DAY.13-沙也Side:「彼氏よりも大切な人です」

 迂闊だった。油断していた。



 入社から半年が経った新社会人なんて、最も気が緩むタイミングではないか。彼女をしっかり監督しなかったのは紛れもなく私のミスだ。


 大炎上のきっかけは、一通のメールだった。後輩が先方に、データの確認を催促するメッセージを送ったのだが、担当者の名前を間違えてしまったのだ。


「渡邊」と「渡邉」。


 正直私も社会人になるまで、ワタナベは「渡辺」しかないと思っていた。


 名前は、気にする人と気にしない人ではっきり分かれる。同期でも似たようなミスをした人がいるが、その際の取引相手は「幼い頃からよく間違われるから気にしないで」と笑って許してくれたらしい。とはいえ、名前を間違えるのが失礼であることに変わりはない。


 この案件は、もともとスケジュールが遅れ気味だった。大元を辿れば先方のチェックが遅かったせいなのだが、こちらの進捗管理にまったく非がなかったというわけでもない。メールの端々にイライラを感じるようになってきた状況で、後輩がやらかしてしまい、爆発したというわけだ。そのやりとりも夜の十一時過ぎだった。きっと向こうの疲れが溜まっていたのもあるだろう。


 とはいえ、本来なら十日はかかる対応を次の月曜日までにやれというのはさすがに無茶だ。せめて複数人で分担できればスムーズに進行できたものの、あいにく社内に味方はほとんどいなかった。


 決して同僚と不仲というわけではない。ただ、普段のコミュニケーションに欠けていることは自覚していた。同期曰く、普段の私は温和とは真逆の、視線で相手を切り殺さんとばかりの目つきをしているらしい。私はただ真面目に取り組んでいるだけなのに。一方で、勤務時間中のフランクな会話も生産性の向上につながることは理解している。


 後輩も半泣きで作業を進めていたが、さすがに一年目の子を会社に泊まらせるわけにはいかない。零時には帰し、私が三時まで続きをやった。その日は小会議室で横になったが、一睡もできなかった。


 翌日も社内で缶詰めになった。寝不足の私を見かねて、他部署の女性の先輩が「ウチ、近くだから泊まりなよ」と声をかけてくれた。他人とひとつ屋根の下で寝ることに不安はあったが、一方でもしかしたらという気持ちもあった。なぜならこの数週間、私はアパートの隣に住む少年と一緒に夜を明かしてきたという実績があるからだ。


 結論から言えば、認識が甘すぎた。私は私という人間を見誤っていた。会社の先輩と一緒にいる緊張感が、私のスイッチを【外】に固定した。この先輩のことは決して嫌いじゃない。むしろ、無口な私のことも新人の頃から気にかけてくれている。だがそれとこれとはまったく別なのだ。


 自分の家とは異なるにおい。他人の家の床を素足で歩くという違和感。「合倉ちゃん」という呼ばれ方。気を遣われているというプレッシャー。すべてが負荷となり、心にのしかかる。この日も瞼を完全に閉じることはなかった。生まれて初めての二徹だった。


 金曜日、つまり今日だ。朦朧とした意識の中、なんとか終電までにはケリをつけようと朝早くから仕事を始めたが、始業時間になっても後輩は出社しなかった。


 不運は重なるものである。


 病院から会社に連絡が入った。出勤途中の後輩が、強烈なストレスにより過呼吸で倒れてしまったらしい。入院とまではいかないものの、原因がはっきりしている以上、全会一致で自宅待機となった。


 私が彼女に寄り添えていたら、この事態は防げただろうか。他の人が教育係を務めていたら、もっとうまくやっていただろうか。


 こうなるといよいよ、私一人でやるしかない。他にこの案件を把握しているスタッフはおらず、そもそも彼らだって他人の手伝いに回れるほど暇ではない。上司も出張で不在。脳に対策を練るだけのリソースはなく、とにかく手を動かし続けた。


 後輩はたまに小さなミスをするものの、基本スペックは優秀だった。ゆえに彼女が抜けてしまったのはあまりにも痛い。月曜朝イチまでに完了させるには、土日出勤はマストだろう。


 問題は私の体力だ。現在時刻は夜の一時前。ゆうに六十時間以上は脳を酷使し続けている。このまま残り二日間、睡眠をとらずに仕事をするのは現実的に不可能だ。明日の昼にはオフィスで昏倒してしまうかもしれない。月曜日までに作業が完了しなければ、私の責任だけでは済まされないというのに。


 せめて栄養補給は行おうとこまめに飴を舐めているが、とっくに味を感じなくなっていた。



「合倉ちゃん、おつかれさま~……って、うわっ!」


 首を左に動かすと、先輩が大げさにのけ反っていた。


「目、ヤバいって。今日はもう引きあげなよ」


 差し出された手鏡を見て、思わず笑ってしまった。



 これ、本当に私?



 アイラインを引くのに失敗したかのように、瞼の下が真っ黒だ。目じりに細かい皺がさざ波を立て、とても二十四歳になったばかりの女とは思えない。


「でも、もう少しだけやっておきたくて……」

「さっきからほとんど進んでないじゃない。集中力欠いた状態でやるより、一回睡眠挟んだ方が絶対効率いいって。それに正直、わたしもそろそろ帰りたくてさ。合倉ちゃん、マスターキー持ってないでしょ?」


 社内で仕事をするためには、マスターキーを持っているスタッフの監督が必要となる。所有しているのは役職者のみで、つまり先輩がオフィスを去るのであれば、私も撤収しなければならない。タイムアップだ。


 やむを得ずカバンにノートパソコンをしまい、先輩と一緒に戸締りをしてエレベーターに乗った。


「今日も泊まっていくでしょ?」


 先輩は何事もないように尋ねる。


「さすがに二日連続は悪いですし……」

「別にいいわよ。案件はほとんど手伝えないし、せめて先輩としてゆっくり休める場所くらいは提供してあげたいから」


 先輩の柔らかい笑顔が、私の心に影を落とす。


 ごめんなさい。そうじゃないんです。一人では寝ることもままならないのに、今の精神状態で他人と一晩一緒に過ごしたら、私はきっと壊れてしまう。


「せっかくの金曜日なんだし、少しくらいはリフレッシュもしないとダメよ。そうだ、夜ご飯もまだだし、ウチの近所のバーに行かない? そこ、ごはんもおいしいの。常連が多いからちょっと賑やかだけど、みんなフレンドリーだからすぐに仲良くなれるわよ」

「え……」


 どうしよう。頭がうまく回らなくて、断る言い訳が思いつかない。



「ネットカフェに泊まろうと思っています」。嫌がっているのが見え見えだ。


「友達の家に泊まることになってるので」。こっちに友達なんて一人もいない。


「タクシーで帰ります」。金曜日のこの時間はきっと長蛇の列だ。待っている間に倒れる。



 ぐるぐると思考が絡み合い、無数の見えない糸が首に巻き付いて私の呼吸を奪う。


 私の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。先輩は口角を上げて鼻歌を歌っている。


 先輩の家はここから徒歩十分もかからない。会社の敷地を一歩出たら、逃げ場はなくなる。


 エレベーターが開いた。守衛を通り過ぎる際、おじさんが「今週も一週間おつかれ」と声をかけてくれるが、そんな労いの一言さえ呪いに聞こえてしまう。ビルの正面玄関が、私の目には地獄の入り口に映った。巨大な鬼が大口を開け、獲物が吸い込まれるのをじっと待っている。


 茶道くんに会いたい。


 茶道くんの作った料理が食べたい。


 茶道くんとベッドでお話したい。


 茶道くんと一緒に眠りたい。




「沙也さん!」




 敷地の外に、一人の少年が立っている。私の姿を確認すると、子犬が尻尾を揺らすように、ぶんぶんと手を振る。


「うそ……」


 秋の夜長にTシャツとジーンズという格好は寒くないのだろうか。白い裾から覗く腕は引き締まっており、今度は腕枕もお願いしてみたいと場違いなことを考えてしまった。


「知り合い?」

「は、はい」

「弟くん……じゃないわよね。彼氏いないって言ってなかったっけ?」


 近づくほどに、瞳の中で、心の中で、彼の存在が大きくなっていく。


「彼氏よりも大切な人です」

「ど、どういうこと?」

「ごめんなさい、先輩。今日はあの子のお世話になります」


 先輩は訳がわからないという顔で頬を掻いていたが、やがてトートバッグからマスターキーを取り出して、私に握らせる。


「月曜日にオフィスで返してくれればいいわ。あと困ったことがあったら電話ちょうだい。緊急修正が必要ならデザイナー手配するから」


 ぽんぽんと私の頭を撫で、背中をそっと押してくれる。


「……ありがとうございます」



 次の瞬間、私は彼のもとへ駆け出していた。

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