第16話 熱-前編

 体がだるい。今朝は、起きてからすぐ顔にかける伊達眼鏡も、する気にならないくらい身体がだるい。

 ロイクは、ハワード家の屋敷にある自分専用の使用人室に、寝間着姿でベッドに横たわっていた。


 ロイクが先程から口に入れていた水銀式体温計を取り出して見ると、40度を指す所で赤い線が止まっていた。


「今日はお休みを頂かねば……」


 ぼんやりした頭でロイクは呟いた。



「疲れからの風邪だね。感染症じゃあなくて良かったね、安静に」


 ハワード家専属医師の白衣を着た老齢の医者は、ベッドに横たわるロイクにそっけなく告げる。


 医者は薬を数日分袋に入れて、ロイクの枕元に置くと帰っていった。


 医者が出て行って少し経つと、イメルダがロイクの自室のドアを開けて入って来た。


「ロイク! わたくし、今日の騎士団の定例会へ行くのをやめましたわ」


 今日はハワード家に住むイメルダの両親と兄妹、使用人までもが参加する、騎士団の定例会の日だ。

 定例会といっても、懇親会の様なもの。つまり会場は騎士団本部だが、ただのホームパーティの様なものである。


「ゴホッゴホッ……お嬢様、本日は私しか屋敷におりませんが」


 ロイクは驚いて、声をあげる代わりに咳き込む。

 本来ならば定例会は長女のイメルダも参加し、ロイクも着いていく。


 しかし、ロイクはケロベロス伯爵邸から帰った後、高熱で倒れてしまったのだ。

 その為、ロイクは今日の定例会は参加せずに休暇を取っていた。

 まさかイメルダまで不参加とは、ロイクは脱力した。


「お嬢様のお世話は、本日はできそうに……ゴホッ……ないです」


 ロイクは、自分が熱を出した原因は分かっている。

 どう言う訳か、イメルダお嬢様はケロベロス伯爵邸からの帰りの馬車の中で、ロイクに好きだと伝えてきた。


 それは冗談なのだろうか。それとも――。

 ロイクはイメルダに返事もできずに悶々と考えている内に、いつの間にか高熱で倒れてしまったのだ。


 そう、この熱は考え過ぎて頭がキャパオーバーとなった時に出るもの。知恵熱というやつだと、ロイクは推測していた。


「分かっています。だから、わたくしがロイクを看病してあげてもよくてよ」


ロイクはその言葉を聞いて、頭痛がした。イメルダの善意は何となく伝わってくるのだが。

 問題は別のところにある。貴族であるので当たり前なのだが、お嬢様は家の事は何もできないからだ。


 ロイクが再びイメルダを見ると、彼女は腰に両手を当て、目を瞑って「称えなさい!」

 そう言わんばかりの自信に満ち溢れた顔をしている。

 これはぞんざいに扱うとヒステリーを起こしそうだと、ロイクは苦笑した。


「とんでもございません。普段身の回りの事をしていないお嬢様が、まともに何かでき……ああっう!」


 ロイクがイメルダに抗議、いや諭そうとした時、視界が冷たい何かに塞がれた。

 思わず情け無い声を上げてしまうが、眼鏡が潰れたのでは、と目元に手をやる。

 しかし、今日は眼鏡をしていなかった事をロイクは思い出した。


「黙りなさい。早速貴方の為に氷枕を作りました。感謝なさい?」


 目元ではなく、額に当てて欲しいとは言わず、ロイクは自分でゴム製の袋に入った氷枕を額に滑らせた。


「ありがとうございますお嬢様。ですが、もう十分です。風邪を移してしまいますから、後は……」


「次は……そうだわ! 食事! 風邪ですから、パン粥を作ってきますね」


 そう言うとイメルダはロイクの自室から出て行ってしまう。


 風邪のせいだろうか。それとも別の原因か。ロイクは悪寒を感じた。

 お嬢様は料理をする気だ、これは絶対に止めなければ。

 ロイクは重たい身体を起こし、ベッドからなんとか這い出る。


 お嬢様はお料理教室のメラン先生がいないと、卵一つまともに割れないのだ。

 キッチンの火なんて絶対使えない。

 最悪ハワード家の大きな屋敷が全焼だ。


「今日は……お休みなのに……」


 ロイクの久しぶりの休日は、休日出勤に変わってしまったようだ。


 急がなければ。執事の正装である燕尾服や手袋も、今は身に着ける余裕はない。

 ロイクは重たい足取りで自分の部屋から出てキッチンに向かった。

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