終章 3話(完結)

 ふと、木の葉の擦れる音がした。

 さらさらと揺れる葉擦れの音に、リューヤはにっこりと笑顔をつくる。振り向いて見なくとも、そこに誰が来たのかが分かる。

 とても優しい匂いを風が持っていた。そんなのは、イディアでしか有り得なかった。

「イディア様、どうされたんですか?」

 笑顔で振り向きながら、リューヤはそう訊いた。

 ここに来てくれたのはとても嬉しいのだが、いま自分がいるこの場所に、これまで一度もイディアは来たことがなかったのだ。

 聖殿のある湖からほど近い場所に位置する小高い丘。景色がいいからと、リューヤがいくら誘っても、である。

 イディアは軽く笑むような眼差しを少年に向け、そして銀色の長い髪をさわさわと風に遊ばせるように、ゆっくりと町を見下ろした。

「町を見に来た。昔と、同じ場所で見ようと思ってね」

 この、アルファーダの消滅を ―― 。

 最後の言葉は口には出さなかった。どこか淋しげな微笑を浮かべ、ただただ、心の中で噛み締めるように呟く。

 この丘には、かつては家が在った。

 イディアが誕生し、そして、すべてを失った家。自分の原点であるそこへ、彼は戻ってきたのである。アルファーダの、最期を見るために。

「ここから見る景色、とっても綺麗ですもんね」

 そうとは知らず、リューヤはにこにこと笑った。ゆっくりと休んだおかげか、イディアの顔色が元通りになっているのも嬉しかった。

「そうだね」

 静かにイディアはそう応え、目を細めるように町の姿を眺めやる。

 これから訪れようとしている夜に、家路を急ぐ人々の姿が見えた。彼らのその表情に久し振りの『夜の闇』を訝しがる様子はまったくなかった。

 人々にとって、夜になれば暗くなるのは当然のことだった。

 動くことを止めたこの大地のように。アルファーダの人々も進むことなく。この数百年の間ずっと、長い長い『一日』が続いていたに過ぎないのだ。

 カイルシアの『閃光』を受けたあの日を、ずっと ―― 。

「本当に、夜って空が暗くなるんですね」

 リューヤは感慨深げにそう呟く。

 町の人間たちとは違い、きちんと『時』を重ねたリューヤだけが、そういう感想を抱いた。

「でも、真っ暗になったら少し怖いなあ。イディア様の『眠りの夜』の方が優しいし、おれはずっとそっちのほうがいいや」

 そう言って、少年はペロリと舌を出す。

「もう、眠りの夜は必要ない。真実の夜が、これからは訪れる」

 穏やかな微笑がイディアの頬を彩った。そして、ゆっくりとティアレイルたちを見回し、最後にリューヤに視線を戻す。

「リュー」

「はい?」

 名を呼ばれて、リューヤは元気に返事する。

「もうすぐアルファーダは眠りに就く。だから、リューはアルディスたちと東側に行きなさい。いや……帰りなさい」

 イディアは柔らかな眼光を少年に向け、諭すような口調をつくった。

 リューヤはきょとんと目を丸くした。一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「………?」

 答えを求めるように、リューヤはイディアを、そしてショーレンを見やる。

 ショーレンは無言のまま、その目を見返しただけだった。自分が何かを言えるような事ではないと、そう思った。

 リューヤは不思議そうに首を傾げた。

「陽が落ちればわかる。おまえは、ここの人間たちとは違うのだということが」

 イディアは静かにそう言うと、以前ティアレイルに話したのと同じことを、穏やかに、そして丁寧にリューヤに話す。

 アルファーダに生きる『生命』のこと。

 そして、リューヤがここに来た時のことを ―― 。

「…………」

 リューヤは大きな瞳を見開いて、イディアの顔をじっと見つめた。その目に、じわりと大粒の涙が浮かび上がった。

 とても哀しかった。イディアの、自分に対する思いやりが……。

 リューヤはふくれあがった涙を慌てて両の袖口で拭うと、深い息をひとつ、ゆっくりと吸い込み、そして強い笑顔を浮かべた。

「おれは、イディア様がいる所にしかいないんです。だから……レミュールには行かない」

 リューヤはキッパリとそう言った。

 確かにショーレンのことも大好きだった。けれども、どちらかを選べと言われたならば迷わずリューヤはイディアを選ぶ。

「私も、いなくなるかもしれないぞ」

 イディアは低くそう呟いた。それが有り得ないことだと、イディアは自分で分かっていた。

 それがどんなに自然の理に反したことだとしても、自分は他のアルファーダの民とは違い、こうして生きているのだから。

 けれども、あえてそう言った。リューヤが、レミュールに行きやすいように。

「……もしお姿が見えなくなったとしても、イディア様は、アルファーダになら居てくださる」

 凛とした口調で、リューヤはイディアの瞳を見つめた。

 アルファーダの大地や木々、流れる水や風。そして天空をたゆたう雲さえも、イディアの感覚は深く染み込んでいる。

 そんなアルファーダが、リューヤは大好きなのだ。他のなにものにも、それは替えることなど出来ない ―― 。

「…………」

 イディアの長く綺麗な睫毛が、静かに深く伏せられた。その頬に珠玉にも似た雫がひとつ、つうっとこぼれおちた。

 どうして涙が零れたのか、イディアは自分でも分からなかった。ただ、言いようのない感情が、強く、暖かく。胸の奥から込み上げた。

「イディア様……だからレミュールに行けなんて、言わないでください」

 リューヤは懇願するように、青年の薄藤のローブをひっしと掴む。

 イディアは瞳を上げ、優しくリューヤを見つめた。

 そして、心を決めたようにゆっくりと笑顔を広げ、穏やかに頷く。

 息を潜めて成り行きを見守っていたショーレンたちは、ほうっと深い呼吸をついた。

 リューヤをレミュールにつれていくことは、誰にとっても幸せなことではないと、ショーレンはそう思っていたのだ。

 そのとき、ふと。『時の鐘』が夜を告げる玲瓏な音色を響かせた。聖殿と共に焼け落ちて、鳴るはずのない大鐘楼の鐘の音が ―― 。

 それは、西側世界の、イディアに対する最期の挨拶だったのかもしれない。

 刹那、太陽が落ちて暗くなった空の下で、仄かにともされていた町の灯がゆるやかなオレンジ色の渦をつくった。

「あ……みんながっ!」

 リューヤは信じられないというように目を見開き、勢いよく立ち上がる。

 町全体が、まるで砂でつくった城のように風に靡き、さらさらと柔らかな音を立てながら大地に還ってゆくのである。

 そしてパルラも町の人々も……アルファーダに残されていたすべての生命たちは、ほのかにともされた灯のように煌めき、ゆらめきながら風の中に溶けていく。

 まるで、地上にたくさんの星がちりばめられ、そしてゆっくりと消えていくようだとティアレイルは思った。

 小夜や左京の命が塔に奪われ、消えていった時とは明らかに違う優しい生命の消滅。とても優しく、穏やかな風が、そこには流れていた ―― 。

 夢を見ているのかと、何度もリューヤは目をこすり、そして食い入るようにそんなアルファーダの姿を見つめた。

「彼らの長かった『一日』が……ようやく終わるんだよ」

 イディアはそれを心に刻み込むように見つめながら、ぽつりと呟いた。

 その声は、どこか淋しそうにも聞こえた。けれども。表情は満ち足りたように静かに微笑っていた。

 三百年前に消えたはずのアルファーダの生命は、ようやくカイルシアの悪夢から解放され、優しい眠りに就く。

 新しい『生命』として甦るまでの、僅かな休息 ―― 。

 それは、アルファーダが『D・E死した地球』ではなく、再び生きた土地として甦るための第一歩だった。

 ふっと、イディアは天空を仰いだ。何かが、そっと肌に触れたような気がした。

「……雪?」

 天空から、白銀に輝く花弁のようなものがふわりふわりと舞い降りてきていた。

 リューヤも驚いたように上を向き、両手をいっぱいに掲げてみる。

 静かに舞い落ちる『それ』は、雪のように冷たくはなかった。逆に、ほのかに暖かい。そして、何かに触れると、すうっと溶けるように消えていく。

「……なんだか聖雨に似ているね」

 その降ってくるものたちが持つ感覚に、セファレットは不思議そうに呟いた。

 聖雨が雪のように舞うなどと聞いたことがなかったけれど、どう考えても、これは『聖雨』の感覚だった。ティアレイルが降らせる聖雨によく似て ―― 。

「イディア様の、眠りの夜に吹く風みたいだよ」

 とてもあたたかく、優しい。人の心を和ませる、穏やかな……鎮魂歌。リューヤは雪を浴びるようにはしゃぎ、そして嬉しそうに笑った。

 そんな彼らに、ショーレンはくすりと笑う。

「俺には『この感覚が何に似てる』とかいうのは分からないけど、これはおそらく月の欠片だよ。衝突が少し遅れて大気圏内だったからな」

 衝突したのはレミュールの上空そらだったけれど、時間とともにアルファーダの天上にまで流れてきたのだろう。

 現実的なことを言いながら、ショーレンはしかし感慨深げに瞳を細めた。

 月のかけらがなぜ雪なのか。それは科学者である自分には分からない。だが、そう考えたほうがよく似合う。そう思った。

 絶え間なく降り頻るそのひとつひとつの欠片には、月光つきあかりのような柔らかな光が宿っているのだから ―― 。

「さっきの流月の塔の件で、ティアとイディアの魔力がレミュールとアルファーダに充満してたからな。欠片がそれを内包してるのさ」

 閃光を止めるためにアルファーダに放たれたイディアの魔力。

 そして蒼月を転移させるためにレミュールに放たれた、ティアレイルの魔力。

 どういう経緯からなのか。それらが月の欠片をまきこんで、空から地上へ。静かに雪のように舞っている。

「だからまあ、あながち聖雨やイディアの風ってのも間違いじゃないな」

 アスカは軽く口端を上げるように笑った。

「……そっか。レミュールもアルファーダも、今までずっと聖雨や眠りの夜の優しさに守られてきたんだものね」

 ルフィアはにこりと笑い、空を見上げた。

 三月みつきが失くなり、カイルシアの魔力干渉のすべてが消えたこの惑星が、再び生命活動を開始したことで自然界の歪みは正された。

 もはやレミュールとアルファーダに、『聖雨』も『眠りの夜』も必要はない。

 だからこそ、壊れた『三月』の欠片は最後に名残を惜しむように。彼らの魔力をまとい、雪となって降ってきているのかもしれないとルフィアは思った。

「月のかけら……か。そうだね」

 ティアレイルはちょっと笑った。それが新たなアルファーダを造る生命の欠片であるように、ティアレイルには思えた。否、そうであって欲しいと思う。

「 ―― アルファーダはゆっくりと、優しい生命を取り戻していくよ」

 すぐそばで天を仰ぐイディアに、ティアレイルは柔らかな眼差しを向け、確信に満ちた言葉を紡ぐ。

 イディアは穏やかな、しかし強い笑みを浮かべ、天を仰いだまま瞳を閉じた。

 ふいに、強い風が吹いた。

 わずかに茂った木々の葉と、絶え間なく降りそそぐ月のかけらが、風に流れるように、そこに在るものたちの耳許を心地好くくすぐった。


 そして、ゆうるりと。

 ふたたび動きはじめた大地の息吹うたが、優しく響く。

 降り頻る……月たちの天空そらに ―― 。



『降り頻る月たちの天空に』 完




*****

ここまで読んでくださってありがとうございました。

ご感想や、気に入った登場人物などがいましたら、教えてもらえると嬉しいです^^

このあとは、いくつか番外編などをアップする予定です。

そちらもお付き合い頂けたら幸いです。 byかざき

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