第五章 Walking Meat(4)

 アリスを起こした僕は、フランシスコの案内のもと、ゾンビが出たというテントへと向かう。

 テントの中には数人の男が集まっていて、血の臭いと、胃液の臭いが混じった、つんとした酸っぱい臭いに覆われていた。足元をみると、腐ったゲロが落ちていて、誰かが踏みつけたのか、薄く伸ばされている。黄色の粘液に、昨日食べた鹿肉の切れ端と思われる肉が浮かんでいた。

 ゾンビは既に殺されていた。

 簡素なベッドの上に横たわっていて、動く様子はない。顔を覗き見る。血色の悪い肌色。瞑った瞼。二度と――ゾンビになって動いたのを二度目と数えるのならば、三度も――動かなそうな硬直した四肢。額にぽっかりと空いている穴以外に、目立った外傷はない。噛まれた痕もない。おそらく彼は、ゾンビに襲われてゾンビになったのではなく、死んだから、ゾンビになったのだろう。

 どこからどう見ても、見ず知らずの彼は死んでいた。二度、死んでいた。


「いつもなら起きてるような時間になっても外に出てこなくてさ、気になって中を見てみれば、この有様だった」


 フランシスコは悲しそうな声色で言いながら、アリスの方を向く。


「シスターさん、こいつにお祈りをしてくれないか? せめてあの世では空腹に悩ませれないように」


 僕はアリスの方にカメラを向ける。彼女は神妙な顔で頷くと、死体の前に跪き、両手を組んだ。テントの中にいる数人の男たちも、それに合わせて目を閉じ、俯く。僕は彼らが順繰りに映るようにカメラを動かす。

 少しの沈黙。アリスが立ち上がり、男の死体を外に運びだす。


「あの死体はどうするんだ? 川に流したりするのか」

「『死体流れ』か」


 フランシスコはくすりと笑う。


「そんなことはしないさ。近くで埋めて墓をつくってやるさ」


 ところで。とフランシスコは僕の方を見る。


「あいつは俺の右腕で、今日の猟も、一緒にする予定だったんだ。だから、朝っぱらから彼の住むテントに向かった」

「猟」

「みなの食事のための猟だ。でもあいつは死んでしまって、相方が必要なんだ。それで提案なんだが、一緒に手伝ってくれないか?」


 フランシスコは首を傾げる。


「僕は部外者だろう」

「いいんだ。おそらくだが、きっとコミュニティの誰よりも、。そうだろう?」


 アリスは不思議そうな表情で、僕とフランシスコの顔を交互に見やる。僕はしばらく考えて。「燃料」と言う。


「燃料を少しばかりくれるのなら、いいよ」

「食えないものだ。気にせず貰ってくれ」


***


 猟はコミュニティから少し離れた森で行われた。

 近くの森ではない。近くの森にはあまり生き物が住んでいないらしい。

 先に貰った燃料を積んだレコニング号を森の入り口で止め、僕らは森の中に入る。

 森の中は静かだった。鳥の鳴き声がたまにするぐらいで、生き物の気配というものがまるでない。


「『ドーン・オブ・ザ・デッド』では、ゾンビは人間にしか興味はなくて、ゾンビの群れの中を犬が走り抜けたりするシーンがあったりするぐらいなんだけど」


 落ち葉を踏みしめ、森の中を見回すようにカメラを回しながら、僕は言う。森の木々は人間たちが飢えていることにお構いなしに、大きく成長して、空が見えないぐらいに枝葉を広く伸ばしている。隙間から陽の光が見えるが、それでも森は薄暗い。


「この世界のゾンビは、動物も食い荒らしたりするのか?」

「いいえ。動物がゾンビになったりしませんし、ゾンビも動物を襲ったりしないはずです」


 アリスは僕の服の裾を掴みながら、恐る恐る言う。

 僕は彼女の顔にカメラを向ける。いつもなら前を向いているはずの目が下を向いていて、キョロキョロと忙しなく動いている。僕は彼女にバレないように、カメラを持っていない手を、ぐるりと背中に回して、指でこつんとつついた。


「へ、へえっ⁉」


 アリスは変な声をあげて、背中がぴぃんと跳ねあがった。

 今までにない速度で振り向いて、つついたのが僕の手だと分かると、これまた今までにない速度で僕の方を見上げて、きっと睨んだ。青い目は涙目になっていた。


「もしかして、暗いのが怖い?」

「こっ、怖くなんかありませんが!」

「そうだよな。ゾンビはびこる世界で生きてる人間が、よもや薄暗い森が怖いなんて。リアリティがないよな」

「そ、そうですよ。りありてぃがないですっ」

「じゃあ前を歩いてくれ。主人公ヒロインにカメラの後ろを歩かれたら映画にならないだろう」

「怖いからイヤです!」


 アリスは泣きながら叫んだ。


「江渡木さんは怖くないのですか?」

「映画撮るために一週間ぐらい森の中で生活したこともあるし、もう慣れたかな」


 あの時は怖さよりも、夜の森の寒さに参ったものだった。


「しかし、本当に動物の足跡すらないな。この森、なにも住んでないんじゃあないのか?」

「しっ!」


 前を歩いていたフランシスコが、急に足を止めた。

 銃口を下げていた猟銃を構え、前をじっと見る。前の茂みがガサガサと蠢いた。アリスが「ぴぃっ!」と変な悲鳴をあげる。

 茂みから姿を現したのは、ゾンビであった。数は一体。三十代ぐらいの女性だろうか。白く澱んだ目を不規則に動かし、右半分ほど食い千切られている首を自重に負けて、大きく傾げている。

 ゾンビはまだこちらに気づいていない。

 僕はアリスをかばうように手を前にだし、フランシスコはゆっくりと猟銃をゾンビに向けた。発砲。銃弾を受けた首が、衝撃で胴体から外れた。

 ドン。コロコロ。

 首が腐葉土の上を転がる。

 ゾンビには首を刎ねると動かなくなるゾンビと、首を刎ねても動いているゾンビがある。

 どちらも『頭部を破壊することによって、ゾンビは活動を停止する』という設定は同じであるのだが、『頭部から指令が出ているから、切り離すことで活動ができなくなる』か『頭部が破壊されていないのだから、ゾンビはまだ動くことができる』という考え方の違いで、差異が生まれる。

 言うなれば、ゾンビの頭部を『司令塔』と捉えるか『弱点』と捉えるかの違いだろう。

 この世界のゾンビは、後者である。頭を破壊しない限り、首を刎ねても動き続けるゾンビ。

 転がるのをやめたゾンビの頭は、ゴロンと僕らの方に顔を向けて、唾液のこびりついた黄色い歯を見せつけてきた。首と顎の間に銃弾が突き抜けた穴が空いていて、そこから「ゔぁ」「ゔぁ」と呻き声が漏れている。


「外したか」


 フランシスコはふぅ。と息を吐いてから、左右に揺れて暴れているゾンビの生首に近づく。体の方はてんで方向違いの方に歩いて、木にぶつかっていた。

 外れている首の視点を、体の位置と調整して理解するだけの知力は、ゾンビにはない。

 フランシスコはゾンビの首を猟銃の銃床でたたき割った。木に寄りかかっていたゾンビの体が、糸が切れたように倒れる。


「『死体』に一番敏感なのは、人間じゃあない。動物だ」


 動かないかどうか、割れたゾンビの頭を爪先で小突きながら、フランシスコは言う。


「人間には、『死体』が動いているという事実に折り合いをつけれるだけの知性があるが、動物にはそんな知性はない」


 自然ではないことを受け入れることを、自然はできない。

 だから。ゾンビがさまようようになった森には、動物が住みつかなくなる。


「これだけ人里離れた場所なら、まだ『死体』はいないと思っていたけど、考えが甘かったか……」


 フランシスコは大仰にため息をつく。思っていた以上に、この世界はゾンビだらけなのかもしれない。


「……あれ、アリス?」


 いつの間にか、服の裾をつまみながら僕の後ろに隠れていたアリスの姿が無くなっていた。

 辺りを見回してみると、ゾンビの胴体の前で、アリスは跪いて両手を組んでいた。

 薄暗い森が怖いと人の背後に隠れたりするのに、動かなくなったゾンビに祈りを捧げることは忘れない。アリスらしいといえば、アリスらしい。

 アリスの横に、フランシスコは立つ。

 てっきり、一緒にお祈りをするのかと思ったのか、アリスが振り向く。

 フランシスコの手には刃物が握られていて、彼はそれを勢いよく振り下ろした。

 ぐち。ぐちぐち。

 水気のある肉を刃物で裂く音。

 酸素の含まれていない黒い血は、裂いた肉の隙間から溢れていく。心臓が動いていないから、噴きだすだけの圧力が血管の中にないのだ。フランシスコの両手は黒い血で染まり、まるで手袋をしているようだった。

 肉の切れ間から、表面を滑らせるように刃物の鋒を挿しこむ。皮を剥いで、肉だけにする。

 骨を切ることはできないから、ぐるりと一周するように腕の肉を切って削いだ。太くて白い骨だけが残る。骨には小さな肉がこびりついていて、フランシスコはそれも大事そうに、こそぎ落とした。フランシスコは殺したゾンビを解体バラし始めた。まるで初めて出会ったときの鹿のように。


「『死体』がいると、気味悪がって動物たちが離れていく」


 解体作業を続けながら、フランシスコは言う。


「だから、食べれる肉が、『死体』しかない」


 飢えをしのぐために、人は食べ物ではない木の幹だって食べる。ゾンビだって、食べてしまう。

 フランシスコは振り返って僕を見る。


「気づいていたんだろう、きみは。だから、食べなかった」

「まあ。ああいう時に出される正体不明の肉は、決まって『人肉』か『ゾンビ肉』だからな。ホラー映画の定石だ」


 だから、食べなかった。正体が分かっている鹿肉だけ食べた。

 フランシスコはニコリと笑う。


「このことを知っているのは、俺と今日死んでしまったあいつだけだ。他の住人は知らない」

「だから、部外者である僕に、猟の手助けを頼んだのか」

「きみは車を持っていたから、遠くまで行けるというのも理由としてあったけどね。よし、終わりだ」


 フランシスコは血のついていない肩で頰を流れる汗を拭う。ゾンビは跡形もなく解体バラされ、その肉はずた袋の中に詰めこまれた。骨は一ヶ所にまとめて、土を被せる。


「さて、さっさとここから離れるとしよう。血の匂いを嗅ぎつけて、『死体』どもが集まってくるかもしれない」


 それもそうだ。僕は頷いた。

 帰りの車の中。アリスはひたすら宙空を見上げて、ぼうっとしていた。

 『死体』を食べる。ゾンビを食べる。

 遭難をした人間が、死んでしまった仲間の死体を食べたという事例は聞いたことがあるが、それとはまた別の忌避があるような気がした。

 どれだけ空腹であったとしても、木の幹が美味しそうに見えてきても、食べてみようと提案されても、すぐに否定できるぐらいの禁忌であったそれを、当然のようにしている彼らがいることに、アリスは動揺が隠せていないようだった。

 どれだけ空腹を続ければその選択肢がでてくるのだろう。

 彼女はそれを考えているのかもしれない。

 結局、アリスはコミュニティに戻って、ゾンビ肉を住人たちに配る間も、ずっとだんまりだった。ゾンビ肉を配る手伝いをする僕の隣で、ぼうっとしている。


「シスターさま。綺麗な服」


 アリスの様子を気にしつつ、肉を配っていた僕の前に、女の子が立った。頬が痩けている、赤毛の女の子。話しかけられていることに気づいていなかったアリスの腋を小突く。


「えっ、あっ。ありがとう、ございます」


 アリスは何度もまぶたを瞬かせてから、ゆっくりと頭をさげる。女の子の顔を覗きこんで、ニコリと笑う。


「その子には少し多めにあげてくれないか」


 他の住人に肉を配りながら、フランシスコは言う。


「子供は大盛りの食事。当然だろう」


 僕は頷いて、肉を多めに彼女に渡した。

 女の子は肉をぎゅうっと抱えるようにして、ぺこりと頭をさげる。

 アリスは女の子の頭をさらりと撫でる。「あなたに、神さまのご加護がありますように」女の子は顔をあげる。嬉しそうに、にまと笑った。前歯が一本、欠けていた。

 彼女は自分のテントに戻っていく。嬉しそうに持ち帰った肉が、ゾンビ肉――人の死体の肉であることを、彼女は知らない。


 ――まあ。

 ――知らない方が、幸せか。


 全てを配り終えた僕らは、フランシスコの丸太小屋で一夜を過ごすことにした。

 食事は貰っていない。ゾンビの肉の味は気になるところではあったが、それを食べるぐらいならば、木の幹を齧る。

 物置みたいな小さな部屋を充てがわれて、レコニング号の中に敷いていた掛け布団を持ってきて、それにくるまる。


「……江渡木さん」


 一息ついて、さあ、寝ようか。と思い始めた頃。ようやく、アリスが小さく口を開いた。


「なんだい」

「ゾンビのお肉を食べる映画って、あるんですか?」

「あるよ。映画でも、小説でも読んだことがある」

「どうして、食べるのでしょう」

「そうだな」僕は腕を組む。「食糧問題だったり、飢えだったり、とにかく『食べ物がない』からが基本かな。たまに、『美味しいから』というのもある」


 熟成してて、美味しいらしい。ゾンビの踊り食いをする小説では、そんなことを言っていた。


「ゾンビは、美味しいのでしょうか」

「聞いてみたら?」


 アリスはぶんぶんと頭を振る。さすがの彼女にも、踏み込みづらい領域はあるらしい。


「……分からないのです」


 アリスはぽつりと呟く。


「ゾンビは――『死体』は、死んだ体です。誰かが死んでしまった後です。ですから、粗雑に扱うべきものではなくて、でも、襲いかかってくるものですから、退治しないといけないものです。襲いかかってくるから退治するものであって。殺すために殺すものではないと思います」


 ですから。アリスは続ける。


「江渡木さんがレコちゃんでゾンビを轢くのは悪いことですし、窓の外に腕を放り捨てたのも悪いことだと思います」

「ごめんよ」

「ですから、ゾンビをバラバラに解体バラして、細切れにして、食べるというのも、悪いことだと思います」

「じゃあ、フランシスコがしていることは、許せない?」

「神さまは、きっとお赦しにならないでしょう」


 しかし。アリスは続ける。


「そうしないとコミュニティの方々が飢え死にしてしまうことは事実です」「彼らがしていることは悪いことです」「しかし、彼らは罰を与えられるべきなのでしょうか」「飢えて死んでしまいそうだから、屍肉を食べた」「それは、悪いことなのでしょうか」「悪いことのはずなんです」「でも」「悪いことなのに、悪いことだと思えないんです」


 だから、分からないのです。悪いことかどうか、分からないのです。


「江渡木さんのせいで、なんだかよく分からなくなってしまいました」

「なぜ僕のせいになる」


 確かにゾンビ映画なんてものは、教育には良くないものかもしれないが。僕は別に、アリスを教育した覚えはない。むー。と頭を抱えるアリスに、僕は言う。


「神さまは懺悔をしたら、赦してくれるんだろう?」

「はい。自分の罪を認めれば、赦してくださいます」

「じゃあ、懺悔してもらえばいいじゃん」


 悪いことか悪くないことかよく分からないけれども。

 謝るべきかどうかはよく分からないけれども。

 そんなときは、とりあえず謝ってしまえばいい。


「それもそう……ですね」


 アリスは少し悩みながら頷いた。

 次の日。

 コミュニティの中でまた、ゾンビが出た。

 ゾンビになっていたのは、小さな女の子であった。

 昨日、肉をあげた、あの、女の子。

 地面に押さえつけるようにして取り押さえられている女の子は、首をぐりんぐりんと振り回しながら、欠けてる前歯を、ガチガチと噛み合わせている。唾を飛ばし、痰を飛ばし、血反吐を飛ばす。目は白く澱み、どこからどう見ても、彼女はゾンビになっていた。

 女の子の体には、噛まれた痕が見受けられなかった。彼女は、ゾンビに襲われてゾンビになったのではない。普通に死んで、ゾンビになったのだ。

 昨日、食料を渡したときには、自分のテントまで走って戻るぐらいには元気だったはずなのに。

 フランシスコの方にカメラを向ける。呆然と暴れている彼女を見ている。

 アリスの方にカメラを向ける。何度も瞬いて、溺れる金魚みたいに口をパクパクと動かしている。


「どうして、ですか。昨日は、だって」


 アリスは足を一歩前に出す。ザッと砂を蹴る音。

 音に反応した小さな女の子は、アリスに飛びかかるように、上半身をぐぐと持ちあげる。前に踏みだした、右足のくるぶし辺りを噛んだ。「あっ」という声が、テントに満ちる。

 女の子をおさえていた力が強まり、彼女の体が、地面に叩きつけられる。

 僕はアリスの腕を掴んで、引き寄せる。コミュニティの目が、僕らに向けられる。


「いま、噛まれました……?」

「噛まれてる、けど。気にしなくていい」


 僕はアリスの左手を囲い込もうとしてくるコミュニティの住人たちの前に出す。手袋を外し、手の甲にある噛まれた痕を見せる。


「彼女は『死体』に噛まれても平気なんだ。抗体か体質か、とにかく平気なんだ。だから、噛まれても死んだりしない」

「どう信用しろと」

「『死体』に噛まれたら半日も経たずに衰弱死するんだろう。だったら既に噛まれているこいつが、どうしてこんなに元気なんだ? 目だってほら、綺麗な青色だ」


 僕はアリスの頭を引き寄せ、その目を指さす。


「そんなに信じられないのなら、一日放置してみればいいよ。こいつは、死なないから」

「……分かりました。信じます」


 大きく息を吐きながら、フランシスコは言う。


「それよりも、この子を、楽にしてあげるべきだ」


 僕らの足下で、小さな女の子が、飢えを訴えるように呻いた。

 フランシスコは顔をしかめながら、彼女の頭に猟銃を向ける。銃口は小さく震えていた。銃声。でろでろと流れる血と脳漿に、呻いていた小さな女の子は、動きを止めた。

 アリスは僕に頭をおさえられたまま、両手を組んで、祈りを捧げた。

 動かなくなった女の子は、昨日死んだ男の墓の隣に埋められた。


「どうして、この子が『死体』に……」


 穴を埋めながら、フランシスコは呟く。

 実際。どうして彼女は死んでしまったのだろう。

 外傷はないし、多分、誰かに殺されたとかではないのだろう。ゾンビに噛まれたわけでもない。

 ゾンビ肉を食べていたから、飢え死にではないと思う。ゾンビ肉に、栄養が無かった。みたいなことがない限り。


「栄養が、ない」


 そういえば。

 この世界のゾンビは、ロメロ・ゾンビだったっけ。

 ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビには、無論、『栄養がない』なんて設定はない。そもそも、食べるものではないからだ。まあ『腐っている』という設定もないので、可食部自体はかなりあって、だから、このコミュニティのように食べることもできる。

 ロメロ・ゾンビは死んだらゾンビになって。噛まれたら死んで、ゾンビになる。

 人肉を食べる。

 頭を破壊されない限り、動きを止めることはない。

 走らない。

 生前の記憶を頼りに行動をする傾向がある。

 数年経過すると、知能を得る個体が現れる。

 あと……。

 僕は穴を埋める手を止める。アリスが僕の方を見る。


「なにか、思いだしたのですか?」

「フランシスコ、今日の朝死んだ、右腕の彼は『死体』の肉を食べていたのか?」

「ああ、もちろん」

「人より多めに?」

「いや、そんなことは」


 フランシスコは口をおさえる。


「『死体』の肉を食べようと言いだしたのは、あいつだった。あいつが、『死体の肉は食べられる』と」

「じゃあ、彼が一番、『死体』の肉を食べていたわけだ」

「それが、どうかしたのですか?」

「『サバイバル・オブ・ザ・デッド』だ」


 ジョージ・A・ロメロ監督の遺作となった、彼の最期のゾンビ映画。

 それでは、もう一つ、設定が増えている。


 「


 

 正確に言うなら、ゾンビを噛むと、ゾンビになる。ゾンビの血を飲んでしまうと、ゾンビになる。

 しかし、そんな、ほとんどの人が知らないであろう、マイナー設定まで厳守してるのか。この世界は。


「まさか、そんな」


 フランシスコは持っていたスコップを地面に落とす。


「事実、一番最初に『死体』の肉を食べた男が最初に『死体』になり、人より多く『死体』の肉を食べていたこの子が次に『死体』となった」

「じゃあ、なんだ」フランシスコの声は震えている。「俺は、皆に毒を食わせていたってことか?」


 僕は頷く。

 フランシスコは大声をあげ、僕に掴みかかってきた。胸ぐらを掴み、僕の顔を睨みつける。


「適当なことを言うな! そんなこと、あるわけないだろ!」


 ぐっと力を込められ、僕は少し後方によろめく。フランシスコは僕の体を追いかけようと、足を一歩前に出し、よろめく。立ちくらみでもしたかのように、頭を抱え、しゃがみ込む。

 体がぶるぶると震えて、びくり、びくりと背中を痙攣させる。


「だ、大丈夫ですか?」

「だい、じょう、ぶ。だ」


 アリスが慌てて近寄る。フランシスコは息も絶え絶えになりながら、手をあげ、彼女を制する。その手はアルコール中毒者みたいに震えていた。

 ゲップと共に、胃液を吐く。黄色い液が、ほぐしたばかりの地面に、びちゃと音を立てて浸る。

 フランシスコが振り返る。彼の顔は一気に青ざめていて――そして、彼の目は、真っ白に澱んでいた。

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