第四話 feat.神水綾

 神水綾かみみずあや(仮名、二十歳)が髪を青く染めたのは半月ほど前のことである。普段からコスプレイヤーとして活動している彼女からすれば髪の色など些細なものであり、コスプレイベントで周囲からの視線やカメラのシャッターに慣れきっている彼女にとって、日常生活で道行く人々から向けられる視線はライオンの周囲に集る小蝿にも等しく意に介する必要のないものだった。

 そんな彼女だったが、イベントの帰りに自転車を取りに向かった先の駐輪場で膝を抱えて蹲る少年と相対したときは、さすがに髪を奇抜な色に染めたことを僅かに後悔した。


「ちょ、だいじょぶ?どこか悪いの?」

「あ、いや、大丈夫、です」


 良く言えば優しそうな、悪く言えば気弱そうな声でそう答えた少年は、こちらの顔を見るなり表情を硬くしてしまう。見知らぬ大人に声をかけられたのだから無理はないのかもしれないが、おそらくそれ以上に自分の外見による威圧感が些か少年に効きすぎているのであろうことを神水女史はすぐに理解できた。


「あ、っと。ごめんね。別にお姉さんは怪しい人じゃないよ。ここに自転車置いてたのを取りに来たら小さい子が膝抱えて蹲ってるもんだから、何か困ってるのかなと思って声かけただけ」

「……そうなんですね」

「見た感じ具合が悪くなったとかそういうんじゃないみたいだけど」

「はい。あの、元気です」

「そう。ならよかった。友達とかくれんぼでもしてるの?」

「……違います」

「え、もしかして迷子とか?」

「……………」


 バツが悪そうに視線を背ける少年の素振りを、神水女史は肯定と受け取った。


「じゃあ、お父さんとお母さん?が心配してるね。お姉さんと一緒に交番行こうか」

「え?」


 少年はまるでそんなことを言われるとは思っていなかった、とでも言いたげな表情を見せる。だが神水女史からすれば、目の前に迷子の子供がいるなら然るべきところに預け判断を委ねるのが成人としてあるべき行動だった。ゆえに、目の前にいる少年が何を不思議がっているのか彼女には理解が及ばない。

 神水女史はその場にしゃがみ、少年と目線の高さを合わせるよう試みる。子供が大人を怖がるのは体格の違いからくる無意識の威圧感によるものだと、昔どこかで聞いたことがある気がしたからだ。が、身長が百六十四センチの神水女史がしゃがむと、今度は彼女の方が視線が低くなってしまった。しかし普通に立って上から目線で会話するよりは、この方が幾分相手の警戒も緩くなるだろう。


「迷子の子供は交番に行くのが普通でしょ?幼稚園児だって知ってると思うんだけどな。まさか学校に通ってないなんてことないでしょキミ」

「えっと、小学三年生です」

「おー、もう立派な中学年じゃん。なら、大人しくお姉さんに署まで連行されること!あ、この言い方じゃまるで誘拐魔だね私。今のなしで」

「は、はい……」

「私は神水綾。気軽にアヤ姉って呼んでくれていいよ。キミの名前は?」

上遠野かみとおの尋史ひろしです」

「ヒロシ君ね。じゃあ親しみを込めて“ヒロ”って呼ばせてもらお」

「え?」


 初対面の相手をいきなりあだ名で呼ぶ程度には、神水女史はコミュニケーション能力があった。あるいは、初対面の大人を相手に明らかに狼狽している小学生の少年の緊張を少しでもほぐそうという意図でもあったのかもしれないが、想像を域を出ない。


「私、池袋の大学に通ってるんだ。アヤ姉こう見えて結構インテリなんだぞ。だから交番とかお巡りさんのいる場所がどこにあるかもだいたい知ってる。ここからだと一番近いのは……西口前の交番かな。そこまで一緒に行こ?」

「えっと……はい」


 ヒロこと上遠野少年はややためらう素振りを見せたが、結局大人しく神水女史についていくことを選んだ。神水女史のことを信じたのか、あるいは初対面の相手への恐怖心ゆえに断ることができなかったのかは分からないが。

 二人は駐輪場を出て、池袋駅北口に続く道に出た。

 多少池袋の治安に明るい者なら既に知っていると思うが、池袋の西と北側のエリアは、所謂大人向けの繁華街である。特に池袋駅北口方面は風俗店やファッションホテルが軒を連ねており、治安はともかく、風紀という意味ではお世辞にも良いとは言えない(そういう部分も含めて私は池袋という街が好きなのだが)。

 神水女史も大学進学を機にこの街に引っ越してきた際には街のアンダーグラウンドな雰囲気に多少身構えはしたが、慣れてしまえば街が見せる別の一面として受け入れられた。

 しかし、傍をついて歩く上遠野少年にとっては別だろう。上遠野少年が不安がっているのは単に親とはぐれたからというだけではなく、この街の影の一面に気圧されているからなのかもしれない。

 そう思い、少しでも不安を取り除こうと彼女は自分の後ろを歩く上遠野少年に振り返り声をかけた。


「ちょっと大人っぽいお店が多い通りを歩くことになるけど心配しないでね。別にどっかに連れ込んだりしないし怪しいキャッチに声かけられても無視すればいいか、ら…………?」


 神水女史と上遠野少年がいた池袋駅北口付近からは、建物の陰に隠れさえしなければ嫌が応にも視界に入るものがあった。

 青い空を背景に白い壁がよく映える、豊島区の清掃工場の煙突。神水女史も初めてこの街でそれを見たときにはその巨大さに多少驚きはしたが、今ではもうすっかり日常の一部と化している。

 にもかかわらず、その時の神水女史が日常的なその煙突に視線を奪われてしまったのは、白い壁をバックに落下する黒い影をそこに見たからだ。


「ねぇヒロ、あれ、あれ見て!!」

「え……?」


 神水女史の慌てぶりに困惑しながらも言われるがまま彼女の指し示す方角を見る上遠野少年。視線を向けた直後、彼もまた「えっ」という短い驚愕の声を漏らした。

 煙突から落下する黒い影の形は紛れもなく、五体満足な人間のものだった。


「ごめん、ヒロ。交番に届ける前に、あれ確かめに行ってもいい?」

「え?」

「ヒロも見たでしょ?あれどう見たって人が落ちてたし!急いで確認して警察とか救急車呼ばなきゃ!」

「は、はい!」


 二人は駅とは反対の方向に駆けた。


***


 神水綾は虚構の実在を信じていない。

 彼女がアニメや漫画にどっぷり浸かるようになったのは小学校高学年くらいの歳の頃からだったが、その当時は彼女も虚構の実在を信じていた。具体的には異世界やそこで織りなすボーイミーツガールの物語、日常の陰に潜む怪異など。

 だが神水女史が成長し現実を知るにつれ、そんなものはこの世界には存在しないという考えが彼女の中で次第に支配的になる。それはどこでも誰にでもあるごく自然なことであり、大人になるために必要なステップの一つでしかない。今の彼女は虚構はあくまで虚構だから魅力的であり、自分はそれを観測するだけの何の力も持たない傍観者でしかないことを自覚している。彼女にできることといえば虚構の人物に扮して世界観を楽しむ程度のことだけだ。そのことを彼女自身は悲しむでも憤るでもなく、それが当たり前なのだと納得していた。

 池袋の空に現れた《竜》という都市伝説に対しても彼女のそのスタンスは一貫している。

 彼女は《竜》に対しては自分でも不思議なほどに興味を持たなかった。もし彼女がもう少し若い時期に《竜》が池袋の空に現れていたのなら彼女の受け取り方や価値観もまた変わっていたのかもしれない。《竜》に興味が薄いのと同様に《竜の涙》についても彼女はあまり関心を持たなかった。存在自体が眉唾ということも大きかったのだろう。

 ゆえに彼女は上遠野少年と出会った時点で、一緒に行動している少年が《竜の涙》を手にして追われていたということも、今日この街で起こっていた魑魅魍魎な騒動についても仔細を把握していなかったのである。


***


★八月二日 午後三時二十四分


「お姉さん、あれ……」

「ヒロ、見たくなかったら目瞑ってた方がいいよ」


 豊島清掃工場傍、ちょうどJR山手線の線路沿いの細い歩道にそれは転がっていた。

 先程落下していた、人間の遺体。

 数メートルほど離れたこの位置からではよく見えないが、あの煙突の高さから落ちたというのなら間違いなく即死は免れないだろう。それを分かっていつつも、神水女史は最後の確認のためにと歩道にうつ伏せに横たわる遺体に近づいた。


 ———ん、なんだろコレ?


 神水女史が遺体の傍に落ちていた“それ”に気付いた時、予想だにしないことが起こった。


「———プハッ!」

「ひゃあっ!?」


 目の前に横たわっていた遺体が、奇怪な声と共に突然起き上がったのだ。

 

「え、え、え?」

「……?」


 その疑問の声は、神水女史ではなく生き返った遺体の男性から漏れ出たものだった。地面に突っ伏していたので遠くからでは分からなかったが、男性は思いのほか若かった。若かったというか、外見からしておそらくまだ高校生くらいの歳だろう。五分丈のビッグシルエットのパーカーを着ている、どこか軽薄そうな印象の拭えない少年だった。


「俺、どうなったんだ?」

「あの」

「え?」


 神水女史に声をかけられて、遺体の少年はようやく彼女の存在に気付いた。


「なんすかお姉さん?ナンパ?」

「いやナンパとかじゃないし。お兄さん、さっきそこの煙突から落ちてきてなかった?私の気のせいか人違いじゃなきゃ」

「やっぱり、夢じゃなかったのか」

「夢?」

「あー、なんつったらいいかな。ありのまま起こったことを話すと、俺さっきまで西口公園にいたはずなんだけど、いつの間にかそこの煙突のてっぺんにいたっていうか。で驚いて足滑らせて落ちちゃってこりゃ死んだなって思ったら、気付くと地面で横になってたというか」

「は?」


 イマイチ要領をえない少年の言葉に、神水女史は理解が追い付かなかった。高いところから落ちて気が動転しているのか。いや、あの高さから落ちたというのが事実なら無傷でいられるはずがない。アクション映画のように建物やビニールハウスの屋根がクッションになったとか、それこそ“瞬間移動”でもしない限り。


「お姉さん、その人無事だったんですか」

「あ、ヒロ。うん、どういうわけかね。アヤ姉もさっぱりだけど」

「あれ、ボウズ。どこかで見た気が———」


 少年が駆け寄ってきた上遠野少年を見て何かに気付いた時、今度は別の声が彼女の耳に届いた。


「いたぞ!あの子だ!!」

「ん?」


 見ると、歩道の向こうからこちらを指さしている数人の人の群れがあった。見たところチーマーやカラーギャングなどの時代錯誤な人種ではないようだが、その雰囲気はどこかただならないものを漂わせている。まるで獲物を見つけたハイエナのように。

 そして不可解だったのは、彼らの視線が向いているのがどういうわけか迷子の上遠野少年だったことである。

 当の上遠野少年は表情が真っ青に青ざめている。そして。


「う、うわああぁああああぁあぁぁあぁ!!」


 そのまま彼は反対方向に走って逃げた。


「え、ちょ、ヒロ!?」

「百億が逃げたぞ!!」

「は?百億?」


 群れの誰かがそう言ったように聞こえたが、その時の神水女史には彼らの目的も、上遠野少年が何者であるかも知る由はなかった。


「あぁ、もうなんなん!!」


 次から次に起こる異常事態に思考が追い付かず、半ばヤケになって彼女は上遠野少年を追いかける。

 背後から上遠野少年を追っていたと思われる集団が走ってくる気配があったが、とりあえずそれは気にしないことにした。


「———面白くなってきたじゃん」


 誰にも聞こえない声でそう呟くと、煙突から落下してきた少年もまた彼女の背中を追いかけた。誰が見てもタチの悪い笑みを浮かべて。


***


★同日 午後三時四十一分 池袋駅東口前パルコ付近


「はぁ、はぁっ」

「ちょっ、ヒロ!あんた万引きでもしたの!?」


 神水女史は上遠野少年と並走して走っている。上遠野少年がまだ幼く成人男性と比べれば走るのが遅いというのもあるだろうが、神水女史もまたコスプレ趣味が転じて体型維持のための体力づくりを行っていたのでスタミナはそれなりにあった。


「ち、がうしっ!」

「じゃなんで連中がヒロのこと追いかけてくるのさ!」


 背後を見やれば、連中はまだ彼女たちを追って走ってきている。どういうわけか道中で繁殖でもしたのか人数が倍くらいに増えているような気がした。

 駅前東口ともなれば池袋の玄関口であり、おそらくこの街でもっとも人が賑わっているであろうエリアだ。そんな場所で大勢の人間が走り回っていれば当然衆目を集めないはずがない。すれ違う通行人たちは皆一様に不審な眼差しを二人に向けてくる。


「ぼくが……っ、オレが……っ、拾ったから!」

「は?拾ったって?何を?」

「りゅうの———」

「つかまえたっ!」


 上遠野少年が何かを言いかけたとき、いつの間にか接近してきていた追っ手の一人がこちらに腕を伸ばしていた。

 神水女史がそれに気づいた時には既に遅く、その手は真っすぐに隣を走っていた上遠野少年の肩に触れようとしていたのだが———。


「ッ、触んなっ!!」


 明確な敵意と嫌悪感を持って神水女史がそう声を荒げたときだった。


「っ、うおおぉ!!??」


 音もなく突然、その場に炎が燃え上がった。

 日常生活ではおよそ体験することがないであろう数千度の熱を前に、手を伸ばしていた追っ手はその腕を引っ込め立ち止まる。

 それを見計らったようなタイミングで、立ち昇った炎はロウソクの火を吹き消すかのごとくあっという間に消え失せた。


「え?え???」

「お姉さん、もしかして———」

「《竜の目》持ってるだろ、お姉さん」


 上遠野少年とは別の声が聞こえ、また別の追っ手が迫っているのかと一瞬神水女史は身構えたが、振り向いた先にいたのは先程清掃工場前で話した軽薄そうな少年だった。

 少年はそのまま神水女史の横に並走する形になる。


「あなた、ついて来たの?」

「面白そうだったんで。あ、一応名乗っとくと俺の名前は犬山直斗いぬやまなおとね。よろしゅう」

「何も面白くないし!あんたの名前も聞いてないし!というかマジ何なのよこれ!」

「俺が落とした《竜の涙》拾ったからじゃないの?その手に持ってる」

「え?」


 神水女史の手には、透明に光り輝く青い宝石があった。先程犬山少年の傍に転がっていたのを拾ったものだ。


「《竜の涙》?これが?」

「いや、俺もどういう経緯でそれが空からブクロに落ちてきて巡り巡って俺からお姉さんのとこに行ったのかは把握してないんすけど。でも、それを持つと不思議な力が手に入るっていう都市伝説あるじゃないすか」

「は?不思議な力?アニメじゃあるまいし!」

「つってもさっきお姉さん実際に炎起こしてたじゃないっすか」

「いやあれは私がどうこうしたわけじゃ———」


 その時、三人の眼前に別の追っ手が現れ道を塞いだ。


「はいストーップ!大人しく《竜の目》を———」

「邪魔!」


 神水女史がキッと睨みつけると、そこにまたしても炎が立ち昇った。まるで水道管が破裂してマンホールから勢いよく水柱が噴き出すように。


「は、はあぁっ!?」


 眼前で突然炎が燃え上がったことに完全に委縮した追っ手は蹴飛ばされた犬のようにどこかに走り去る。炎はたちまち地面に吸い込まれるように跡形もなく消えた。地面には焦げ跡一つ残っていない。


「………」


 神水女史は目の前で現実に起きた事象に言葉を失う。

 数秒の間をおいてようやく彼女から漏れ出た一言は、実に彼女らしいものだった。


「ウチ、髪の色青なのになんで炎系なの?」



---続く---

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