DAY.1:「きっと抱き心地いいと思うんだよね」

「その……ブラウンとは、いつからの付き合いなんですか」


 お隣さんがむくりと顔を上げる。


「……小学校入学のお祝いに、おばあちゃんが買ってくれたの。私ね、小っちゃい頃は特に人見知りだったから、幼稚園で友達がいなくて。だからおばあちゃんは勇気づけてくれたのかもしれない。『一人じゃないよ』って。現にブラウンがいつもおうちで待っていてくれるから、私は外で頑張れたの。隣の席の子に話かけたり、遊びに誘ったり。受験や就活でくじけそうになった時も、仕事で泣きそうになった時も、ブラウンがいたから乗り越えられた。ブラウンは私の大事な親友」


 そう振り返るお隣さんの口調は、友を想い、慈しみ、帰りを待ちわびる幼馴染のようだった。


 今まで俺は、外で会ったお隣さんにずっと無視されていると思っていた。しかし、本当はただ引っ込み思案が発動しただけだったのかもしれない。


「キミがね、ブラウンに似てるの。目元とか」

「はぁ」

「同じ雰囲気を感じるんだよね。体格もがっちりしてるし」

「中学時代、柔道やってたんで。今はたまに筋トレするくらいですけど」


「きっと抱き心地いいと思うんだよね」

「……」


「絶対、変なとこ触らないから」

「……うーん」


「これ以上睡眠不足が続いたら、また外で倒れちゃうかも」

「……でも……」

「一晩だけでいいの。ブラウンの代わりになって! 明日にはクリーニング業者の人から連絡来るはずだから」


 お隣さんが顔だけ上げて、潤んだ瞳で見つめてくる。うぅ、その顔はずるい。


 壁掛け時計で時刻を確認すると、深夜二時を回っていた。これ以上問答を続けていたら、着実にお隣さんの睡眠時間は削られていく。先ほどの共用廊下での光景を見るに、疲れ切っているのは事実なのだろう。職場ならまだしも、街中や駅のホームで倒れたりしたら事故の危険だってある。他に頼れる人もいないようだ。


「……わかりました。一晩だけなら」

「やったぁ!」


 お隣さんは諸手を挙げて喜びを露わにした。そして、ふと思い出したようにトートバッグから財布を出した。一瞬お金を渡されるのかと警戒したが、提示されたのは免許証だった。


合倉沙也あいくらさやって言います。年齢はもうすぐ二十四歳。職業はWEBディレクターです。宮城出身で、就職を機に上京しました」


 隣に越してきて約一年半。そういえば俺はお隣さんのことを何も知らなかった。会社の名刺も一緒に渡される。


「気軽に沙也って呼んでね」

「さすがに名前呼びはちょっと抵抗が……」

「家にいるのに名字で呼ばれるなんてヤダよ」

「……じゃあ、沙也さん」

「はーい♪」


 沙也さんはホームルームの出席確認のように、元気に右手を挙げた。


「それで、キミの名前は? 知床って名字はポストで確認したけど、せっかくだから私もファーストネームで呼びたいな」

知床茶道しれとこさどう。高校三年、十八歳。受験生です」

「茶道ってあの、千利休せんのりきゅうの?」

「ですね」

「すごーい、サドーくんだ!」


 興奮した様子で、沙也さんは目をきらめかせた。


「名前に茶が入ってるなんて、ますますブラウンみたい!」

「テンション上がってるところ申し訳ないですが、早速寝ましょう。このままだとタイミング逃しそうなので」

「そだね。ベッドの中で話そっか」


 すぐに寝る気ナシかよ。


 どうやら俺に与えられた使命は、沙也さんに一秒でも長く睡眠時間を与え、健康的な生活に寄与することのようだ。


 二人でもぞもぞとベッドに潜る。手前側が沙也さん、壁側が俺。枕はひとつしかないので、俺はクッションを折り畳んで頭の下に敷いた。


「じゃ、消すね」


 部屋が真っ暗になる。俺は寝る時は豆電球を点けるタイプなのだが、ここは家主の意向に従うとしよう。辺りは闇一色で何も見えない。


 ふと、脇の下を中心に身体が温まっていくのを感じた。


 これは、もしかして。


「やっぱりだ~。サドーくん抱き心地最高~」



 前から抱き着かれている!



「ちょ、これはさすがにマズいですって!」

「でもサドーくん、ブラウンの代わりになってくれるって言ったよ?」

「言いましたけどぉ……」


 スペイン人も怖気づきそうな、情熱的なハグだった。両手を俺の背中に回し、太ももで俺の両足を挟んでいる。耳にかかる息や、頬に触れる毛先がくすぐったい。


「あったか~い、たくまし~い。っていうか、私よりおっぱい大きくない?」

「だから、中学は柔道やってたんですよ……」

「さっすが男の子。胸筋ってやつだね」


 沙也さんの胸は、だいぶ控えめで平らかだ。ゆえに正面から抱き着かれると、モロに当たる。こんな状態が一晩も続くなんて、耐えられるのだろうか?


 目が徐々に暗闇に慣れてきた。沙也さんの顔が真正面に浮かび上がる。


「って、もう寝てる……」


 瞼を閉じ、すぅすぅと規則的に呼吸している。


 疲れていたというのはやはり本当なのだ。毎日遅くまで働いて、体調を崩さないのがおかしいくらいだ。若いからって体力に任せていたら、きっとそのうちガタが来る。


 視界がはっきりしてきたところで、謎がひとつ解けた。


 さっきから胸部に、やけにごつごつとした感触があった。


 正直、失礼な話だが沙也さんの胸が小さいからだと思っていた。


 至近距離で熟睡する沙也さんのパジャマからは、キャミソールが覗いている。俺が胸の感触だと認識していたものは、肌着のカップ部分だ。女性の肌着って意外と硬いんだな。


 って、何をまじまじと凝視しているんだ。俺は恥ずかしさに目を逸らしつつも、ハグは解除しなかった。


 沙也さんの頼みを忠実に実行するためだけじゃない。


 細い体躯、柔らかい背中、きめ細やかな髪、白い首筋、吐息に混ざった声、パジャマから漂う生活臭。その一つひとつが、俺を安心させた。


「……気持ちいい……」


 知り合いとも呼べない人物と抱き合って、こんなにも気持ちが安らぐなんて思ってもみなかった。女性だから? 年上だから? 社会人だから? 自分より小柄だから?



 わからない。



 謎の安堵に包まれながら、やがて俺は眠りに落ちた。

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