第3章 第9話 彼らだけの蜜月

 それから彼らは彼らだけの蜜月を楽しんだ。彼らなりの。健やかで幸せが色を伴っている時間を。

 冬から春へと日毎に近づいていく。風が穏やかに、時に激しく季節を流れてゆく。つめたすぎるものは、徐々にあたかみを含んでうら若き彼らを包み込んでいった。


「あははっ、やっぱり君に自転車に乗せてもらうのは、何度でも楽しいや!」


 背後にリヒトを乗せ、輝の自転車はふたたびからからと駆けてゆく。車が走るたび、白い光のすじが線を描いて流れていった。 

 輝の肩を掴むリヒトの白いゆびさきに力が込められる。その加減が、先ほどよりも強かったので、輝は驚いて目を瞠った。


「うぉい! あんま力込めんな!」


 急ブレーキをかけそうになり、一度サドルを握って、自転車の速度自体を落とした。銀色のサドルはかちかちと鳴った。

 輝が必死に体勢を整え、肩甲骨の筋肉を張るも、リヒトは手のひらに伝わるその感覚も面白いらしく、笑い声を高くしていくだけであった。森に彼の玲瓏な声が響く。その響きに反応しているわけではないであろうが、彼の頭上でトウヒの木の葉が重なって、深い緑を増し、さらさらと鳴っていた。陽が逆光となり、黒い葉に白い空が映えるように見え、カーテンのごとく布のような光の紗を垂らして自転車を照らしていた。

 リヒトはそれに抱かれるように、白金色のまつ毛を上げて輝につかまったまま、背を伸ばし歯を見せて笑った。彼の紅いくちの中がはっきりとみどりのトウヒやブナが立ち並ぶ森の中で、色を際立たせていた。


「ははっ……」


 輝も子供を背負ったように、肩の力を抜いて、リヒトの笑いにつられて声を漏らした。

 自転車は水が流れてゆくように、黄土色の道を音を立てて駆けて行く。彼らが去っていくにつれ、細く長い光の道が塗られていくように。青春はまだ始まったばかりだと、その車の音が告げているように。

 自転車が公園を抜け、湖にたどり着いた時に転げ落ちるようにふたりとも降りた。


「うわぁ〜見て! 本当に水色!」


「あ? あぁ〜んとだ。綺麗なもんだな」


 自転車をとめ、起き上がったふたりの目の前に広がる湖は、ライトブルーの空の色をうつしとったように褪めた水色をしていた。冬と春の間の色に、染め上がっている。湖を取り囲むのは一面のきいろだった。キバナセツブンソウ。一月二十日を過ぎたあたりから、イギリスやドイツで花を咲かせ、冬枯れを告げる。ぷくりぷくりと等間隔に丸を咲かせてこの時期のドイツの地を金色に染める。

 頬をそよ風が撫でる。それだけで心地よさが増して、リヒトはうっとりとまぶたを半分閉じた。

 輝は湖よりも友の穏やかな横顔を見つめていた。見惚れていたと言ってしまってもいいのかもしれない。それほどにリヒトの白い肌は青空と深い緑に映え、さえざえとうつくしかった。風が緩やかに流れるたび、彼のまつ毛が小刻みに震える。全身で自然を感じているいきものの姿。


「リヒト」


「……え?」


「いや、なんでもねぇよ。ハインベルグ」


 今、僕のこと名前で呼んだ? そう輝に尋ねたかったが、リヒトのうすいくちびるは、冷えた空気を捉えて流しただけであった。

 輝は朗らかな顔で天を仰ぐと、ズボンのポケットに両手を突っ込み、少し冷えた手の甲を温めた。

 輝の短く黒い前髪も、リヒトのまつ毛とひとしく、風が穏やかに撫で、それが湖の水面をさらって溶けてゆく。


「……さみぃ。そろそろ帰っか」


 冷えた水辺に近づいたからであろうか、コートを羽織っているというのに、彼らの肌は先ほど自転車で駆けていたときよりも一段冷えてしまっているように感じた。


「アキラ」


 リヒトが湖のほうを向いたまま友の名前を呼んだ。


「へ?」


 リヒトが輝の方を向く。


「僕、春から大学に戻ろうかなって思ってる」


 輝は真顔のままポカンと口を開けていた。そして「いいんじゃね」と一言口に出して言った。


「ん、いいじゃん。戻ってまた一緒に勉強しようぜ。おんなじ大教室で、隣の席に座ってさ」


 勉強しなくてもいい。ただまどろんで白い花弁のような光のつぶがこぼれる大教室で、お前がお前の両腕を枕にして、眠っている姿を見るだけでもいい。

 それを心の内側で思っていたが、言葉にはせずに飲み込んだ。輝は、リヒトがまた大学に帰ってくる意思を持った、それだけで胸がいっぱいになっていた。目尻に涙が浮き上がりそうになるほどに。


「帰るか。停学の期限までゆっくり休めよ。それか俺と一緒に思う存分、ドイツのいろんなところ巡るか」


 輝はぼんやりとこちらを見ているリヒトに近づくと、おもむろに彼の手首を取った。彼の手首はやわく、少し冷えていた。体の中を流れる赤い血潮が、湖と似ている青となっていくすじか流れている。

 輝は刹那的にその色に目をとめると、腕をそっと引いて、ふたたび彼と共に自転車で駆けていく道を選んだのだった。


「ははっ。アキラ!!」


 リヒトは手首に輝の熱を感じると、ふつふつと胸の内側から生命力が湧き上がり、口角を上げた。

 そして、リヒトの方から輝の手をぐっと力を込めて引く。


「おわっぷ!」


 輝がリヒトの方へ、足を崩して倒れる。

 リヒトが満開の笑顔の花を咲かせて、輝を抱き止めると、一度くるりとその場で一回転した。彼の細い足首が覗く。スニーカーソックスのうすいレースのような生地がきらりとひかる。

 男の格好をしているはずのリヒトの周囲で、

 なぜかその時、スカートのような風が舞い上がった。

 立てていた自転車が、かたりと倒れ、車の先が少しばかり湖の水面に触れて波紋を作った。きらびやかな波紋だった。水面を漂っていた一枚の葉が、ふわりと動いてどこかへ流れてゆく。

 

 輝はリヒトに「案内したい場所がある」と告げられ、連れて行かれた場所は彼の屋敷だった。


「おま……、これがお前んちかよ」


「うん。あれ? 輝、舌かわいちゃうよ。そのままだと」


「あ、ああ……」


 開いたくちが塞がらないとは、まさに今の俺の状態だなと輝は感じていた。そしてリヒトが彼の顔の前で数回手を振ったので、そっとくちびるを閉じた。

 リヒトに連れられ、深いトウヒの森を抜けて彼の家に案内された。見上げると薄青の空を覆うほどに生い茂っている森を抜け。

 ハインベルグ城ーー。城と形容しても良いほどに、大きな古い屋敷。それがリヒトの帰る家。

 昼が終わり、夕暮れに近づく濃い藍色の空に、薄紅の雲がたなびくように流れている。

 その下を、尖った氷柱つららを逆さにしたような

 形の細長い城が中央に集まるように立っている。紺色の屋根は、空を突き刺すようだ。


「すげー。ノイシュヴァンシュタイン城みてぇじゃん」


「変なこと言ってないで。ほら、さっさと中へおいでよ」


 ハインベルグの屋敷を見上げて呆然とする輝を振り返りながら、リヒトはいつの間にか彼の前を行っていた。白い両手をポケットに突っ込んで、背を逸らしながら。そよふく風が、彼のホワイトブロンドをなびく草原のように揺らす。


「ああ……」


 輝はふたたび前を向いたリヒトの背を追った。追いつつ、少しばかりまたハインベルグの屋敷を見上げた。塔のてっぺんは、いつの間にか鈍い薄墨の雲を貫いて見えなくなっていた。

 竜と虎がもつれあって草花の蔓のようになっているかのような紋様で縁取られた錆びた鉄の色をしている重たい扉にゆびをかけて開けた。

 黒い闇がうっすらと見えたかと思えば、すぐに中にともされたシャンデリアからしろく縁取られたあかりがぽつぽつとベルベットの絨毯を敷いたワインレッドの上に落とされていた。

 リヒトが中へ進むので、輝もかまわず彼の後を追う。

 外よりも暗いのではないかというその内部。輝が住まうアパートの質素な一室とは比較にならないほど豪勢で広いと感じるそれだが、どこか落ち着かなく、かつ恐ろしく、空気もさびついて感じた。頬に触れる空気が、嫌に乾いている。

 輝はひとさし指と中指をすっと揃えて前髪を上げた。

 かつかつという靴音が、洞窟に反響するように屋敷にこだまする。


「お前の親は?」


「今日はいないーーというか、家にほぼいないんだ」


 リヒトの声音が屋敷に映えるようにつめたくなった。

 輝はなんとなくそのあたりの事情について尋ねない方が良い気がして、リヒトの闇の中で発光しているような後頭部から視線を逸らした。

 リヒトが奥の螺旋階段を上がったので、輝もつられて上がった。上るたびに、周囲のガラスがステンドグラスで彩られているのに気づく。


「すげぇ……」


 手すりをつかんでいた手と、階段を登っていた足を思わず止めて見惚れた。薔薇がつぼみから咲いて、満開を迎え、やがて散っていく様が時間の経過を追うように丁寧に描かれている。外からさすひかりが、嵌められたガラスの赤や緑のあざやかさを褒め称えるようにまっすぐに闇を照らしていた。

 輝はその赤に手を伸ばそうとしたが、リヒトが階段を上がる音がかつりと聞こえたため、そっと手を下ろし、共に上へ駆けて行った。

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