第23話 結果

 試験が終わった後、わたしは家に戻ると、そのままノータイムでベッドに倒れ込んだ。ばふん、という音と共にクッションがへこみ、ベッドが軋む。疲れた。いや、それだけじゃないんだけど、とにかく疲れた。

 父さんと母さんの声がどこか遠くに聞こえる。そのくらい集中力を使ってしまったみたいだった。

 目を閉じると、頭の中の回路が何度もスパークして、暗いはずなのにどこか明るく見えた。

 ただ、不思議だったのは試験というはずなのに、それが途方もなく楽しかった事だ。ドキドキと鳴る心臓、上気した頬。触れた言葉、考えることの楽しさに震えた脳。身体は疲れているのに、心の興奮はまだ治まってくれなくて、熱さを発散し続けていた。

 初めてだった。あんなに沢山の人と話が出来たのは。初めてだった、自分の考えを話して、深くまで理解してもらえたのは。

 自分の意見を話すのも、相手の意見を聞くのも、反論と質問に答えるのも、何もかもが楽しくて、受験だってことさえ忘れかけてしまう。

 そして、わたしの体質も関係ない。あの場所に、わたしの身体を一言でも云々する人はいなかった。やっぱり、あの時の言葉は真実だった。ここには、見た目じゃなくて、わたしの持っている能力と人間性だけで見てくれる人がいる。外の世界にも、そんな人がいたんだ。

 その事が、たまらなく嬉しかった。

 次の日。真太郎が家に来て、開口一番に試験について聞いてきた。

「し、試験どうだった?」

 その顔は不安げで、本当にわたしを心配してくれているのがよく分かった。

「楽しかったよ」

 正直に答える。不安にさせないように、自分の思うところを率直に。

「楽しかった?」

「うん。色んな人と話して、自分の意見も言えて、他人の意見を聞いて考えて。新しい事もたくさん知れて、本当に楽しかった。受験だって忘れちゃうくらい」

 その時、彼はどんな顔をしていたっけ。そっか、よかったね。そう言って笑っていた。でも、あの表情をもっと深くまで見られていたら。快活な笑いの中の、一抹の感情を見抜けていたなら。


 わたしの受験はほとんど終わった様なものだった。だけど、必ず受かるなんて保証は誰にも出来ない。それに、わたしと違って真太郎の戦いはこれから始まる。一月末から二月、一月足らずの間に、彼は三つの大きな試験を突破しなくちゃいけない。わたしよりも辛いだろうし、わたしよりも重いプレッシャーに耐えている。

 だから、まだ気を抜くわけにはいかなかった。

 十二月三十一日。大晦日の昼、わたしと真太郎は今年最後という事で、昼間は二人でお餅でも食べようとわたしの部屋でのんびりしていた。

 せめて年末年始の間くらいはゆっくりして欲しい。わたしがそう言ったら、不服そうに彼は単語帳をリュックにしまっていた。

 焼きたてのお餅を皿に盛って、餡子ときな粉、それから砂糖醤油を持って来てちゃぶ台に並べる。

「これでコタツがあれば完璧だったんだけどね」

「一生出てこられなくなっちゃうよ」

 お餅をもむもむ食べながら、彼は言った。箸でうにょうにょと伸びるお餅をうまく操ろうとして、四苦八苦している。

「今年ももう終わりなんだね」

「ふ?そふいへふぁ」

「食べてからしゃべりなよ」

 用意したお餅は一応量はあるけど、わたしはほとんど手をつけてない。だけど、彼の方のお皿はもう空っぽだった。

「わたしのも食べる?」

「ううん、別に。なんだかんだお腹いっぱいになっちゃった」

「まあ、そうよね」

 お餅というのは見た目は小さいけど、結局一つ一つ結構な重さでお腹にたまる。二人とも大食いというわけではないから、まあ順当だろう。

 その後、わたしはなんとか苦労してお餅をお腹に入れて、自分の分を空にした。二人合わせてあまり量は食べてないはずなのに、もう追加のを焼く気にはならなかった。

「それじゃ、今日はもう帰るよ」

「もう?」

「うん。大掃除とかあるし、忙しい日に長居したら申し訳ないから」

「そっか」

「じゃあね、良いお年を」

「うん。そっちもね…あと、今日と三賀日くらいはちゃんと休みなよ?」

「わかってるよ〜」

 そう言って彼は帰って行った。よかった、元気に年明けが迎えられそうだ。その時のわたしは、ホッと胸を撫で下ろした。

 そういえば、今年ももう終わり、なんて思ったのは初めてかも知れない。今までは一人ぼっちで、時間なんて気にも留めなかったし、早くすぎると感じるくらい楽しい事なんて無かった。

 大掃除がてら、近くの箱の中にしまった彼からのメッセージ。わたしと彼とを繋いでくれた大切な宝物だ。

「…必ずやり遂げるから」

 もう一度、わたしはそれに呟く。たった一人の、わたしだけの誓い。

 今年が終わる。わたしにとって、人生の変わった年が過ぎていく。まだ見ぬ来年に思いを馳せながら、わたしはメッセージを仕舞い込んだ。


 一月十日。年が明けて少しした日曜日の朝、わたしは真太郎と一緒にマンションのエントランスに居た。というのも、彼は今日が受験前最後の模試で、わたしは推薦の結果発表なのだ。途中の駅までは同じ道だから、一緒に行こう。そういう簡単な話だった。

 そして、受かっていた場合、そのまま入学手続きが出来るように、わたしの方には父さんもついてくる。まあ、父さんは朝から何かを察しているようで、わたしと彼の方を見て生温かい笑みを浮かべてるわけだけど。

「どうかな、自信はある?」

「ここでつまずいてちゃ、話にならないでしょ?」

 強がってはみたけど、内心は恐ろしく冷や汗をかいている。

「まあ、君が落ちるなんてあり得ないとは思ってるけどさ」

 その期待が重たい。別に嫌な重さではないけれど、どうにも重たく感じてしまう。

 駅に着いて、お互いの幸運を祈りつつ別れた後、わたしと父さんは高校方面の電車に乗り込んだ。休日ということもあり、電車はほとんどガラガラで、すぐに座れる席を見つけられた。

 父さんと二人で席に座る。親子二人でつばの広い帽子を被っているという光景は、側から見たら結構変に見えたと思う。

 わたしが車窓から、薄ぼんやりと外を眺めていると、急に父さんが話しかけてきた。

「受かっていると思うかね、アオイ」

「…そうだといいね」

「自信は?」

「あんまり無いよ。今も不安でしょうがないから」

「俺は受かってると思うけどなあ」

「…ありがと」

「まあでも、お前が受かってないと、彼も受験する意味がなくなっちまうからな。受かっててほしいもんだよ」

「……」

 そうこうしているうちに、電車は学校の最寄りに着いた。二人で降りて、駅から出る。駅の周りには、わたしと同じ様な受験生が何人か見えて、保護者連れの人も多かった。ただ、その表情は一様では無い。まだ結果を知らないで、不安と期待の入り混じった顔をしている人もいれば、すでに結果を知って泣きじゃくっている人もいた。

 母親に付き添われて、声を上げて泣いている女の子。その姿を見ると、胸の奥に痛みが走る。

 そして、わたしも校門をくぐって、受験番号の貼り出されている看板の前に来た。

 期待と不安で押しつぶされそうになりながら、自分の番号を探す。たった八桁、それだけで人生が大きく変わる。どうかあって欲しい、そう思いながら…


 あった。恐らくは三十人かそこらだと思う。その数少ない合格者の中に、わたしの番号は確かにあった。

「父さん、父さん…!」

「おお…良かったな、アオイ」

 恐らく、テストの結果でこんなに嬉しかったのは初めてだ。…むしろ、テストの結果に何かリアクションした事が初めてかも知れない。

「母さんにも連絡しないとな」

 父さんがメールを打ってる間、わたしは静かに喜びを爆発させていた。意味もなく手を握ったり開いたり。きっと顔はずっとにやけてて、周りを考えて真面目な顔をしたくても出来なかったと思う。

「よし、行くぞ」

「うん」

 父さんに連れられて、校舎の方へ行く。

「そういえば、思ったよりも喜んでないな」

「ん?」

「いや、てっきりはしゃいで騒ぐと思ってた」

「まさか」

「まあ、俺も受かるとは思ってたからな…そこまで驚きはしなかったが」

「…真太郎が受かったら、その時は一緒にはしゃいで喜ぶよ」

 少しぶっきらぼうに答える。内心を見透かされるのは嫌だけど、何も感じていない様に思われるのも嫌だった。


 合格証明書を貰って入学同意書を手早く書く。その後は制服の採寸だとか、他の入学に必要な諸々のことをこなす。まあ、数がそもそも少ないから差して時間はかからなかったけど。

 お昼過ぎに全部の手続きが終わって、わたし達はまた家まで帰ってきた。

「あれ?今帰り?」

 ちょうど真太郎も試験が終わったみたいで、行きと同じようにエントランスで顔を合わせた。

「模試終わったんだ」

「ん、まあね」

「調子は?」

「多分今までで一番。君は?」

 そう聞いてくる彼の顔は、うっすら笑みまで浮かんでいる。もうとっくに分かっているのだろう。

「もちろん」

 わたしはポケットから合格証明書を出して彼に見せつけた。

「推薦の中ではあるけど、首席だって」

「すごいじゃん!」

 彼がわたしの手を握ってはしゃぐ。他の誰よりも、君が喜んでくれる事が一番嬉しい。流石にこんな事は恥ずかしくって言えないけどね。

「じゃ、次は俺の番だね」

「うん。君が受かったら、今度はわたしがはしゃいで喜ぶよ」

 偽りの無い本心。わたしが欲しかったものが、指のかかる位置にある。

 そう思っていた。


 一月に入ってから、真太郎の力は目を見張る程に伸びて行った。過去問なんてとっくに何周も終わらせて、わたしが作っておいた予想問題も七割から八割のラインに乗っている。

 時折ミスはするけれど、前の様な知識不足や理解不足のミスはほとんど無くなって、偶に差し込んだ難問で引っかかるくらいになった。

 彼の成績に応じて、わたしも作る問題のレベルを上げ下げしてはみたけど、ここのところそのレベルは上がる一方で、一種の空恐ろしさすら感じていた。

 今までの彼は、勉強が辛いとぼやきながらもどこか抜けた楽しさの様なものを持っていた。だけど今では笑顔こそ絶やさないが、その裏に何かシャープで危ういものを感じてしまう。張り詰めた弦か何かを感じさせるそれは、上手く行っているはずだというわたしの心に、一抹の不安を起こさずにはいなかった。

 なんて、不安要素は有るものの、彼の力が前と比べてずっと高まっている事は間違い無くて、その事についてだけは安心できた。

「ねえ、ここの記述なんだけど、本文のどこから持って来たらいい?」

「…それは、この三行目の…」

 一月に入ってから、わたしと真太郎はいつも一緒にいた。つきっきりでわたしが勉強を教えて、彼はずっと問題を解いている。

 一緒に学校に行ってから、日が暮れるまで。休日はわたしの家で朝から晩まで。きっと、彼と一緒にいる時間の方が、他の時間より長かった。

 そうしていつも彼の側にいると、すこし気がつく事があった。

 痩せている。そう、ほんの少しだけかも知れないが、彼が少し痩せている様に思えた。

 元から彼は背が高く、すらっとした身体つきをしている。だから見た目にはあまり分からない。だけど、ふと彼のズボンを止めているベルトを見た時、わたしは彼が前に比べて痩せている事を確信した。

 年明け前よりもベルトの余りが長くなっているからだ。一日そこらでは見えない変化も、一ヶ月目にしていればそこそこ気がつく。ましてや、大事な友達なら尚更。

「ねえ、ちゃんとご飯食べてる?妙に痩せた感じするけど」

「ん?ちゃんと食べてるよ、うん」

「あと、ちゃんと睡眠時間とってね。栄養ドリンク飲んで徹夜とか、絶対ダメ。もしそれやってるならすごく怒るから」

「わかってる。心配しないで」

 彼は問題用紙から目を離さずに答える。そっか、もう君はそこしか見ていないんだね。溢れかけた呟きを、わたしは押し殺した。

 ただ、二月に入ってからの真太郎は、わたしの心配を吹き飛ばすのに足るくらいの凄まじさを見せていた。

 二月の頭に届いた最後の模試の結果。それは、彼が今まで叩き出した最高の記録で、志望校の判定にはA判定がズラリと並んだ。特に苦手だった英語や数学は八割に達し、国語社会に至っては満点近い得点だった。

 そしてそのまま挑戦した私立高校と引き続いての公立高校の試験。それを文字通り彼は『蹴散らして』見せた。後で彼が渡してくれた問題には、丁寧に答えがメモされていて、わたしが採点をしてみたが、いずれも正答率は全体の八割を軽く超えて九割に達し、点数だけで見れば合格するのは間違いなかった。

 しかし、それを伝えても彼はあまり喜ばなかった。それどころか、次の問題を催促する。まるで、第一志望以外に意味はない、とでも言うかの様に。

 二月二十日。試験前最後の休日のその日、わたしは真太郎にある物を渡した。

「これは?」

「チョコ。バレンタインに渡す予定だったけど、遅れてごめんね」

「えっ、くれるの?ホントに?」

 やったぁ、と喜ぶ彼。その時の笑顔は、久しぶりに見る、何も気兼ねのない心からの笑顔だった。

「食べていい?」

「うん。手作りだから、美味しいかはわからないけど」

「ありがとう、いただきます」

 そうしてわたしの目の前でチョコをぱくつく。頑張った甲斐があった。

「ごちそうさまでした」

「はーい」

 食べ終わると、もう彼はいつもの真面目な顔になって、勉強の支度を始める。使い込みすぎてボロボロになった参考書に、すっかり短くなった鉛筆。その全部が、今までの彼の努力を象徴していた。

「…ねえ、真太郎」

「ん?」

「せめて、前日くらいは休んでね」

「一日休んだら、その分忘れちゃうから」

「……お願い」

「…分かった」

 そう短く返事して、彼は勉強に戻る。わたしはもう一言も言えなかった。

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