君と初めての夏

第1話 君との出会い

 わたしが目を開けた時、部屋は真っ暗だった。今が朝なのか、まだ夜なのか。わたしには分からない。だけど、すぐに分かる。

 わたしはベッドから降りて、部屋の奥にある小さな窓の方に歩いた。窓には分厚い黒のカーテンが掛かっていて、窓の外からの光が絶対に通らないようになっている。

 わたしはそれを、ほんのちょっぴりだけ開けて、外を覗いた。その時、わたしの視界は真っ白になって、目の奥にずきんとした痛みが走った。

「いたっ…」

 慣れているはずなのに。毎日毎日、朝かどうかをそうして確かめて来たのに。それでもわたしにとって、太陽の光はとても痛かった。

 朝だとわかったわたしは、また急いでカーテンを閉めて、今度は部屋のドアの左脇にある電気のスイッチを押した。

 かちり、という軽い音がして、部屋がさっきの光よりもずっと優しい電気で明るくなった。

 ドアから見て右の壁際にはベッド、そこから少し間を開けて机が置いてあって、さらにそのすぐ隣にはさっきの窓がある。

 左の壁にはずっしりと重たい本がたくさん詰まった本棚がいくつも並んでいて、その端っこの狭いところに、服を入れるクローゼットが置いてある。

 わたしが右の方を見ると、そこには大きな鏡が置いてあった。わたしの全身を映せるくらいの大きな鏡。その中から、一人の女の子がわたしをじっと見つめていた。

 その女の子は、真っ白だった。短く切られた髪の毛も、肌も、何もかも真っ白で、色が無かった。目はほんの少し青くて、唇も同じようにほんの少し赤い。それだけしか、色が無かった。

 その子は、居心地が悪そうにパジャマから顔を出して、わたしを睨んでいた。まるで、わたしのことが大嫌いとでも言いたい様に。

 わたしも負けじと、その子を睨んだ。そして、呟いた。

「あなたなんて大っ嫌い。アオイなんて、大っ嫌いよ」


 わたしは部屋を出て、リビングの方に歩いて行った。わたしの好きなフレンチトーストの良い匂いが鼻に届く。

「おはようアオイ。元気かい?」

「おはようお父さん。大丈夫、元気よ」

 わたしはぶっきらぼうに言い返す。わたしの大っ嫌いな父さんは、ほんの少し困ったような顔をしたけれど、すぐに笑ってまた言った。

「さ、朝ご飯を食べなさい。今日はアオイの好きなフレンチトーストを、母さんが作ってくれたよ」

「うん。ありがとう、お母さん」

 長くて綺麗な黒い髪の母さんは、台所からわたしの方を向いて、ニッコリ笑った。

 わたしはフォークを持って、トーストを切って、黙って口に運んだ。おいしい。甘い砂糖と牛乳の味が、バターの塩の味と合わさって、とてもおいしい。わたしが作るのよりも、ずっと。

 父さんはどちらかと言うと、体の色が黒い。弁護士のお仕事で、色々なところを回るから日焼けしたと聞いた。

 母さんは逆に、体の色が白い。父さんとは逆に部屋の中でお仕事をするからだと聞いた。

 よく父さんはわたしに、

「母さんに似て、とても綺麗だ。きっと将来は、父さんよりも頭が良くて、母さんよりも美人になれるぞ」

 なんて、よく言っていたけれど、わたしにはそんなことはどうだってよかった。

 確かに母さんはとても綺麗で、いつもみんなに褒められているし、父さんはとても頭が良くて、どんな事でも一緒に考えてくれる。

 でも、二人とも普通の肌で、普通の髪の毛を持っていて、普通に太陽の下を歩ける。

 わたしはそれがとても羨ましくて、とても妬ましかった。


 ご飯を食べ終わって、時間は朝の八時半。普通ならみんな中学校に行っている頃だけど、わたしは行かない。

 外を歩けないし、たとえ歩けたとしてもあんな辛いところには、絶対に行きたくなかった。

「行ってらっしゃい」

 父さんと母さんが仕事に行った後、私は一人ぼっちになる。だけど、それがとてもうれしい。誰もわたしを笑わない、誰もわたしを馬鹿にしない、誰もわたしを怖がらない。誰もわたしを…

 一人になった後、わたしでは部屋に戻って、机に向かった。

 机の上には、青い表紙の厚いファイルが置いてある。そこには、

『中学校の課題』

 と書いてあって、中身のプリントがなんなのかすぐに分かるようになっていた。

 わたしはそれを開いて、近くにあった鉛筆と消しゴムを手元に持ってきた。

「学校に来ないのなら、せめてこれだけはやってね」

 少し前に家に来た先生が、そう言ってわたしにこれを手渡してきた。それからずっと、一週間に一回…金曜日にファイルを学校へ出して、先生が丸をつけて、クラスの委員長がまた次の月曜日の放課後に家に届けてくることが続いている。定期テストも、二年間この形式で受けてきた。

 最初のうちは、『早く学校で会いたい』とか、『学校は楽しいよ』なんてカードが入ってたけど、そのうちあきらめて何も無くなった。その時わたしはどう思ってたのかな?さみしかったのか、それとも怒ったのか。もう、それも覚えていない。

 学校の課題はとても簡単で、すぐに片付いてしまうようなものばかりだった。算数をほんの少し難しくした数学は、小学校の足し算と変わらないし、国語はそこだけ線を引いたように、文章から答えが見つけられる。

 英語だって、教科書の簡単な文なら目を瞑っても言えるし、理科と社会は何も見なくても分かった。

 だけど、それでも。それでもこの体は治せない。課題を終わらせて、本棚の分厚い英語の本を読みながら、わたしは思った。どんなに難しい英語の本が読めても、どんなに綺麗で面白い作文が書けても、わたしはきっと、誰からも怖がられるだけ。わたしは、ずっと一人ぼっちなんだ。


 わたしの名前は津深アオイ。十四歳、今年で中学三年生になる。アオイ、というのは花の名前で、綺麗な色の花を咲かせるものや、チョコレートみたいな食べ物の材料にもなる、なんでもできる花だと父さんが教えてくれた。

「色々なことに興味を持って、それが実際にできるようになって欲しい。それから、一つだけじゃない、たくさんの良い所がある子に育って欲しい」

 そんな思いを込めて、この名前をつけたらしい。

 わたしは生まれた時から、体が真っ白だった。普通の人なら、太陽の紫外線から身を守る成分が肌にあるけれど、わたしにはそれがとても少ない。お医者さんは難しい言葉で、『先天性白皮症』、外国の言葉で『アルビノ』と呼ぶと言っていた。目の色も、その成分が足りない所為で青色になって、その上メガネがないと遠くも見えず、サングラスを掛けないと、光のせいで視界が真っ白になってしまう。肌も強い日焼け止めの上に、長袖を着て帽子を被らないと外に出られない。

 まだ小さかったわたしは、悩んでる父さんや母さんを助けたくて、

「大丈夫だよ。わたしの病気は、わたし自身で治すから!」

 と意気込んでいた。父さんでも読まないような、分厚くて難しい本を借りて来てもらって読んだ。読み終わったら、そこに書いてあったことをまとめて、治し方のアイデアを作った。

 それ以外にも、たくさん知識を身につけないと、医者や学者にはなれないと思ったから、大人でも読むのが難しい小説や、勉強、パズル、計算の本を借りたり買ってもらったりして、必死で読んだ。

 そうした事をずっと続けていたら、いつの間にかわたしは、小学生のうちに、中学と高校を飛び越えて、大学生が悩む様な難しい問題もスラスラ解けるようになっていた。

 だけど、結局のところ、それはわたしにとって悪い結果しかもたらさなかった。治し方なんて、今でも世界中の先生が見つけられない様なものを、わたしが見つけられるわけがなかった。

 わたしの周りの状況は、悪くなる一方だった。

 小学校では、まずは見た目が標的にされた。

「お化け」

「幽霊」

「吸血鬼」

「魔女」

 強い光が苦手なのも、それに拍車をかけた。わたしのために閉められたカーテンを、いきなりわたしの前で開け放ったり、目の前で懐中電灯を照らされたりした。

 勉強も標的だった。学校のテストなんて、単に答えを書くだけのものだったから、百点以外遂に取ることがなかった。だけど、それは他の人の妬みを買ってしまったようで、わたしの教科書は何度も無くなった。大概はぐしゃぐしゃにされてゴミ箱から出てきた。

 見た目が違うだけで、ほんの少し他人よりもよくできるだけで、怖がられて、嫌われて、傷つけられる。

 そして、先生からもわたしは気味悪がられた。とっくのとうに学ぶところを終わらせて、毎日誰とも話さずに本を読んでいたわたしを、誰もが持て余していた。

 だけど、わたしにとって一番辛かったのは、それが理解できてしまった事だった。

 わたしのことをいじめる彼らの考えも、わたしを持て余す先生達の思いも、そして心配してくれる、わたしを心から愛してくれる父さんと母さんの気持ちも…。


 本を読み終わって、書いてあった事を大まかにノートにまとめた後、今度わたしは原稿用紙を取り出した。

 これも習慣の一つで、週に一つくらいのペースで何かしら作文を書く様にしていた。昔は体の治し方を考えるため、今は単なるクセのようなもの。読書感想文や発表のための弁論文を、時折書いては引き出しの中に溜めていた。

 そうしているうちに時間は過ぎていって、気がつくともう日は沈み、夕焼けがほんのわずかに空いたカーテンの隙間から差し込んでいた。

「そろそろ帰ってくる頃ね…」

 わたしは朝からずっと着ていたパジャマから、外用の服に着替える。暗い色の、人目につかない長袖と、同じ色のスカート。クローゼットの下からつばの広い、映画に出てくる魔法使いが被る様な大きな帽子を出して被った。もう日は沈んでいるから、本当はいらない。だけどわたしは、人に顔を見られるのが嫌だった。

 支度をちょうど終えた時、玄関の扉が開いて父さんが帰って来た。

「ただいま、アオイ」

「おかえりなさい。それじゃ、行ってくるね」

「はーい。帰るまでに夕飯用意しておくな」

 わたしは入れ違いの形で家から出た。


 わたしにとって、ほぼ唯一の楽しみがこれ…一日一回の散歩だ。小学校三年生の時からわたしは学校に行かなくなった。そして、五年生で夢を諦めた。だけど、それでもこの散歩の習慣だけはずっと続けていた。

 父さんか母さんが帰って来てから、三十分間だけの…マンションの周りを何周かするだけの短い旅路。だけど、わたしにとってはそれでも良かった。それだけで良かった。

 家の外に出ると、ふわり、と外の空気がわたしを包んだ。そこには、わたしが大嫌いな昼の香りが濃く残っていた。雨が降れば、昼の香りはたちまちのうちに洗い流されて、清涼な夜の香りに冷たい雨が添えられた、薄ぼんやりとした過ごしやすい外になっている。

 しかし、あいにくと今日は見事な五月晴れだったから、外の全ては昼によってくっきりと描き出されていた。

 陽が沈んだとしても、その暖かさだけは隠しようもない。

 エントランスから出たところで、わたしは身につけた時計のタイマーをオンにした。三十分でアラームが鳴る様に設定しておく。それが、わたしに許される唯一の時間、海に潜るときの酸素ボンベの様な、明確で限りある時間だった。

 そうした後、わたしは階段を下りて歩き出した。最初は玄関から右向きに。商店街の通りへ出たら左へ。そこから裏路地を回ってまた戻る単純なルート。三十分あれば、四、五回は簡単に回れる距離だ。

 …そのはずだった。

 わたしが商店街の通りに出た時、唐突に風が吹いた。びゅうびゅうと大きな音が聞こえるほどの風、それがわたしの帽子を吹き飛ばしてしまったのだ。

「あっ…待ってっ…」

 わたしは必死で追いかけた。普段のルートとは逆の方向に、どんどん帽子は飛ばされていく。橋を渡り、明るい商店街の方へ。

 運動不足はあまりに重かった。風に飛ばされていく帽子に、わたしは全く追いつけなかった。

 もうダメだ。そう思った時、それは止まった。とっさに出された人の手で、帽子は止められた。

「これ…君の?」

 わたしの帽子を拾った、ポロシャツ姿の男の人は、わたしにそう訊いてきた。

「は、はい…。ありがとう…ございます…」

「そっか。飛ばされないで良かった」

 くしゃくしゃの髪の毛に、子供っぽくて温かい、優しい笑み。

 それが、彼との…真太郎との出会いだった。

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