DAY.2:「キミ、私の好きなにおいだ」

 初夜から数日が経った。


 言い方こそ意味深だが、マジで本当に、沙也さんとは一緒に寝るだけの関係である。朝になれば俺は自分の部屋に戻り、朝メシを食って学ランに着替え、登校の準備をする。玄関の先でばったり出くわすこともあるが、家の外に出ると沙也さんは仕事モードに切り替わってすっかり無口なOLだ。


 彼女への印象は変われど、決して恋心などは抱いていない。俺にとって目下のミッションは、受験に成功することに他ならない。第一志望の大学に受かればこのアパートともおさらばになるし、必然的に沙也さんとも物理的に離れることになる。不必要な親密さは勉強の邪魔にもなりうる。


 だからこそ適度な距離感を保ちつつ、お互いただの隣人の関係を踏み越えず、残り数週間を過ごさなければならない。


 ……というのに。



「疲れた~! サドーくんナデナデして~!」

「はいはい」


 ふわふわの頭を撫でると、暗闇のベッドの中で沙也さんが「えへへ」と笑う。


「今日ね今日ね、後輩の子がクレーム起こしちゃって、私がお客さんのところに一緒に謝りにいったら、なぜか私がサポートする流れになっちゃって。ただでさえ自分の案件で忙しいのに先輩もフォローしてくれないし、私だけ土日が潰れるところだったんだよ? 酷くない?」

「土日出勤って……よくあることなんですか」

「うーん、そこまで多くはないよ。月に一度あるかないかくらいかな」


 それは充分に多い方です。毎日の重労働に加え休日出勤なんて、労働基準法ガン無視だろ。


「ノーパソ支給されてるから休日までわざわざ職場で仕事する必要はないんだけど、私、会社じゃないと捗らないタイプだから」

「まぁ、家だとこんな感じですしね」

「外で頑張ってるからいいんだもーん」


 ぎゅうう、と腕の力が強くなる。


 外では企業戦士、ベッドでの立ち振る舞いは、まるで母親に甘える幼子だ。


「今さらだけど、私の就寝時間に合わせちゃって大丈夫? サドーくん睡眠不足じゃない?」

「俺、元々ショートスリーパーなんですよ。三時間も寝ればスッキリなんで。おかげで受験勉強が捗ります」

「若いなぁ。私なんて、休日に八時間寝てもまだ眠いのに」

「毎日早く起きて、遅くまで働いて偉いですね」

「えへへ……」


 だんだん褒め方のコツがわかってきた。円滑な人間関係のコツは、とにかく相手を褒め倒すことだという。


 毎日会社に行って働く。社会人にとっては当たり前のことかもしれないが、それを賞賛されて嬉しくない人はきっといない。学校で授業を受けるだけの俺でさえ、意味なく登校がしんどいと感じる日もある。勤め人なら、会社に行きたくない時はいくらでもあるだろう。


「サドーくんも、学校おつかれさま」


 頭部に温もりが宿る。沙也さんから撫で返しを受けた。


 程よいスピードで髪が左右にさらさらと揺れる。


 あぁ、確かにこれはいい気持ちだ。


「ん?」


 ふと、沙也さんが距離を縮めてくる。俺の首元に顔をずいと寄せ、鼻をすんすんしている。


「どうかしました?」

「サドーくん、男の子のにおいするー」

「えぇ?」


 鼻息がかかってくすぐったい。ただでさえ抱き着かれた状態なのに、距離がゼロからマイナスになりそうなほど密着している。


「く、臭いですか?」

「全然?」


 今までシャワーを浴びるタイミングは学校やバイトから帰ってすぐだったので、遅くとも夜十時には済ませていた。しかしこの生活が始まって以降は、早くても日付が変わってからだ。


 理由は単純明快、におい対策である。俺は汗っかきというほどではないが、人様のベッドを使わせていただく以上、最も清潔な状態でいるのは最低限のマナーだ。抱き枕役を仰せ遣っているからには、睡眠の質を下げる要因は作りたくない。


「くんくん」

「ちょ、止めてくださいって……」

「やだー」


 わざと鼻を鳴らして吸引アピールをし、俺の羞恥心をかき立ててくる。胸の奥がむず痒い。


「私ね、ブラウンがいなくなってから、一人で眠れるように色々な方法を試してみたんだ。ハーブティーとかアロマとか。いいにおいだな~とは思っても、ちっとも効果がなくて」

「……ああいうのって、慣れてからようやくリラックス効果が出るんじゃないですかね。嗅ぎ慣れない香りがしたら、むしろ脳が興奮しちゃうっていうか」

「うん、私には逆効果だったよ。たぶん私って【外】と【内】の区分けが激しいタイプだと思うんだ」


「外と内?」


「えっと、なんて言えばいいのかな。好き嫌いがはっきりしてるっていうか、オンとオフが激しいっていうか、仕事とプライベートはきっちり分けたいっていうか、みんなと一緒にいるのも楽しいけど一人の時間も大切にしたいっていうか……。とにかく、私にとって許容できるものの範囲ってものすごく狭いんだ。だから地元の友達も家に呼んだことないし、休日は誰ともアプリのやり取りとかしないの。なのに今こうやって、サドーくんを抱き枕にして一緒に寝てる。あの時はいくら寝不足だったからって、自分からこんなお願いするなんてね」


 俺の腕をぎゅっと抱きしめながら、沙也さんがはにかむ。


「サドーくんのことはまだよく知らないけど、でもすんなり受け入れられたってことは、私にとってキミは【内】なんだよ」

「…………光栄です」


「あ、ちょっと間があった!」


 沙也さんがずりずりと下がり、俺の腹筋に顔を埋める。


「罰としてクンカクンカしちゃる」

「マジで、恥ずいですって……」

「シャツの下に頭突っ込んじゃおっかなー」

「それはただの変態では」


 服をめくる素振りを見せるが、実行に移す気配はない。つまりこれはただの戯れだ。


「まぁつまり、私が言いたいのはさ」


 すすす、と俺の横に戻り、沙也さんが暗闇の中で笑った。


「キミ、私の好きなにおいだ」


 吐いた息が、そのまま俺の体内に入ってきそうだった。

「……あざす」

「ふふ、照れてる」


 遺伝子レベルで好きだと言われて、動揺しないわけがない。




「そだ、私のことも嗅いでみる?」

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