第一話 feat.諏訪翔

★八月二日 午後一時十二分


 パシャリ。

 手に持ったスマートフォンが小気味いい音を立てて風景を切り取った。

 池袋駅東口方面・首都高沿いの歩道橋。傍らにシンボリックな清掃工場の白い巨塔が聳え、都内有数のターミナル駅である池袋駅から伸びるいくつかの線路を眼下に見下ろせるこの場所は、少年の密かなお気に入りの場所だった。ここからは、空が広く見える。無数のビルや建物で囲まれた池袋の街の雑踏もそれはそれで趣があるが、少年はやはりこの場所が好きだった。


【昨日と変わらず竜は空を飛んでいます。今日も池袋は平和です】


 高校に入学するまでは買い与えないと言っていた両親をどうにか説き伏せ少々早めに手に入れたスマートフォンは、写真撮影が趣味の少年にはある種の免罪符でもあった。通常のカメラを持って街をうろつくよりも、ポケットから取り出したスマホで写真を撮る方が周囲からは不審に思われにくい。行いの本質はどちらも変わらないはずなのに。

 少年は撮影した写真をSNSに投稿する。ほどなくして、フォロワーたちのリアクションを告げる通知音とバイブレーションがポケットに響いた。写真をネットに投稿するようになってからしばらく経つが、やはりネット上の人々が今池袋で一番注目しているのは《竜》だ。

 それは少年も同じである。

 

 諏訪翔すわかける(仮名、十四歳)。職業中学生。池袋に住むごく普通の少年であり、特技と呼べるものは特にない。強いて言えば趣味で撮影している写真がSNSでたまに反響を呼ぶ(所謂“バズる”というやつだ)ことはあるが、個人情報を明かしていないためそれが諏訪少年によるものだと気づいている人間は彼の身内も含めて誰もいない。

 諏訪翔は凡人である。いつの頃からかそれが彼に対する周囲の評価として定着し、同時に諏訪少年自身もそれを自認していた。

 池袋の空に、《竜》という都市伝説が現れるまでは。


「今日も飛んでるな~、アレ」

「まぁいつものことじゃん」

「《竜の涙》つったっけ。《竜》が落とす宝石みたいなやつ。あれって実在すんの?」

「なに、お前信じてんの?」

「いやまぁ、あればいいな的な?だって売れば百億だろ?」

「らしいな。なんだっけ、ブクロのヤーさんが海外のマフィアに売ったんだっけ?」


 街を歩けば、そんな会話がどこからでも聞こえてくる。《竜》が池袋の空に現れてから約二年。街には《竜》が気まぐれに落とす宝目当ての観光客や移住者で溢れかえっていた。《竜》と《竜の涙》の存在について懐疑的な人々は多いが、少なくとも諏訪少年はどちらも信じている。

 信じているというより、あってほしいという願望にも似た思いだった。

 

 ———みんなそんなに金が欲しいのか?


 《竜の涙》はその希少価値ばかりが取り沙汰されているが、もう一つ噂がある。

 “手にした者に超常的な力が備わる”。

 思春期の子供が授業中に思いついたような荒唐無稽な噂だと言えばそれまでだろう。だが既に荒唐無稽な都市伝説が、今も空を見上げればそこにいる。肯定する根拠はないが、否定する根拠もないはずなのだ。しかし世間の多くの人々は、それよりもはるかに現実的な“結果”として百億の価値に目を眩ませていた。

 他にも《竜》と《竜の涙》に関する都市伝説や道聴塗説は掃いて捨てるほどあるが、概ね世間ではその二つが認識されている。

 そして諏訪少年は、“百億の価値”よりも“荒唐無稽な噂話”の方に関心を持っていた。


 ———腹減ったな。


 諏訪少年の足は自然とサンシャインシティに向いていた。


 普段はサンシャイン60通り(60階通りとも呼ばれている)の東急ハンズ横にある地下道を通ってサンシャインシティに入っていたのだが、なんとなく今日はそのまま60階通りを抜けて地上から行きたい気分だった。

 スペイン階段を経由してサンシャイン広場まで登りきった時、ふと聞き慣れたシャッター音が耳に届いた。


 ———コスプレのイベントでもやってるのかな。あれ。


 見ると、そこには多種多様で奇抜な衣装に身を包んだ一団がおり、その周囲にはカメラやスマートフォンを持った人々が賑わっている。

 それらの集団は独特の空気を放っておりやや浮いてはいたが、この池袋の街ではさして珍しくもない光景だ。この街にはアニメイト本店を中心にアニメや漫画、ゲームなどのサブカルチャーを取り扱った店舗が多く、池袋駅西口には大きな劇場もある。ゆえにこうしたコスプレイヤーの集団が街を歩いていたりしても特段不思議には思わなくなっていた。


「やっべ、アヤちゃんマジ尊い」

「ウチ、奮発してカメラ買い換えた甲斐あったわ」


 集団を横切ったときにそんな会話が聞こえたが、それはそのまま反対の耳から抜けて宙に霧散する。

 諏訪少年もアニメやゲームはよく嗜み、写真撮影も好きだが、彼はどちらかと言えば風景写真が専門だ。コスプレの写真にはあまり興味はなかった。


 ———今日何食おうかな~。


 ゆえにコスプレ集団への興味は早々に失せ、それよりもこの後の昼食のことに思考が向いていた。


***


 諏訪少年の性格は一言で言えば、“夢想家”である。無論それは思春期特有のものであるかもしれないし、彼の生来の気質でもあるのかもしれない。あるいはこの先の人生で彼のその気質が百八十度変わることもあり得るのかもしれない。しかし今現在の彼は紛れもなく“夢想家”であることは覆しようのない事実である。

 彼は人が想像、あるいは創造しうる幻想を信じている。UFO、未確認生物、幽霊から果ては異世界まで。それは未知の存在や世界への憧れでもあり、凡人である自身のコンプレックスの裏返しでもある。

 二年前池袋の空に《竜》が現れたとき、諏訪少年の世界は根底から覆った。今まで空想の向こう側の存在だと思っていた都市伝説が、自分の住む街に現れた。今まで誰にも口にしていなかった、しかしずっと信じ続けてきた幻想の実在が証明されたのだ。

 《竜》という都市伝説は確かに実在し、今なおこの池袋の空を翔けまわっている。ならば、その《竜》が齎すという《竜の涙》だってきっと実在するに違いない。そしてそれによって得られるという不思議な“力”も。

 諏訪少年はそう信じ、世間の大多数の者たちとは別の目的で密かに《竜の涙》を探し求めていた。


***


★同日 午後一時三十八分


「あ、すみません。注文いいですか」


 迷った挙句、諏訪少年はサンシャインシティ・アルパ内のイタリアンの店に腰を落ち着けていた。

 注文した料理を待つまで時間を潰すためにスマートフォンを起動し、SNSを開く。先程投稿した写真には何件かの「いいね」がついていたが、特にそれ以上のリアクションはついていない。そんなものだろう。

 

【ジュンク堂なう。初めて来たけど本多すぎワロタ】

【IWGP(池袋ウエストゲートパーク)来た。昔ドラマで見たときと比べてなんか違う気が】

【いけふくろう前で待ってます】

【《竜》が今こっち見た気が。俺食われるのかな】


 世間ではTwitterやInstagramが一般的に普及しているが、《竜》が現れてすぐの頃に公開されたSNSがこの『complicationコンプリケイション』というアプリだった。機能的にはTwitterやinstagramと大差ないのだが、特徴的なのがタイムラインに池袋に関する情報が絶えず流れている点。どうやら他のSNSで発信されているつぶやきを特定のワードで絞り込んで抽出しこちらのアプリに表示しているらしいのだが、わざわざ検索しなくても街の情報をリアルタイムに取得できるこのアプリを諏訪少年は大いに気に入っている。利用者も上昇傾向にあるらしいが、おそらくそれは池袋というより《竜》に興味を持っている連中が多いからだろう。

 

 ———まぁ、今まで《竜の涙》が見つかった、なんて噂がSNSで流れたことなんてないんだけど。


「ナオト、今日この後どうする?」

「あー、どうすっかな。ラウンドワンは昨日行ったばっかだしな」

「西口に気になる店あるんだけど」

「へー、どんなトコ?面白いの?」

「なんか、買うまでタイトルの分からない本売ってる店があるらしいぜ」


 隣のテーブル席では高校生らしい少年二人が何やら楽しげにこの後の予定を語らっている。

 どうして自分は一人なのだろう。

 別にみんなから嫌われているわけではないと思う。悪いことだってしていない。勉強はまぁ、言うほどできるわけじゃないが悲観するほどひどくもない。人より大きく突出しているものはないが、卑下されるほど大きく劣っているところだってないはずなのに。

 

 ———もし《竜の涙》が手に入れば、友達もできたりするのかな。


 《竜の涙》を手にして得られる不思議な力については、ネットで調べても詳細は要領をえなかった。世界を滅ぼせるとか仰々しく語るものもいれば手に入れた人の身体が《竜》になるとか、七つ集めれば死んだ人も生き返らせられるなんてどこかの漫画で聞いたことがあるような話まで、噂は様々だ。

 

 ———手に入れれば分かる話か。


「お待たせしました、ご注文の品になります」

「あ、どうもです」


 思っていたより早く料理が届けられた。店内は結構な人数の客で賑わっているが、随分手際のいい店だ。

 

「いただきます」


 料理の前で手を合わせ、小さくそう呟く。これでもマナーや礼儀は気を遣っている方だ。『いただきます』と『ごちそうさま』、『ありがとう』と『ごめんなさい』さえきちんと言えれば現代社会は渡り歩いていけるものだと昔誰かが言っていた気がする。

 器用に手でフォークを転がし、ゴルフボール程度の大きさに丸まったスパゲティを口に含む。美味い。

 しばらくそうして黙々と料理に舌鼓を打っていたのだが、楽しい休日のランチは突如終わりを迎えた。


「ちょ、おいナオトやべぇぞ!」

「あ?なにがよ?」

「これ見ろこれ!」


 隣のテーブルで見せつけるように仲良く駄弁っていた高校生二人が何やら色めきだっていた。一人の男子がもう一人に何やらスマホの画面を見せつけている。どうせ同級生が彼女に振られたとかその程度のことだろうと諏訪少年は意にも介していなかったのだが、その次に飛び出した言葉はさしもの少年も無視できないものだった。


「はぁ?“《竜の涙》が見つかった”だ?」

「ッ!?」


 《竜の涙》という単語が耳に届いた瞬間、諏訪少年は思わず開きかけていた口を勢いよく閉じてしまい、カチンという上下の前歯が勢いよくぶつかる音が響く。


 ———いま、なんて?


「おい、どうするよナオト?」

「んな面白そうなもん、首突っ込まないわけにはいかないじゃん?」

「ま、お前ならそう言うわな」

「そうと決まったら善は急げだ、行くぞ!」


 そう言って隣のテーブルに座っていた男子二人は足早に会計を済ませて店を出ていく。彼らが席を立った直後に諏訪少年は『complication』を起動し、街の情報を確認した。


【速報。池袋に《竜の涙》が降ってきた】

【ま?ソースどこよ?】

【↑これ見ろ https://www.×××...】


 諏訪少年はためらうことなくリンクを開き、おそらくは目撃者がスマホの動画で撮影したと思われるやや不鮮明な動画を確認した。

 場所は、おそらく池袋駅南口の南池袋公園付近の路地だった。映像にはいつもと変わらない池袋の青空をバックに《竜》が映っており、ゆったりとした動きで空を漂い大きな翼を羽ばたかせている。

 動画開始から三十秒も経った頃。撮影者の「おい、なんだあれ?」という音声とともに映像がズームされ、焦点が合ったところで確かにそれは映っていた。

 《竜》の身体から落下する、夏の光を反射している“何か”。

 動画はしばらく“何か”が落下する軌跡を追い続けたが、やがてそれは建物に遮られて見えなくなった。直後に撮影者の「やべぇぞ」という慌てふためく音声が流れていたが、その時点で諏訪少年の耳には何も届いていなかった。


 ———間違いない、《竜の涙》だ!!


 実物を見たことは一度もないが、確信めいた予感があった。

 すぐさま先程の男子高校生たちと同じように席を立とうとしたが、その前に片づけるべきものがあった。


「あぁ、もう!」


 残っていたスパゲティを諏訪少年は皿を口に近づけて一気にかき込む。美しくない食べ方だったが、それ以上に出してもらった料理を残すことの方が諏訪少年には許せないことだった。

 まだ満足に咀嚼し飲み込むことができていない状態で諏訪少年は席を立ち、まるで無銭飲食でもするかのような勢いで店内を走った。もちろん会計で停止したが。


「お客様、お会計ですか?」

「ッ、はい!」


 なんとか口の中のスパゲティを処理して返事をし、十秒もかからないうちに会計を済ませて店を飛び出した。そのまま脇目も振らずにアルパ店内を翔ける。途中で何人かの客にぶつかってしまったが、謝りもせずにただただ全力で走った。


 ———あの動画は南口公園近くの映像だった。まだ時間はそう経ってないし、サンシャインからならそう遠くない!


 早くしなければ先に誰かが《竜の涙》を見つけてしまう。それこそ先程の男子高校生たちのような連中に。

 《竜の涙》を手に入れるのは自分だ。自分じゃないといけないんだ。このチャンスを無下にしてたまるものか。


 サンシャインシティを出て、勢いのまま首都高沿いに道を走り抜けて池袋駅前グリーン大通りに曲がろうとした瞬間だった。


「うわぁ!」

「うぉ!?」


 曲がり角で突然こちらに向かってくる小さな人影が見えたが、気付いた時には既にこちらの勢いは殺すことができなかった。正面衝突してきたエネルギーによって自身の加速度は一気にゼロに戻され、その場で尻餅をつく。そしてそれは向こうも同じだった。

 そのとき、諏訪少年は一瞬だけ、目の前に透明なアクリル板のような何かを見た気がした。


「っつう……すみません、急いでたので。だいじょう、ぶ?」


 謝罪と共にゆっくりとその場に起き上がった時、諏訪少年は初めて自身に激突してきたものの正体を視認する。子供だ。野球帽を被った小学生くらいの男の子が目の前で転んでいる。

 いくら《竜の涙》が見つかったとはいえ、自分のせいで怪我をしたかもしれない相手を放っておくことは諏訪少年にはできなかった。だからこそ目の前の少年に手を貸そうとしたのだが。


「うっ、うわああぁ!」

「え?えぇ?」


 男の子はこちらの顔を見るなり飛び上がって走り去ってしまった。


 ———年上相手にぶつかって委縮しちゃったのかな。


 目の前で起きた出来事の意味を計りかねていた時、諏訪少年は見た。足元に転がる不思議な輝きを放つ“何か”を。

 《竜の涙》がそこにあった。



---続く---

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