第2話 『遠山咲桜』


「先輩」


 その部屋を開ければ既に一人の生徒がパイプ椅子に腰掛けていた。逆光につい、目を細める。


「あっ、りつ! 今日は遅かったね」


 その人ー咲桜さくらーは、そんな後輩の姿に気がついて、そっと微笑みかけた。名を呼ばれた律は、そっと息を吐く。この人の笑みを直視して、ほぅと蕩けない人間などこの世にいるだろうか?と、彼女はいつも思う。


「すみません、ちょっと友人と話してて」

「いいよいいよ! 二人しか居ない部活だしね」


 文武両道を謳うこの進学校では、特別な理由がない限り、必ず部活に入らないといけない決まりがあった。バイトをしたい、または、帰宅部でいたい生徒にとって、写真部というものは、丁度いい存在であったようで、幽霊部員の温床だった。

「何をしているんですか?」中へと進み、長机の上に並べられたパンフレットやプリントアウトされた書類のひとつを手に取り、律は小首を傾げた。トレードマークとも言える黒のポニーテールが、さらりと揺れる。


「そろそろ夏休みだし、何処か遠征に行こうかなぁって思ってたんだ。まぁ、遠征って言っても、予算もないし、希望者だけ、日帰りで」


 何処に行きたい?と問われ、たまたま手にしていたパンフレットに目を通す。県内の観光名所がまとめられたパンフレットだった。机の上のものをさっと見渡してみても、確かにこの近隣の県のものが主だった。遠くても、片道三、四時間程の距離だ。


「京都、魅力的過ぎますね」

「わかる」

「広島、いいですね。あた、…わたし、宮島とかも行ってみたいです。多分、めっちゃ好きです」

「わかりみ」


 ううーん?決まる気配が無いぞ、と流石に苦笑いした。


「八ッ橋も美味しいし、もみじ饅頭も美味しいよねっ!」

「先輩、お土産の話になってますよ」


 その突っ込みに笑う顔があどけなくて、今度はこっそりと、息を飲んだ。それから、吐く。ふっくらと形のいいピンクの唇に目がいってしまい、慌てて、目の前のパンフレットに視線を移す。


「ああ、でも、県内もいいですね。ここ、何気に行ったことが無いです」

「分かる! いつでも行ける、なんて思ってたら、なかなか行かないよね。県外の人の方が観光名所に詳しかったりするもんね」

「ですよねー!『県内の良さを改めて発見!』って言うのも楽しそうですよね。学祭で展示会を開くんですよね?」

「よく知ってるね」


 咲桜は知らないのだ。

 律が、この高校を志望した二つの理由の内の一つに、去年の学祭で写真部の展示会を見た事が挙げられると言うことを。

 写真は、撮り手を理解するのに最も単純で素早い方法の一つであると、律は思う。

 かつて、世界的にも有名なアニメーション映画の監督が言った。「作品を観られることは、自分の裸を見られるようなものだ」と。本当に、そうだと思う。その人そのもの、その、考え方。感性。価値観が否応なしに、全面に叩き出される。偽れない。ありのままのもの。その人自身。分身。作品とは、そういうものだと思っている。

 去年の学祭で、律は、『遠山咲桜』という人を知った。

 厳密には、その人物に会ったわけではない。作品を介して、そんな生徒がいるのだと言うことを知った。

 額に飾られた一枚の鮮やかな緑。小道の写真だ。塀に蔦が這って、幻想的な空間を醸し出している写真。小道の向こうに、小さく切り取られた風景が見える。なんの変哲もない、道路へと繋がっているようだった。

 タイトル『別世界への入り口』。

 その、発想が好きだと思った。写真の事はまるで詳しくはないが、ピントなど工夫している感じが窺える。しかし、『遠山咲桜』という人物に興味を持ったのは、次の瞬間だった。


 

 タイトル『叫び』。



 ゾクッと、全身が粟立った。

 先程の写真と同じ人物が撮ったものなのかと、目を見張った。

 それは、廃墟のようなところが写されていた写真だった。一つの椅子と、その前に一輪の花が咲いていた。そんな、白黒写真だ。これもまた、作者の意図の窺えるピントで、それは花にではなく、古ぼけた椅子の方に合っていた。

 この、草臥れたような写真のタイトルを、『静止』でも『静寂』でも、または『希望』でも『自然の神秘』でもなく、『叫び』だとした、その感性に、強く、興味を持った。

 どんな人なのだろうか、『遠山咲桜』と言う人物は。







ーーーーそして、入学。

 入部して出会った『遠山咲桜』が、イメージしていたよりもずっと美しく、繊細で、素敵な人物であったことに、また大きな衝撃を受けた。


「入部希望? え、めっちゃ嬉しい!」


 ゴツい眼レフのカメラを首に下げながら、とても線が細くて華奢で、それでいて律よりも少しだけ背の高い彼女は、本当に心から、満面の笑みを浮かべた。

 白い肌が大きな窓から入ってくる光を反射して、目を細めた。なんて、光の似合う人なのかと思った。この人が、あの、『叫び』を撮った人。外見からはあまり結び付かないような気がした。

 それから程なくして、自分の幼馴染みがずっと言っていた『サクラサン』がこの先輩の事であったことに気が付いた。


『サクラサン、ってもしかして、遠山咲桜先輩の事?』

『はっ?! えっ?! おまっ、なんで先輩の事知ってんの…?』

『写真部の先輩』

『っ! 写真部かよ!』


 律は、この高校を志望した理由のもう一つの理由である彼が、机に両の拳を振り下ろして項垂れる様を、暫くの間、見守った。

 かく言う彼は、迷うこと無く弓道部に入部していた。やたらと弓道部の話をしていたので、[[rb:先輩>かのじょ]]は弓道部なんだと思っていたんだとかなんだとか。


『ああ、くそっ! 退部して、写真部に入ろうかな…』

『遠山先輩の幼馴染みが弓道部にいるらしいじゃん。めっちゃ仲良いらしいよ。応援とか、来るんじゃない?』

『………悪くないな、弓道部』


 変わり身の早い幼馴染みに苦笑した。その裏、律は少し複雑な気持ちになった。この感情が何であり、どう表現すれば上手く言い表せるものなのか解らず、彼女はそれを飲み込むことにした。『遠山先輩の事は、あたしが報告してあげるよ』代わりに口から出た言葉に、幼馴染みは滅多に見せない笑顔を律に向け、『さんきゅ』と本当に嬉しそうに笑った。



「………朔也とは、別れたんですか……」



 あ、いけない。

 彼女がそう思った時には、その言葉は既に口から零れ落ちていた。二人しかいない部屋の空気を振動させ、すっかり咲桜の耳まで届いてしまっているようで、問われた彼女は目を丸め、次の瞬間には苦い顔をして、律を見た。


「………そういえば、幼馴染みなんだっけ…」

「はい」


 取り消すのも不自然だな。と、不意に溢してしまった言葉に後悔しつつも、腹を括った。咲桜は曖昧に笑う。その綺麗な形の唇を見詰めながら、その桜色の唇が言葉を紡ぐのを、どきどきと待った。

 沈黙が、降りた。

 まるで時が止まったようだと、律は思った。思案する顔の咲桜は変わらず美しく、その呼吸の音が聴こえてきそうな静寂に、彼女は息を飲んで、自分の『音』が零れてしまわないように注意を払った。

 この空気に波紋を起こすのは、やっぱり、先輩の美しい声が良い。ーーーそれは甘い幻想のようで、律の心を蕩めかせる。


「…………彼から、何か、聞いてる?」

「……『朝、迎えに来ないで』って」


 律の言葉に、咲桜はやっぱり、曖昧に笑った。

 あー、だとか、うんー、だとか、意味を成さない唸り声をあげた後、全くすっきりしない顔で、「混乱しているんだ」と告白した。


「……彼、は……いつから、私の彼氏だった? ……変なことを訊くよね。ごめん。良かったら、律の知る『朔也』の話を聞かせて貰えないかな……?」




 面倒臭い性格をしてて、生活にだらしなくて、先輩の前では格好つけてるけど実は滅茶苦茶ガキで、昔から彼の世話係だったと。アイツはほんと、イケメンの無駄遣いをしてるーーーそんな話をした。

 殆ど悪口だったかもしれない、と言ってしまった後に、心の中の幼馴染みに少しだけ詫びた。

 

「経緯はよく…知りません。ある日突然、付き合い始めたと聞きました……。あた、…わたし達が、中学三年生の時です。夏頃だったかと思います……」


 彼女と同じ高校に行くんだと、意気揚々と話していた幼馴染みの顔を思い出しながら、律は頷いた。「確か、夏休みでした」

 なつやすみ…、律の隣の席で、小さく、咲桜が繰り返した。

 

「………実は、私ね。…なんて言えばいいのか……。記憶を、失ったことがあって……いや、『あって』と言うか、今でも、曖昧なんだけど……」


 この日、もう何度も見た、曖昧な顔をして、咲桜は笑った。困ったようにしかめられた眉毛すら、形が整ってて美しいなと、律は場違いに思う。


「………私の記憶は、病院のベッドの上から始まってたの……」

「……」

「……彼の、顔から……」

「……」


 それさえも、先日まですっかり忘れていたんだと、彼女は、曖昧に笑う。

 律は相槌を打てないでいた。咲桜もそれを求めていたわけではなく、一人言のように続ける。


「驚いて目を丸めて、それで、心底、安心したような顔をして、ぼろぼろ……涙を流すの」

「……」

「『よかった』って。握っていた私の手を、額に当てて………それで、『貴方は、誰?』って、私が訊くと、また目を丸めて。強張って…。『え?』って……。今度は、酷く、辛そうな顔をして……でも、無理矢理、笑うような……変な顔をして、涙を、堪えて、そう……必死に泣かないようにして、彼は『俺の事、忘れちゃったんですか…?』って……」

「……」


 ああ、暗くなっちゃったね。いけない。

 咲桜は、はっと気が付いたようにそう言って笑って、この話を打ち切った。勿論、夏休みが近付く空が暗くなったわけではなく、部屋の雰囲気が、と言う意味だ。


「彼とは……別れては、いないんだと思う…」


 最後に律の問いに対する回答を口にして、それからは、改めて机の上に並べられた旅行のパンフレットや資料に目を通し、夏の遠征について二人で意見交換をしたりと、他愛ない時間を過ごした。





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