第2章 第2話 学友の瞳は、枯れゆく青い薔薇のような色だった

 四月が流れ、五月が半ばを過ぎようとしている。

 急流を伝う真緑の楓の葉のように、ゆるやかに時が流れていく。

 中旬にもなると、初めはそわそわとしていた輝も、エリカ大学の生活に慣れてきた。

 さっぱりとしていて、あかるい性格の輝は、周囲にも話し易い印象を与えて、人を拒まず、少しずつ友人にも恵まれていった。

 輝が席についたまま、授業終わりに友に囲まれている中、人のすきまから覗くリヒトの姿が見えた。

 彼は頬を片手で支え、億劫そうに本を指先でめくっている。爪の先からほどよく指の骨に沿って流れる五本は、手のモデルになれるのではないかというほどうつくしかった。

 金色の髪が、教室の窓から差し込む昼の陽に照らされ、ちかちかとまたたく星の砂子 のようにけぶり、溶ける。白い首筋は、真珠のような色をしていた。褪せたブルーのシャツ。紺色のスラックスが、細身の彼によく似合っていた。

 本を捲るリヒトの長い指先が、右から左へ動くたびに、彼の腕から肌がすっと覗く。あまりにも白すぎて、陽光を直視してしまったかのようで、輝は目を眇めた。

 ふいに、リヒトが何かを思い出したかのように、本を捲る動きを止める。

 そして、椅子の背に左腕を回し、後ろを振り返った。

 車の運転で、後方を見やる運転手のように。

 輝はぴくり、と動いた。

 リヒトと視線がかち合う。

 蒼と黒が、一直線に。

 リヒトはわずかに金の眉を動かしたが、やがて興味が薄れたように、眉とひとしい色をした睫毛を[[rb:瞬 > まばた]]かせると、ふたたび前を向いてしまった。億劫そうに髪を片手でかきあげ、本を右手で捲る。本当に本を読んでいるのかも、定かではなかったが。

 輝はしばらくリヒトの秋の小麦畑のようなうなじの刈り上げを見つめていたが、彼も興味を失ったかのように彼から視線を逸らし、ふたたび口角を上げて、友人たちと談笑をし始めた。

 そのまま何事もなく、やがてリヒトとの関係も何も縁を得ないまま終わっていくのかと思っていた矢先のことである。


「ねぇ、君たち」


「あっ、リヒト!」


「……」


 リヒトが2年次のゼミの授業終わりに、輝が談笑していた学友の群れに声をかけてきたのである。

 他の[[rb:面子 > めんつ]]はリヒトと話したことがあるようで、彼のことをすんなりと受け入れ、輪の中に入れた。

 だが、輝は訝しんでリヒトを見ていた。

 彼の様子は、明らかに不自然だった。

 まず、表情。

 それまでは、いつ見ても、目があっても、明らかに何事にも興味がなさそうな、良い言い方で言えば冷静、悪い言い方で言えば、廃人のようだった彼。だが今目の前で、冬の木漏れ日のような優しげな微笑を浮かべて周囲と接している。

 学友たちの様子も、よくよく見ればおかしい。

 先ほどまでは、何のふくみも無い年相応のかろやかな笑みを浮かべて話していたというのに、リヒトが近づいた途端、そこに香水を吹きかけられたかのように、皆頬が薔薇色に染まり、目元もうっとりと赤く滲んでいる。

 輝はくちびるをへの字に引き結んだ。


(なぁんか、気に食わねえ。この雰囲気)


 リヒトは文字通り、黄色い薔薇の花が咲いたような笑顔を周囲に振りまいている。同い年だというが、金髪碧眼の彼は、この教室に舞い降りた天使のように見えた。

 翼の見えない、青年天使。

 ちら、と金の粒がまたたく。

 リヒトが輝の方を刹那、見やったのだ。

 輝は気づいて眉の縛りをほどき、口を丸くしたが、リヒトはふたたび興味を失ったように、他の学友たちとどうとも言えないような雑談をし始めた。彼の周囲に咲く白くあかるい空間に、自分だけが存在しないかのように感じる。


(なんで、孤独を感じなきゃならねんだよ)


 輝はイライラとした。

 リヒトが何を思ってこちらにやってきたのかが、まったくわからなかった。

友人と話したいから? 

いや、今までの人と関わるのも億劫そうな彼の姿からは想像もできない。

 上向いた長い睫毛は、黄色いガーベラの花弁のようで、そのうつくしさも、今はなんだかむかむかとする。

 輝は大学で過ごしてから、初めての薄暗い気持ちを感じて、人の群れから窓へと視線を逸らす。

 そこに広がるのは、気持ち良いくらいに青い新緑ばかりだった。


「おーい、サイオンジっ! お待たせ」


「おせえよ。待ち合わせ十五分も過ぎてんぞ」


「いやぁごめんごめん。はぁ、こういう時にサイオンジって日本人なんだなって感じるよ。時間に厳しくてさ」


「ドイツ人ってこんなにルーズなの? びっくりするわ」


「すべてのドイツ人がそうってわけじゃないよ。俺だけかもしれない」


 肩を上げてお茶目に笑おうとするのは、学友のひとり、クルトである。濃い栗色の髪を短く刈り込み、さっぱりとした人の良い顔をしている。童顔な彼が両肩を上げると何事も許してやりたいような気持ちになった。

 輝は鼻を鳴らして、まぁ仕方ない、という態度を取ると、親指を上げて背後を示した。


「ここだろ? お前が言ってた映画館って」


「そーここ! スッゲェいい感じのところだろ?」


「まぁなー。こっちに来てから初めてだわ。外で映画を見るなんてのは」


 体を後ろにそらして、笑顔のクルトと一緒に背後に聳える建物を見やる。

 器の中をそのまま出したように、四角いその建物は、まだらな琥珀色をしており、その下に小さく切り取ったように、ガラス板の入り口が設置されていた。ドイツの映画館だ。

 館を覆う青紫の花の群れが目にあざやかで、輝は瞳を眇めた。ドイツの国花・矢車菊が、館の中へと誘うように咲き、時折訪れるそよ風によってふわり、と浮いてはまた定まる。

 輝の黒い眸に、その青い紫がかすかに重なって溶けていく。


「ほらっ、行こうぜサイオンジ。映画始まっちまう!」


 小柄なクルトは、ドイツ人だというのに輝よりも背が低い。そんな彼に頭突きのように背をタックルされ、輝は思わずよろめきながら「急かすなって」とたじろぎつつも、共に映画館内へ入った。

 闇を塗り込めたような空間に、ぱっと鮮やかな色彩が、真四角に灯る。

 映画が始まるまで、隣でくだらない話ばかり輝にふっかけて、けらけら笑っていたクルトも、糸が切られたように大人しく前方だけを見るようになった。

 輝も姿勢を崩し、広いベルベットの背もたれに体を預けながら映画を見ていた。

 初めて見る映画だった。

 画面から溢れる映像のひかりが、霧雨の中を映す静かな雷光のようで、胸がざわめきたつ。

 目の前で、プラチナ色の豊かな髪を持った男が泣いている。

 夜の月明かりに照らされた、道端で。人はまだらだ。

 その隣に立つ、もうひとり。

 歳格好の似た、マロンペーストの髪をうなじでミッドナイトブルーの細いリボンで纏めた男が、プラチナ色の男を慰めようと、肩を抱く。

 プラチナが、顔をあげる。

 マロンペーストと、視線がかち合う。

 刹那、永遠にも思われる見つめ合い。

 男と男は、薄紅の、化粧を施していない生まれたままの色をしたそれを重ね合わせ、甘いくちづけを交わした。

 クルトは手にしていたポップコーンをぽとりと床に落とした。映画のひかりが、その白いつぶに、あざやかな色を灯す。

 輝の靴の先に、白い綿毛のようなポップコーンが、ビリヤードの球のように当たり、はじけてどこかへ消えていく。


「いやぁごめん、なんか」


「は? なんで謝んだよ」


「いやぁ……ああいう内容だと思ってなかったんだわ。ほんと申し訳ねえ」


「謝んなくて良いって」


 クルトが両手を合わせて背をかがめ、チラチラと苦笑いでこちらを見上げてくるので、輝もなんと返して良いのか、どういった態度をとれば良いのかわからず、困ってしまい、片手でうなじを掻いた。

 空を見上げる。

 いつの間にか、時は経っており、あんなに蒼く眩しかった空の色は、その澄んだ薄青に、サーモンピンクを平筆でさっと塗ったような色に変わっていた。


「どっかのカフェで感想戦って思ったんだけど……、家帰るか」


 クルトがしぶしぶといったていで告げる。

 輝も特に深くは考えず、「ああ」とこたえた。

 ふたりは暮れてゆく空の下を、並んで歩いて帰った。

 クルトが映画以外の話題に懸命に変えようとしてくれているのを肌に感じながら、輝は今日見た映画のことばかりを思い返していた。


「なんか、すげぇものを見た」


 その時は、素直にそう感じていた。

 そして刹那、頭の片隅にプラチナの男と、リヒトの柔らかなウェーブがかったホワイトブロンドの髪と月光色をしたうなじが重なり、それを意識して消した。

 後日、二限目の授業の終わり、静かに席を立ち、肩にカーキ色のリュックを背負おうとしていた輝を、教室の硝子窓越しに呼ぶ者があった。


「クルト?」


「サイオンジー。飯行こうぜー」


 映画が終わった後、なんとなく輝とクルトは気恥ずかしい関係になり、どちらからも声をかけずらかったので、クルトが困り笑顔で声をかけてくれた時は、ほのかな嬉しさが胸の内側に湧いた。

 校内の食堂で、4人がけの席をふたりで向かい合って座る。隣の席には、互いのバッグとリュックを置いた。輝のカーキ色と、クルトの赤ワイン色が対になっているようだ。


「お前、何頼んだ?」


 クルトが沈黙を破るように笑顔で問いかける。わずかに無理して笑っているように感じられる表情の作り方だった。前のめりになり、上半身だけを、輝に寄せる。

 輝はクルトから視線を逸らして笑った。


「黒パンと」


 輝は白いプレートの上に乗った丸い黒パンを片手で顔の横に持ち上げる。にかりと歯を見せた。


「これ、ザワークラフトと」


 プレートのすぐ横に置かれたかすかに淡いグリーンを宿した、縦に長い硝子の器を持ち上げる。硝子の青を通して、中のしなったキャベツの白さが目に映える。


「このふっとい白ソーセージ」


 もう片方の手で指さした先には、黒パンの隣に一本そっと置かれた白ソーセージだった。

 てらりと健康的な光沢を宿している。身が詰まり、皮は薄く、綺麗だった。


「ほうほう、うまそうじゃないの」


 クルトはわざとらしく感心する。

 彼らはひとしきり笑いあい、昨日生まれた小指ひとつ分の気まずさを払った。

 映画の俳優や映像美についての話題になっていた時に、ふいにクルトが「あのこと」について話題を持ち出した。


「まぁ、わからんでもない」


「何が?」


 輝は銀のフォークでザワークラフトを口に運ぶ。フォークの柄には、一枚ずつ重なりあって広がる翼の紋章が描かれていた。

 ザワークラフトは目が覚めるほどに酸っぱく、歯触りの良い食感だった。


「男が、男を好きになること」


 輝はザワークラフトの次のひとくちを取ろうとする手を止めた。


「リヒトっているだろ」


 頭の中にうっすらと蜃気楼のように浮かび上がっていたリヒトの薄い金色の像が、靄を描き、実像を帯び始める。


「ああ」


 輝はつややかな銀の灯火を宿すフォークの先だけを見てこたえる。


「あいつの黒い噂、知ってるか」


 輝は顔を上げた。

 肘をついて前屈みになっていたクルトと視線がかち合う。

 輝がまだザワークラフトを半分、黒パンをほんの少し、白ソーセージを半分ともう少しばかり残しているのに対して、彼はいつの間にか食事を終えていた。


「サイオンジは2年から編入してきたから、あいつのことまだよく知らねえと思うんだ。見た目が綺麗とか、よくひとりでいるくせに、急に気まぐれに輪の中に笑顔で入って来るとか、情緒不安定だよな。あいつさ、1年の時に色々やらかしてんの。ほら、あんな見た目じゃん。男でも女でも、あいつに惚れるわけよ。ほんとに来るもの拒まずって感じで、俺はあいにく好みのタイプが違ってたから人ごとで済んだんだけどさ。色っんなやつと関係を持って、あ、もちろんエロい意味でね。そこからリヒトは遊びのつもりだったのに、向こうにめんどくせえ執着持たれると、自分からつめたく突き放して捨てていってさ。そういう奴らは精神的におかしくなって、大学を中退したり、休学したりしてったんだわ」


 輝は話続けるクルトの顔を見ながら、唖然として口をうすく開けていた。

 彼の話は驚くべきものだったが、なんとなく予想はできていた。

 リヒトを思い浮かべる。今度ははっきりと頭の中に黄金色の輪郭を描いて像を結んでいた。

 かすみがかった記憶の中で見た、彼の顔は、笑顔でも、人を惑わす魔性の男のものでもなく、切なく、孤独を抱えた少年のようなあどけない顔だった。もちろん、実際にリヒトのそのような表情を目にしたことはなかったが、なぜか真っ先に輝の頭の中に浮かんだ彼の顔は、その薄青い顔であった。死相を浮かべている白い影が宿っていた。

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