悪夢

 現実は非情だ。

 僕も若い頃は夢を持っていた。大企業に就職して、出世して、可愛い女性と結婚して。金を貯めて、早期退職で、第二の人生を謳歌するんだ、と。

 現実は非情だ。

 やっと採用された会社はさほど大きくもなく、いわゆるブラック企業。安い給料な上、休みもなく、結婚はおろか彼女もいない。もうすぐ三十歳になるというのに。

 そんな僕のささやかな楽しみは、夢だ。未来に希望を描く夢じゃなくて、眠るときに見る夢。子どもの頃に飼っていた猫が出てくるんだ。名前はたしか「チョコ」。

 その名のとおり布団の上にちょこんと乗っかり、毎朝僕を起こしてくれていた。

 老衰で死んでしまったけれど、可愛いやつだった。

 夢の中で僕は布団から目覚める。

 ややこしい言い方だけれど、決まって僕の夢は柔らかな布団から目覚めるところから始まる。布団の上にはチョコがいる。すでに死んでしまったはずのチョコが。

 僕は嬉しくて、布団からすぐには出ずに、チョコが僕の頬をすりすりするままにまかせる。

 暖かい布団と、チョコ。

 ずっとそうしていたいけれど、非情にも、夢は終わる。

 僕は目覚める。

 現実の僕は固いベッドで眠っている。もちろん、チョコもいない。一人ぼっちだ。

 時計を見ると、会社に行く時間だということを思いだす。

 時間がない。遅刻してしまう。急がなければ。夢から覚めるといつもこうだ。

 現実はなんて非情なんだ。

 なんて……。


 ♦♦♦


「にゃあ」


「ミント、また幸一は目が覚めてた?」


「にゃあー」


 広美は飼い猫のミントに尋ねた。ミントは昔飼っていた猫「チョコ」にそっくりな猫だ。

 ミントは眠っている幸一の布団の上にちょこんと座り、時折苦しそうに寝言を言う幸一の姿を見つめている。

 幸一は広美の一人息子だ。真面目で責任感が強い彼は、大学を卒業し、会社に入って八年目、過労で倒れた。その後はずっと眠り、目を覚ますのはほんの時々だ。

 時折目を覚ましては、ミントに頬ずりされ、再び幸一は眠ってしまう。

 食事は点滴で、排せつは広美が世話をしている。


「うう、遅刻してしまう……すみません、課長、もっと頑張らなきゃ……」


 幸一が寝言を言った。夢を見ているのだ。夢の中でも幸一は会社に縛られているらしい。いたたまれなくなって、広美は何度も幸一を起こそうとした。しかしダメだった。医者に聞いても眠り続ける原因が不明だという。


「早くちゃんと目を覚ましてよ、幸一。もう会社には行かなくていいのよ」


「にゃあ」

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