第三章(鎌倉市稲村ヶ崎)

第1話 稲村ヶ崎とシロ

 今、僕は稲村ヶ崎にいる。

 来たことが無い人もきっとこの地名は知っているのではないだろうか?

 目の前には、いつものように青い湘南の海が広がっている。多くのサーファーがボードに立っては波に飲まれているのも見慣れた情景だ。


 僕は乗ってきた自転車を止め、チェーンをかける。そして、海側に飛び出た柵の向こう側を歩き、そしてもっとも見晴らしが良い箇所に腰を掛ける。


 波打ち際では、上半身裸のおじさんが老犬と思われるラブラドール・レトリバーにボールを投げている。地毛が少し張りを無くしているものの、元気にボールを追いかけ、おじさんの元に走っていく姿はとても微笑ましい。

 たまにボールが波にさらわれても、老犬は恐れず海の中へとダイブしていく。その度に大丈夫だろうかと心配になるのだが、見事にボールを咥え砂浜に戻ってくる。気がつけば僕はその度に拍手をしていた。その音に気づいたのかおじさんがこちらを向いて右手を挙げている。僕も、再度拍手をして両手を挙げて挨拶をした。


 稲村ヶ崎から自転車で五分ほど坂を登った場所に僕の住んでいる家がある。古い家だがこうしてすぐ海に来れるのが最大の利点だ。ただ、鎌倉は坂だらけなので、行きはよいよい帰りはしんどいというのがたまに傷なのだけど…。


 家から海側でなく山側に続く坂を登れば、五分ほどで江ノ電 極楽寺の駅が見えて来る。僕が勤めている会社がある東京駅までは、江ノ電とJRを乗り継いでも約1時間で行けるので不自由はしていない。

 僕は、やっぱりここ鎌倉が好きだった。


 ショルダーバックからペッドボトルを取り出し常温の水を飲む。暑い時は冷たい水よりも何気に常温の方が飲みやすいのだ。

 僕は、柵と繋いでいたチェーンを外し、自転車にまたがる。今度は、海沿いに江ノ電 長谷駅方面に向かって走り出した。

 今はもう使う事がない赤い取っ手のリードが自転車の前カゴの中で寂しそうに揺れていた。





「さぁ、シロ!行くぞ〜!」


 僕は毎朝五時に起きる。そして、シロと散歩に行くのが日課だった。

 とにかく走ることが好きなシロを満足させる為に、僕はリードを持ちながら自転車に乗ったのだ。そして、散歩の最後にいつも稲村ヶ崎の波打ち際をゆっくりと歩いてクールダウンするのが所謂ルーティンだった。


 シロは雑種で、名前の通りとにかく真っ白な毛がふっくらと身体を覆っていた。そして、黒い瞳と黒い鼻がとてもいいアクセントになっていた。シロは好奇心旺盛な犬だったが、どんな人や犬、そして猫にもちょっかいを出さない頭のいい優しい犬だった。


 シロと初めて会ったのは、知り合いが開催していた譲渡会だった。

 昔、飼われていたが捨てられたのだろうと代表の田村さんがシロの頭を撫でながら説明してくれた。シロは、僕が住む町で、野良の状態でいたところを保護されたのだ。もう九才は過ぎているだろうと診断されていたシロは、既に老犬の部類に入っており、当たり前だが人気はなかったようだ。だから、幾度と開かれた譲渡会でも新しい家族が決まらず、ずっとゲージの中で過ごしていたとのことだった。


 僕と母は最初は、雑種の子犬を数匹見ていたのだが、シロを紹介して貰った瞬間、シロ以外、目に入らなくなった。僕も母も完全に一目惚れしてしていたのだ。

 その後、お試し期間を経て、問題ないことを確認した後、シロは我が家の一員となったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る