DAY.12:「えっちなのも無しね」

「ねぇ、ASMRって知ってる?」


 いつもの夜。


 ベッドに入った直後、沙也さんの口から聞き慣れない単語が飛び出した。


「日本語で自律感覚絶頂反応っていうんだって。端的に説明すると、睡眠導入やリラックスを目的にした、心地いい音や声のことらしいよ」

「心地いい音って、例えば?」

「焚火のパチパチとか雨のザーザーみたいな自然の音だったり、耳かきのコリコリとかスライムのヌルヌルみたいな人工の音も人気なのかな。マニアックなのだと、色々な食べ物の咀嚼音を集めた動画っていうのもあるらしいよ」

「それはまた……」


 食事の音声を聞いて癒されるという発想はなかった。つくづく世の中は、学校の勉強だけではわからないことだらけだ。


「もっとディープなところだと、シチュエーションボイスっていうのがあるの。『お姉ちゃんが寝かしつけてくれる』とか、『彼女が看病してくれる』とか。仕事や勉強に疲れた人たちが夜な夜なイヤホンで聴きながら眠りにつくんだって」

「ストレス社会の産物って感じですね。で、そのASMRがどうかしたんですか?」


 正直、この後の展開はなんとなく予想できているが、あえて口に出してみた。


「……サドーくんにやってみてほしいんだけど」


 俺の腕を握る沙也さんの力が、少しだけ強くなる。


「普通に音声を聴くんじゃダメなんですか?」

「ブラウンをクリーニングに出した日に人気Vチューバーの動画で試してみたんだけど、全然効果がなくて。でもサドーくんがやってくれたら、またいつもと違った感じでぐっすり眠れると思うの。……どう?」


 断られるかもしれないという不安の混じった、弱弱しい声。


「仕事から疲れて帰宅した沙也さんを慰めるならまだしも、『ASMR』としてやるのなら架空のシチュエーションで、ドラマ仕立てに想像上の女性を励ますってことですよね?」


 世の中の一般女性がどんなことを言われたら喜ぶかなんて、さっぱりだ。


 だが、ほかの誰でもない彼女の頼みとあらば断わるという選択肢はない。


「声の演技は初体験ですが、それでもよければ」


 暗闇でもわかるほどに、沙也さんの顔がぱあっと明るくなる。この笑顔を見ると、いつも俺まで嬉しくなるんだ。


「それで、設定はどうするんですか? あんまり複雑だとうまくできる自信がないのですが」

「……いびと」

「え?」




「恋人に、添い寝してもらう設定がいい」




 心臓がびくっと跳ねる。


 恋人。俺と沙也さんが。


「……関係性以外は普段と一緒じゃないですか」

「いや?」

「嫌……じゃないです」

「じゃあやろうよ」


 沙也さんが、じっと俺を見つめている。


 やかましい胸のビートを必死になだめ、平静を装う。


 そこからいくつかシチュエーションボイスのレクチャーを受けた。


 まず、名前を呼んではならない。不特定多数の人が聴くことを想定し、こういった音声では聴く側の名前は決めないのが一般的らしい。一度「花子」と呼んでしまえば、本名が花子以外の人には他人事になってしまうからだ。


 次に、タメ口を使うこと。語り手が「後輩」や「店員」という設定ならまだしも、一日の疲れをそそぐのに、敬語で接してこられると壁を感じてしまうからだという。


 今回はあくまでシチュエーションボイスなので、いつものようなハグや対話は無しだ。俺が一方的に耳元でささやくだけ。これで本当に癒されるのか半信半疑だが、まずはやってみようの精神である。


「ちなみにえっちなのも無しね」

「わ、わかってますよ!」

「じゃ、三分後にスタートで」


 俺は、一日の勉強が終わってオフにした脳のスイッチを再び切り替え、思考をフル回転させる。大事なのは聴き手を癒すこと、そして承認欲求を満たしてあげることだ。心理学者のマズロー曰く、承認欲求は身の安全や食事・睡眠の欲求をも上回るという。


 ワンチャン、三分経ったら沙也さんが寝落ちしていないか期待したが、時間になっても爛々とした目でこっちを見つめていた。



 ……俺も、覚悟を決めるしかない。




 この時はまさか、沙也さんからあんな言葉を聞くことになるとは思ってもみなかった。

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