終わらない悪夢
相変わらず、悪夢は毎晩続いていた。
「ぁぎ、ああ……やめっ……ぅあ……!」
何度味わっても慣れることはない。骨と肉を押し潰されそうな触手の圧力と、粘液らしき不愉快な感触。そして、飽きもせず私の口を弄ぶ冷たい手。時折、視界が塞がれていることを幸運に思うことがある。目の前に居るである触手の主がどんな表情を浮かべているのか、そもそも私が「顔」と認識出来るようなものを持っているのか、知りたいと思う反面、知ってはいけないのではないかという思いも同時に抱いていた。
そして今日も、触手の主は、ただの一言も声を発さなかった。
ジャーキング。睡眠中に発生する、筋肉の痙攣。その衝撃で目を覚ました私は、今までに見たことのない表情を浮かべた新楽の顔が目と鼻の先まで近づいていることに気が付き、思わず飛び退くように仰け反った。
「新楽っ!? あれ、そっか、私……居眠りしてたのか」
「はい、それはもう、ぐっすりと。ですが、数分前から急にうなされ始めたので、何が起きたのかと心配していました。」
「ああ、そう……ごめん、最近よくあるんだ」
寝ぼけていた頭が、霧を晴らすようにゆっくりと起きてくる。そうだ、確か昨日は珍しく夜ふかしをしてしまって、このまま朝まで起きていれば悪夢を見なくて済むのでは、という思いつきを実行したのだった。で、その結果がこれである。放課後、いつものように第二ミーティングルームへ来たは良いものの、睡魔に負けてうたた寝を始めてしまったのだ。
寝ている時間が短かったせいか、夢の記憶はいつもより曖昧だが……新楽の口振りからして、私はかなりうなされていたようである。さっきの表情を見る限り、彼女は本気で私の様子を心配していたらしい。気づけば既にいつものにやにやとした笑みを浮かべているが、眉を八の字に歪めながら私の顔を覗き込んでいたのは見間違いではないだろう。なんだ、結構可愛いところあるじゃないか、この後輩。
──などと言っている場合ではない。
「くそっ……あの悪夢、昼寝でも例外なく見る羽目になるのか」
「悪夢? 怖い夢でも見たんですか。先輩にも怖いものがあるんですねぇ」
「いや、私だって怖いものくらいあるよ。むしろ怖いものだらけだよ」
「へぇ、それで、どんな悪夢なんです? そういえば、私たちが今居る旧校舎、どうやら幽霊が出るって噂があるらしいじゃないですか。もしかして、先輩に取り憑いてるのかもしれませんねぇ」
「え、なにそれ、初耳なんだけど……」
予想していなかった新事実に戸惑う一方で、私は彼女に悪夢の内容を話すべきか迷った。少なくとも新楽は、私の悪夢について「なるほど、それは性的欲求不満の表れですね」などと茶化すタイプではない。とはいえ、話したところで反応に困るのではないか、という心配はあった。私だって、他人から「大量の触手に巻き付かれて誰かに顔を触られる、という内容の悪夢を半年間毎晩欠かさず見せられている」などと聞かされたら反応に困る。
と、そんなふうに逡巡していた私だったが、実際のところ頑なに隠すほどの話でもない。向こうが悪夢の内容について質問してきたのだから、私はそれに答えれば良いだけだろう。そんなふうに結論を出して、私はここ半年間見続けている悪夢について後輩に語って聞かせた。
「──と、こんな夢を半年くらい毎晩見ているわけだ」
「……半年間、ずっとですか?」
「そう、半年間ずっと。詳細にいつからだったかは覚えてないけど、まあ……大体、五月くらいかな。ああ、そうだ。体育祭よりは後だった。五月中旬か下旬くらいか」
「ふむ、不思議なこともあるんですねぇ。しかし、今後も毎晩同じ夢を見続けるかもしれないと考えたら、これはどうにかした方が良いんじゃないでしょうか。ほら、昔ながらの都市伝説に『猿夢』ってあるじゃないですか。今はまだ夢の中でも殺されずに済んでいるかもしれませんが、回数を重ねるうちに段々と……ということがありえるかもしれませんよ?」
「怖いこと言わないでよ……どうにかって、何をすれば良いかも分からないのに」
新楽の発想に少しの恐怖を覚えつつ、私は深々と溜息を吐いた。確かに、半年もの間ずっと同じ夢ばかり見るというのは異常なことなのだが、そうなったきっかけが私にはさっぱり分からない。対処をしようにも、原因が分からないので対処のしようがないのだ。
しかしどうやら、新楽には何か策があるようだった。
「そうですねぇ……とりあえず、私が知っている魔除けの儀式でも試してみますか? なにも幽霊や悪魔の仕業だと決まったわけではないですが、何もしないよりはマシでしょうし」
「魔除けの儀式?」
「はい。儀式と言っても、手順は簡単です。枕元、もしくは寝ている場所の近くに塩水を入れたコップを用意して、寝る直前に爪の切れ端を沈めておくだけですから」
「……それだけ?」
「はい、それだけです。あ、爪は塩水に入れる直前に切ってくださいね」
拍子抜けだった。いや、仰々しい「儀式」を教えられてもそれはそれで困るのだが、こんな簡単な方法で効果が出るのだろうか。彼女が言う通り、私の悪夢が「魔」と称するような存在の仕業かは定かでないが、たとえそうだとしても、これが効くのかはとても怪しい。
「おや、さては効果があるのか疑っていますね?」
「いやまあ、別に君が面白半分で私に嘘を教えてるとは思わないけれど……」
「効果のほどは、試してみれば分かることですよ。結果は明日、教えてくださいね、先輩」
そう言って彼女は、にやりと爬虫類のような印象の笑みを浮かべる。そういえば、イヴをそそのかして知恵の実を食べさせたのは蛇だと聞いたことがあるけれど、その蛇もこんなふうに笑っていたのだろうか。私はふと、そんなことを考えた。
ともあれ、ほかに何かあてがあるわけでもない。今夜はその儀式を試してみよう。そう考えた私は、念の為、儀式の手順をスマートフォンのメモアプリに残しておくことにした。
その日の晩、私はまた悪夢を見た。
「ごめん、なさい……許して……ください……」
千切れて地面に落ちた無数の触手に囲まれて、四肢をもがれた新楽瑠璃が呻いている。辺りにはおびただしい量の鮮血が飛び散っており、現実であれば言葉を発することはおろか、死んでいてもおかしくない。
そんな光景を目の前にして、私は絶句するほかなかった。
「ど、どういう……こと……?」
あまりにも予想外の出来事。私の頭は理解が追いつかなかった。足元にはいくつもの触手が散らばっているが、周囲に触手の主らしき姿はない。その代わり、少し離れたところには人間の手足らしきものがバラバラに放り出されており、それが新楽のものだと気づくのに時間はかからなかった。
「私……悪いのは、私……許して、ください……全部、私が……」
首と胴体だけの姿になった新楽は、壊れたように謝罪の言葉ばかりを繰り返している。その言葉の意味が、私にはよく分からなかった。魔除けの儀式、あれが触手の主を怒らせたのだろうか。しかし、だとすればどうして、私ではなく彼女を?
目の前に広がる凄惨な光景とは裏腹に、私は不思議と冷静だった。これは夢だ、という認識がはっきりしているからだろうか。しかし、慣れ親しんだ知人が血溜まりに沈んでいる姿というのは、見ていて気分の良いものではない。途端に遅れてきた吐き気をどうにか堪えつつ、私は新楽の傍へと歩み寄り、しゃがみ込む。彼女の目は虚ろで、すぐ近くに居る私の存在に気づく様子もなかった。
「新楽、何があった?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「新楽」
呼びかけにも応えない。ただひたすらに、誰かへ謝り続けるだけ。誰に対して何を謝っているのか、それも全く分からない。触手の主に許しを乞う、というような様子にも思えなかった。
その後、夢の中で何が起きたのかは思い出せない。確かなことは、私がここまでの記憶を保ったまま、目を覚ましたということである。
毎朝悪夢にうなされて飛び起きていたというのに、体に染み付いた習慣というものは恐ろしい。いつも通りの起床時間、グロテスクな夢から抜け出して寝ぼけ眼をこすった私は、夢なのだから心配ないとは思いつつも、新楽の身を案じずにはいられなかった。
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