招き入れたもの



夜のとばりが沈む夕陽に引っ張られ、群青色に染まり始めた空には星が顔を覗かせていた。

突如として寝室に現れた見知らぬ男は、エリスティナを羽交い締めにした手を緩めることなく言葉を続ける。


「私の身体には呪詛がかけられている。それを解くには……」


——トン、トン

姫様———。


扉の向こうで響いた声に激しく安堵する、いつもの時間きっかりだ。

柱時計は午後六時を指している……夕食の準備が整った事をマイラが知らせに来たのだ。


ノックの音に驚いたのか、男が僅かに腕の力を緩める。

その一瞬を逃さず……口を塞ぐ手のひらを払い除け、エリスティナは男の胸から瞬時に離れた。


——トン、トン

姫様、入りますよ——?


「………ッ、ほら、メイドが来るわ。あなた捕まるわよ?!」


男の、あっけに取られたような顔。

改めて見れば、とても端正な顔立ちをしている。


——変質者には見えないけれど。


しかし皇女の寝室に忍び込んでいる時点で危険人物確定だ。


「マイラっ!!」


エリスティナが声を上げたのとマイラが寝室の扉を押し開けたのと……それらはほぼ同時だった。


ベッドから飛び降りてマイラの元へと思い切り走る。驚いたマイラが目をまん丸くして見つめるのを、その腕に縋るように捕まり見上げれば、ジワリと遅れて込み上げてきた激しい恐怖心に目頭が潤んだ。


「姫、様……? どうかされましたか?!」

「どうかって、あ、あの……男がっ」


広さはあれども、四角い壁に囲まれた寝室の入り口は一つだけ。

窓ガラスでも割らない限り逃げ出す事は不可能だ。

逆に、逃げなければならないのは自分たち女性のほう。男が逃亡するために何をするか知れたものではない。


——ここから出なければ!


エリスティナの居室に繋がる回廊の入り口には衛兵も控えているはずだ。

とっさにマイラの腕を掴み、扉の外に向かって強く引く。


「あらあら……怖い夢でもご覧になったのですか?」

「マイラっ、早く、外へ……!」

「まだ寝ぼけてらっしゃるのですね。お水を召し上がりますか? もうお時間ですから……晩餐のお着替えを」


そこにいる男……!! マイラにも見えているでしょう?!


「ふふっ、姫様が拾ってこられたあのけもの。こうして見れば、愛らしいものですねぇ」


「ぇ……?」


マイラのあまりに呑気な笑いと言葉に拍子抜けしてしまう。

そういえば、男が居た場所で寝ていたはずのは?!


恐怖心が拭えないまま、マイラの視線の先を見遣れば。

白銀のふわふわしたが、ベッドの上にちょこんと座っている——二つのつぶらな青い瞳をこちらに向けて。


「どういう、こと……? マイラっ、さっきまで、ここに……居たのよ、知らない、男が……っ」

「姫様、いつまでも寝ぼけていらっしゃらずに。晩餐のお支度をいたしますよ?」


「晩、餐……」

「今夜は陛下と皇后様がご一緒なさいます。姫様に、大切なお話があるとおっしゃっていましたから」


エリスティナは、狐につままれたような気持ちでいる。

さっきまでベッドにいた男はもう、影も形もなくて。


マイラの言うように、夢だったの……?

——そんなはずはない。


後ろから身体を包まれる感覚が。

口元を塞がれている間に感じていた男の手の熱が……

頬にまだしっかりと残っているのだから。


大きなベッドの上には小さな獣がおとなしく座り、こちらを見つめている——…

銀色の毛並みに、光差すグルジアの海のような色の


先程の男の着衣は、銀糸で編まれたものだった。

そしてエリスティナを物憂げに見下ろしていたのは、けものと同じ青い瞳。


『私の身体には呪詛が掛けられている。それを解くには——』


羽交い締めにされていたとは言え、男の腕に乱暴さはなく、声色は切実で。


『私を助けてくれないか』


クローゼットに向かったマイラを横目に、獣が向けてくる視線から目を離すことができない。それは強く、何かを訴えているようにも見えた。


「まさか、あなた……」


もしもエリスティナの想像が正しければ、森で出逢ったを皇宮に……この寝室に招き入れたのは他の誰でもなく、エリスティナ自身だ。



——ちょっと、待って。


けものイコール、


だとすれば……。



森の泉で、獣を洗った。

その時の自分はといえば——・・・



みるみる頬が火照り、鼓動が胸を打ちつける。

あの男性に……見ず知らずの、男に。



—— 見られた!!



なんてこと、なんてこと、なんてこと。

知らなかったとは言え、純潔を守らねばならぬ結婚前の自分がだ。



どうしよう——!?



両腕を絞えて胸元を掻き抱く。背中からゾワゾワと押し寄せる震えが止まらない。


「マイラ……わたし……っ」


クローゼットからラベンダー色のドレスを出してきたマイラが何度か咳払いをする、上機嫌でいる時の彼女の癖だ。


「今夜はきっと、特別な夜になりますよ」


両親には申し訳ないけれど、

とても晩餐どころの気分ではない。


——夫でもない男性に素肌を見せてしまったなんて。


わたしもう……お嫁に行けない……!!


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