物を、二日に一度以上の割合で届けにくる。

 そうやって毎日見ていると気づかないが、ある日はっと分かるのだ。

 肉がどんどん痩せていき、肌の色も黄色くなっていく。

 以前に打った薬の影響で、頭髪は一度、全て抜けてしまった。

 帽子をかぶっているが、また抜けていくことになる。

 それでも、ほんのわずかにではあるが、可能性は残されている。


 ベッドに横たわったままの母は、それでもうっすらと笑みを浮かべた。

「何かいいことあったの?」

 正志は頷く。

「ベンチ入り決めた」

「ずいぶん早いじゃないの」

 母の笑みが深くなり、それはこちらを安心させるためのものではなく、本当に心からのものになる。


 以前にはゼッケンを縫ってもらったものである。

 今は祖母に頼んでいるが。

「お婆ちゃん、腰を痛めたんでしょ? どうにか帰らないとね」

「今はもう大丈夫だけどね。さすがに婆ちゃんの治る方が早いよ」

 妹の送り迎えで、練習を休むことが多かった。それがこの数日の休んだ理由。

 これまでは祖母に頼んでいたことだ。


 重い病人が一人出ると、家族全体が歪んでいく。

 その中でも野球をやっている自分に、どこか呆れるものはある。

 だが必ずこういった、以前から続けていた日常を、ある程度保たないといけないと、担当の医師も言っていた。

 せめてまだ、幼い妹には苦労をかけたくない。

 ただ今の状況を、どれだけ分かっているのか。


 色々なことが、予定通りにはいかなくなった。

 去年の夏には、西東京のの超名門に入学するはずであった。

 しかし、限られている時間に、足りない人手。

 義理は通した上で、実家から通える最強のチーム、それも金のかからないところを選んだつもりだ。

 普通である、と人間が思っていることが、どれだけ幸福なことであるのか。

 国立の他には、潮しか知らない事情。

 正志がどうしても、今年から甲子園に行きたい理由。


 自分が甲子園に行ければ、母も大丈夫だ。

 全く論理的ではない理由だが、なんとなくそれを信じられる。

 最初に言われたのは去年の夏、余命一年。

 だが手術と薬の併用で、わずかだが生き残る可能性が出てきている。

 だから、大丈夫なはずなのだ。

 全く理屈ではないのだが、正志はそう信じている。


 甲子園に行くこと。

 自分の願いを、他の全く違うことと一緒にしてしまっている。

 常識的に考えれば、正志が甲子園に行くことと、母が治癒することの間に、因果関係は出来ないはずだ。

 だがこういうことは、理屈ではないのである。

 それに精神的に良い状態になって、病気が治ってしまったなどという話も、実在する。

 百万の中の一つの例外であっても、確かにそういう例はあるのだ。


 この日もまた、短い時間を病院で過ごし、正志は家に戻る。

 そしてそこから、自宅の庭で素振りを始める。

 一万回の正しいスイングで、打率は一厘上がるという。

 正志は何度もマメを潰した手で、今日もバットを振るのだ。




 千葉県の春季大会は、他の都道府県に比べるとかなり遅い。

 センバツ出場もなかった白富東は、地区大会のトーナメント表を見る。

 同じ地区に勇名館があるのが、不幸というかついていないというか。

 ただ勇名館に当たるのはブロック決勝で、四回勝つ必要がある。

 二回勝てば県大会本戦には進める。

 もっともそこでいい山に入るためには、やはり決勝までは勝ち進んでおきたい。


 現在の千葉県の高校野球事情は、私立が二校、公立が二校の、四強状態となっている。

 トーチバ、勇名館、白富東、上総総合である。

 そこから少し落ちて、東雲、三里、蕨山、久里浜商業などといったところがある。

 このブロックで強いのは、とりあえず勇名館だけだ。

 この10年間で甲子園に行ったのは、久里浜商業を除く七校だけ。

 その中でも最強なのは、間違いなく白富東である。


 だがそれは、実績が最強というだけだ。

 去年の秋は勇名館に決勝で負け、一昨年の秋は準決勝でトーチバに負けた。

 夏の甲子園の連続出場記録は続いているが、センバツにはなかなか出られない状態になっている。

 それでも秋は関東ベスト8。

 今年の夏も間違いなく、有力な優勝候補である。




 一回戦のマウンドに、最初に立った優也は、マジか、と呟いてみる。

 この間まで中学生だった一年生に、一回戦のマウンドを任せるという、言わば暴挙。

 だが白富東では、当たり前のことも行うし、非常識なことも行う。

 そうやって蓄積されていくのは、新しいものへの好奇心と、思考の柔軟性。


 野球は相手の裏を書いたら勝てるスポーツである。

 その選択の幅を広げるためには、実戦で色々なことを試していく必要がある。

 たとえ点を取られてでも、経験を積まなければいけない。

 ブロック大会の一回戦というのは、よほどクジ運が悪くない限りは、そうそう序盤から強豪と当たることもない。

 当たったとしても、とにかく二回勝っておきさえすれば、県大会本戦には進める。

 そしてそこで二回勝てば、夏のシード権は取れるのだ。


 国立もキャッチャーの塩谷も、気楽にやればいいと言っていた。

 それは確かにその通りなのだろう。

 相手チームの情報を聞くに、とても苦戦するような戦力ではない。

 たとえ打たれたとしても、それよりもさらに打って、点を取り返せばいいのだ。


 優也はプレッシャーに弱いタイプではない。

 だが同時に、気負いすぎるタイプではある。

 初球から体の開くのが早い。

 球速自体も速いので、どうにか相手のバッターは合わせるだけで精一杯だった。

 ボテボテのサードゴロで、まずはワンナウトである。


 球がいかなかった。

 優也にもはっきりと、今の球は悪いと分かる。

 白富東に入って驚いたのは、ミーティングの内容である。

 それは精神論や一般的な技術論ではなく、統計と情報から導き出されるもの。

 優也の場合は、ストレートに成長の余地が多い。

 ただ今は、とりあえず振り切る時に、指でボールを切れと言われたものだ。


 スライダーを使う優也には、なんとなくイージ出来る。

 ただ今の球は、指がしっかりとかかっていなかった。

 立ち上がりが悪かったり、日によって調子のふり幅が大きい優也であるが、それを白富東の指導陣は、精神的なものだとは考えない。

 必ずどこかに、技術的な問題はある。

 それを精神的なものとしてしまうからこそ、選手はよけいにスランプになるのだ。




 二番打者へは、コントロールを考えず、腕の振りを意識したストレート。

 だがこれが、エルボーガードをしている相手の腕に当たってしまった。

(よけられるだろ)

 帽子を取って、おざなりに頭を下げておく。

 とりあえず今日は、あまりいい出来ではない。


 ランナーを出した後も、塩谷の要求はストレート。

 だがこれに優也は首を振る。

 なんだかんだ言って、今日はまだ二球しか投げていない。

 投球練習ではない、実戦でのスライダーを試しておきたい。


 三年生のキャッチャー相手に首を振るあたり、確かに優也はピッチャーである。

 そして塩谷もすぐに、サインを変えてくる。

 だいたいピッチャーというのは、ストレートで抑えたがるところがある。

 だが優也はスライダーを要求させた。

 おそらく相手のバッターは、これまでの配球から、これでまたストレートが来ると予想しているだろう。

 そこにスライダーがきたら、確かに面白い。


 ほぼど真ん中に入ってきたスライダー。

 つまりそれは、ど真ん中から逃げていくものである。

 三番バッターは振っていくが、バットの先に当たってセカンドゴロ。

 それをまずは二塁に入ったショートに投げて、そこから一塁へ。

 ダブルプレイ成立でチェンジであるが、今日はまだ三球しか投げていない優也である。


 運も実力のうちと言うべきか。

 だが実際のところは、序盤の運など試合全体から見れば意味はない。

 運には振り幅がある。

 ピンチの次にはチャンスとか、そんなオカルトめいたことは言わないが、今は幸運であったが、不運も絶対にやってくるのだ。

「最後のスライダー、コースはともかくキレは良かったぞ」

「うす」

 そしてベンチに戻ってくるナインである。


 高校に入って最初のマウンドが、三球で終わってしまった。

 自分がやったことと言えば、半端なストレートと、デッドボール。そしてスライダー。

 スライダーのキレは良かった。真ん中に入ってきたので、上手く外に逃げていった。

 ただどうも今日は、コントロールは悪そうな日である。

「あんまコントロールを気にするなよ。ガンガン腕振っていけば、それでアウトに出来るから」

「うす」

 塩谷としては優也を、どうにか夏までにはピッチャーの一角に育てたい。

 現在の白富東には、勝負所で三振を捕れるピッチャーがいない。

 スモールベースボールが基本の高校野球では、ゴロを打たれた間に点数が入ることもある。

 スライダーで三振が捕れる優也は、貴重な戦力になりえる。


 そして一回の裏。

 白富東打線は、着実に先取点を取っていくのであった。

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