第4話 君と初めての…

 その後の事は、よく覚えていない。ただずっと別のことに気を取られて、他のことは目に入らなかった。幾つもの考えが泡の様に浮かんでは、消えて行く。そして泡の中に映るのはいつも同じ顔。

 子供っぽい顔にくしゃくしゃの髪の毛。夜でさえ明るく感じる様な笑顔。わたしはずっと、真太郎を頭の中で追いかけ続けていた。

 次の日の朝も、わたしの頭はそればかり考えていた。側から見れば、わたしはずっとぼーっとしているだけに見えたと思う。

 朝ご飯の味も、父さんと母さんが話していることも、わたしは一切耳に入らなかった。二人が家を出て、部屋に入ってもそれは変わらない。習慣の読書も、作文を書くこともせず、ただ黙然と考えに耽った。

 ここまでわたしが彼に気を取られていた理由は、今でもはっきり説明がつけられない。

 一目惚れか、と訊かれればきっとそれは違う。恋はもう少し甘く、それでいてもっと盲目的になるのだと思うから。

 ただ、いずれにしてもわたしの心は疑問で満たされていた。

 どうしてわたしに近づきたいんだろう。

 どうしてそう思ったんだろう。

 長い間の孤独は、人の気持ちに対するわたしの感性を鈍らせてしまった様だった。

 わたしはぼんやりと引き出しの中から、小さい紙を取り出す。握りしめられてくしゃくしゃになったそれを、破れない様に広げた。

『君と友達になりたい 真太郎』

 初めて見た時は、単なる嘘の類として切り捨てたもの。しかし、彼の言葉を、感情を直接聞いた今となっては、こんな短い手紙にさえ、激しく心を揺さぶられる。あまりに唐突で、それでいて純粋な気持ちを受け止められるだけの度量を、わたしはきっと持っていなかった。

「どうしてかな…」

 そう呟きながら、わたしは目を閉じる。自分自身の感情と、そして彼と、もう一度向き合う為に。


 気がつくと、もう陽は傾いていた。結局、何も分からなかった。わたしの中で特に収穫は見つからず、一日を無駄にしてしまったような気がする。

 彼がどうしてわたしと友達になりたいなんて言ったのか、説得力のある理由は見つからなかった。

「ただいま」

 母さんの声がした。そうか、もうこんな時間か。わたしは着替えて、また散歩の準備をする。時計をセットして、帽子を被った。季節はだんだんと夏に向かっていて、昼が長くなっているのを感じる。じきに、散歩の時間をもう少し遅くする事になるだろう。

「行ってきます」

 扉を開いて外に出た。夜の風は、また少し暖かくなっていく。居場所がだんだんと狭まっていくようで、わたしは不安だった。

 歩き始めると、前よりは弱い風がわたしの顔に吹き付けてきた。帽子を軽く抑えて、飛ばされないように備える。

 昼の晴天が嘘のように、夜の空はぐずついた雲が覆っていた。切れ切れに夜空を覗かせつつも、今にも泣き出しそうな天気に、わたしはどこか親近感を覚えた。

「あの…君!」

 風が吹いた。わたしの後ろからかけられた声は、たちまちのうちに、曇り空を吹き飛ばした。

 曇りが晴れに変わって、雲の切れ目から月が出たのと同時に、わたしは振り向いた。

「こんばんは」

 彼が。子供っぽい笑顔を浮かべた彼が、少しはにかみながらそこに居た。


「……こんばんは」

 動揺を悟られない様に、できる限り冷静な声を出す。

 わたしの声とは対照的に、彼の顔は嬉しさに満ちている。それがわたしの中に、不合理な怒りの感情を起こさせた。

 お前のことで散々悩んでいたのに、それも知らずに、という理不尽な怒り。それに任せて、わたしは黙って歩き去ろうとした。

「待って!」

 しかし、その考えは簡単に覆された。わたしを呼び止めた彼は、二、三度深呼吸した後でわたしに告げた。

「もしよかったら、少しだけ話に付き合ってくれないかな?」

 遂に言ったぞ。彼の顔はそう言っていた。ひどい緊張と、達成感。そして、答えを待つ不安がないまぜになった顔で、わたしを見つめている。

 嫌だ。自明のはずの答えは、わたしの喉から出て来ない。一度開きかけた口が閉じられる。

「散歩するだけだし…歩きながらなら…いいよ」

 正反対の答えが、わたしの口からこぼれ出た。どうしてなのかは、分からない。ただ確かなのは、その時すでにわたしの中では、彼への興味が爆発して…抑えきれない、自分の手で確かめなければ気が済まないほどになってしまっていた…という事だけ。

「…ありがとう」

 心底安心した様な声で、彼は言った。その笑顔は月よりも明るくて、風よりもずっと温かかった。

「改めて自己紹介するね。僕の名前は津田真太郎。真実の真に太郎。真太郎って呼んで」

「…津深アオイ。漢字は難しいから省く」

「津深さんは好きな食べ物とかはあるの?」

「フレンチトースト」

「好きな教科は?」

「どれもできるから特に」

「じゃ、じゃあ趣味は?」

「ゲームかしら。電子じゃなくてチェスみたいなボードゲーム」

「うーんと、うーんと…」

 彼はなんとか仲良くなるための糸口を探して悩んでいる様だった。その態度がむしろわたしの興味をそそる。

「…わたしの方からも質問いいかしら」

「何?なんでも聞いてよ」

「君はさ、どうしてわたしと友達になりたいなんて思ったの?」

 ぴたり、と止まる。二人の歩みと時間、その二つが同時に止まった。


「ええと、その…」

「そもそもの話、わたしは学校に行ったことはろくにないんだ。しかも、君とは違う小学校に通ってた。だから、君がわたしのことを知ってるはずはないんだよ」

「……」

「同じ小学校の子達は、きっとわたしに良い印象は持ってない。それに君だって、一度も来てないのに満点だけかっさらってく人間なんか、嫌いになりこそすれ好きになんてならないでしょ?」

 わたしはもっと距離を詰める。そして、一言一言に感情を込めて言った。

「だから教えて。どうしてわたしのところに来たのか。どうしてわたしと友達になりたいなんて言ったのか。本当のことを教えて」

「……」

「別に怒らないよ。内申目当てでも、先生に頼まれたとかでも。とにかくわたしは、本当のことが知りたい」

「…綺麗事抜きの、君の本当の気持ちを聞かせて」

「え…と、その…」

 彼は切れ切れに言葉を紡ぐ。不器用に、そして自分自身に戸惑いながら。

「君の作文を読んだんだ。だから…」

 そうか、彼は扉の裏でわたしが聞いていたことを知らない。だから一からわざわざ説明してくれようとしている。でも、それはもう聞いた。

「綺麗事は抜きって言った」

 互いの息がかかるくらい、相手の瞳に映る自分が見えるくらい。わたしは彼の奥底まで見通そうと視線を送る。彼の激しい鼓動と、高まっていく呼吸を感じる。そして…

「ーごめんなさい!」

 彼の口から出てきたのは、謝罪だった。

「え、どうして謝るの?」

「えっと、その…下心があったんです」

 やっぱりか。ようやく納得がいく。

「やっぱりね。君も内申が欲しいから…」

「いや、そうじゃなくて…」

「え?」

 彼はキョロキョロと周りを見回すと、わたしの耳元で言った。

「…一目惚れというか…その、一度会った時から止まれなくなったというか…」

「ひとめ、ぼれ…?」

 初めて聞いた言葉の様に、わたしの口から切れ切れの声が漏れる。

「僕自身にも分からないんだ。だけど、ええと、ええと…」

 彼の頭はどうやらオーバーヒート寸前の様だ。考えてはすぐに言葉が出てくる。

「君の作文を読んで興味が出て、実際会ってみたらとても綺麗な人だったから、何がなんでも友達になりたくなって…」

「わたしが怖くないんだ。こんな、幽霊みたいな姿の女の子が?」

「勿論!初めて見た時から、怖いなんて微塵も思ってなかった!」

 目を見て言い切られた。その様子に、用意してきた質問はほぼ全て弾けてしまって、一言絞り出すのが精一杯になってしまう。

「…本当に、それだけなの?」

「うん。本音を…本音を言えば、それだけで…」

 なんだ。そうだったのか。再びの納得、彼は、彼は…

「ふふっ」

 ーきっと、底抜けのおバカさんなんだ。

「ふふっ、あはははっ」

 不思議な声だった。わたしから出たとは思えない程に、楽しげで、明るい。その声は、流れる水みたいに、止まることは無い。

「なっ、笑わなくたっていいじゃないか!」

 真っ赤になった彼から、抗議の声が上がる。それでようやくわたしは、この声が何と言うのか思い出した。

「あはっ、そっか、わたし…今…笑ってるんだ…」

「…?」

「そっか…ふふっ。ごめんなさい、別に君をバカにしてるわけじゃないんだ。ただ…一目惚れって言うのが、妙にツボに入って…」

「何か変なこと言ったかな、僕」

「別に。いいんじゃない?容姿で人を判断するなんて最低、なんて事は言わないわ。でもそうね…こんな顔の…こんな容姿のわたしに一目惚れとか、相当変よ。君」

「うーん…」

 わたしの言葉一つ一つに反応して、考え込む。その様子もまた、わたしの笑いを誘った。

「こっちも謝らなくちゃね。…ごめんなさい。わたし、君のことをずっと疑ってた。ずっと一人ぼっちで、みんなわたしを怖がって、嫌っていたから…。君も何か、企みがあって来たんだと思い込んでた」

「企み、企みか…。確かに、君と友達になりたいから、って言うのはある種の企みかな」

「かも知れないわね…。でも、私はいいと思う。弁論文では偉そうなことを書いたけど…純粋に『誰かに寄り添いたい』って言う思いは、きっと世界の誰に対しても正しいから。そのきっかけがなんであれ、わたしはいいと思う」

「そう、かな…」

「…結局のところ、意志の問題なのよね。優しくありたい、正しくありたいとする意志こそが…本当の正しさで…」

「津深さん?」

「ああ、ごめんなさい。つい考え込んでしまって…」

 悪い癖が出た。つい考え込んでしまう。いくつもの考えや主張が同居するわたしの頭は、時折制御できなくなってしまうのだ。

 だけど、それくらい、彼との話はわたしの頭を刺激した。久しぶりに笑い、久しぶりに脳が動いた。わたし自身がどうにもできなかった事を、彼はとても簡単にやってのけた。

 ビービービー、という耳障りな音が響いた。

 それは、わたしにとって初めて「嫌な音」として響いた。

「ごめんなさい、もう時間が来ちゃったみたい」

「時間?」

「そう、家に帰らなきゃいけない時間」

「ああ、なるほどね。確かに、夜も暗いし」

「いつもこの時間に散歩してるんだけど、日が長くなってきちゃったから、これからしばらく遅くなるかも」

「なるほどね」

 わたしが家まで歩き始めると、彼も横をついてくる。

「君ももしかして同じマンション?」

「そうだね。君の家のちょうど真下の位置」

「道理で、エントランス通さずに直接来れたわけだ」

 委員長は配達員向けの通路から入って、ポストにファイルを入れて行っていたから、わたしはその事を失念してしまっていた。

 エントランスに入ると、彼がまた口を開いた。

「あ、あのさ…よかったら、その…」

 何を言いたいかはわかってる。でも、今はまだダメだ。

「一緒に歩きたいって言うのなら、ダメ」

「そ、そっか…」

「まだもう少し、一人で考えさせて。でも、会って話す代わりに…」

 これが、わたしの出した結論。先延ばしかもしれないけど、それでも。

 わたしは肩にかけた鞄から、リング留めの小さいメモ帳を出した。

「…まだ、あの日君がくれた手紙の返事はできないわ。だって、君のことをもっと知りたくなったから」

「これは…」

「あの時みたいに、これにメッセージを書いて、課題のファイルに入れておいて。気が向いたら、わたしも返事を書くから」

「文通ってことね」

「そう。でも、そうするって事は、君がファイルの回収までやらなきゃいけないって事だよ。毎週金曜日、君の家のポストにファイルを入れておくから、それを学校に持っていく。

 それも、これを続ける限りずっとね。委員長が学校へ来ても、君は続けてくれる?」

「もちろん!」

「しばらくこれが続いて…わたしが君のことをもっとよく知れたら…あの時くれた手紙の返事をするから。それまで、待ってて欲しい」

「分かった。いつまでも…ううん、むしろこっちがありがとう。いきなり家に来て、変なこと言っちゃったのに…」

「別に。むしろ、君が来てくれなかったら…」

「ん?」

「いいえ。何でもないわ。それじゃ、よろしくね」

 我ながら、ひどく回りくどい手を使ってしまった気がする。だけど、それもまた面白いかな。

 五月の終わり、わたしと彼が初めて会ってから少し経った頃。

 少しずつ、でも確実に。距離は縮まっていった。

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