第32話 貴女が、トゥーリッキ(1)

 此処は第十七児童養護院の応接室。珍しく眉間に皴を寄せているヴェルザは扉をじっと見詰めている。

 二つの古びたソファに挟まれている低いテーブルの上には、お茶菓子を盛りつけた皿や茶器を用意した。手元が狂って悲劇を招いてはいけないので、温かいお茶の用意はハルジに任せた。後は、暖房はあれども、何処かから冷気がやってくるこの部屋でトゥーリッキがやって来るのを待つばかりだ。


「ステルキ准尉」

「はい?どうかされましたか、カウピさん?」


 ソファに座り、落ち着いてお茶を飲んでいたハルジに声をかけられ、ヴェルザは意識を其方に向ける。


「これから冬眠に失敗した熊と素手で戦いに行く勇士のような表情をしていますが、若しや緊張しているのですか?」

「軍の上層部から命令が下されたら、冬山の大熊と戦うことはあるかもしれませんが、流石に素手では……せめて丈夫な剣は欲しいところです。いえ、そうではなくて。ええ、まあ……かなり緊張しております」


 正直なところ、ハルジとのお見合いよりも緊張しているかもしれない。景気づけに酒を少しひっかけてきていたら、などと考えた時、応接室の扉を叩く音が聞こえた。ヴェルザは反射的にびしっと背筋を伸ばし、ハルジも手にしていた茶器を卓上に置いた。


「ステルキさん、カウピさん、トゥーリッキがやって来ましたよ」

「畏まりました。どうぞ、お入りください」


 ファグルルンド院長の柔らかい声に、ヴェルザが硬い声で返す。建付けの悪い扉が気味の悪い音をたてながら開き、院長と共に小柄な女性が入室してくる。


「彼女が、貴方がたが捜していらっしゃったトゥーリッキですよ」


 人参のような明るい髪と少しばかりのソバカスが印象的なトゥーリッキは、院長の背中越しにヴェルザの姿を見つけて、はっとした表情をして、視線を逸らす。


「御初に御目にかかります、トゥーリッキさん。アトリ・ステルキの姉、スヴェルズレイズと申します」

「僕はアトリの友人のブリュンハルズ・カウピと申します。この場に同席することをステルキ准尉に任されています」

「……トゥーリッキです、ヨロシク」

「それでは、どうぞごゆっくりね。ほら、あなたたち、気になるのは分かるけれどお邪魔をしてはいけないわ。彼方でカウピさんから頂いたお菓子を皆で食べましょうね」


 好奇心で室内を覗き込んでくる子供たちを華麗にあしらい、院長は退出していく。残されたトゥーリッキはおどおどとした様子であったが、やがて、ぽつりを呟いた。


「ヴェルザ姉さんと、ハルジ?」

「私はそのように呼ばれていましたね、アトリに」

「僕もアトリや家族にはハルジと呼ばれています」

「アトリの話でよく聞いてる名前だったから、つい……。あたし、二人みたいにお上品に喋れなくて……失礼な言い方したら、ごめんなさい。だから、その、トゥーリッキって呼び捨てにしてほしいんだけど……」


 トゥーリッキを呼び捨てにする対価として、アトリが呼んでいたように二人のことを呼んでくれて良いとヴェルザが言い、ハルジも頷くと、彼女は安堵したのか、ぎこちなく笑ってくれた。


「さあ、此方へどうぞ。御体は冷えていらっしゃいませんか?温かいお茶を……」

「お茶を淹れる係は僕です、ステルキ准尉。トゥーリッキを病院送りにしてはいけません」

「仰る通りで御座います。宜しく御願い致します、カウピさん」


 初対面だからか、ヴェルザとトゥーリッキはお互いにそわそわとしながら待っていると、お茶の良い香りが鼻腔をくすぐってきて、ヴェルザは自分で淹れなくて良かったと息を吐く。ハルジが丁寧に淹れてくれたお茶は美味しく、トゥーリッキの冷えた体を温め、ヴェルザの心も落ち着けてくれた。


「あの……ヴェルザ姉さんはどうして、あたしを捜してくれたの?」


 アトリと養護院の人々以外の人間を信用していないトゥーリッキは、自分のことを他人に話さないでほしいとアトリに言い、彼はそれを承諾してくれた。ヴェルザとハルジはアトリから彼女の名前を聞いたことはなかったと、首を縦に振る。


「半年程前のことです。軍の人事異動で私王都を離れることが決まり、私は自分の荷物とアトリの遺品の整理をしておりました」


 その時に見つけた小箱を対面のトゥーリッキに手渡し、ヴェルザは中を確認するように促す。小箱の中身――金の指輪を目にして、彼女は呆けたようにそれを見詰めた。


「指の内側に彫られているのは、貴女の御名前ですね?それを見て初めて、私は貴女の存在を知りました」


 弟は、アトリはこの指輪をどうしたかったのか。その答えを求めて、ヴェルザはトゥーリッキを捜した。ハルジや、色々な人たちの協力を得て、彼女を見つけられた。彼女が持っているだろう真実がヴェルザが望まない結末を齎したとしても、ヴェルザは後悔はしないと決めている。


「……『アトリからトゥーリッキへ』って彫ってある。うれしい、嬉しいな、本当にあたしと結婚したいって思っててくれたんだ、アトリは」


 肌荒れの目立つ小さな手で指輪を握りしめるトゥーリッキの目に涙が溢れ、彼女は声と体を震わせて泣き出した。


「ヴェルザ姉さん、指輪を見つけてくれて、ありがと。あたしを捜してくれて、ありがと。ハルジも、ありがと。あたし、待ってたんだ、アトリが、結婚を、申し込んでくれる日を……もう、叶わないけど、でもっ!うれしい……っ!」

「……僕はトゥーリッキに感謝して頂くほどのことはしていません。食堂の料理長や、ファグルルンド院長の情報提供がなければ、貴女に辿り着くことは出来ませんでした」

「あの日、偶然カウピさんに御会いできなければ、貴方が私とお見合いをしてくだされなければ、私に係わり続けてくださらなければ、辿り着けなかったことでしょう。ですから、私もカウピさんに感謝を」


 他人を怒らせることには慣れているが、他人に感謝されることには全く慣れていないハルジ。これまでに感じたことの無い居心地の悪さを誤魔化そうとして、わざとらしく咳払いをして、気になっていたことをトゥーリッキに尋ねてみることにした。


「トゥーリッキ、貴女は先程仰っていましたね。アトリに自分のことを他人に話さないで欲しいと。結婚を約束するほどの仲であれば、何れは彼の家族に貴女のことを知らさなければならないと思うのですが……」


 なかなか無遠慮な質問をするものだとヴェルザがぎょっとするが、トゥーリッキは意に介していないようで、袖で乱暴に涙を拭うと、ハルジの疑問に返答をしてくれる。


「あたしはさ、ヴェルザ姉さんやハルジみたいに育ちが良くないし……全然、褒められた人間じゃないから、アトリとの付き合いを絶対に反対されるだろうって思って、さ」


 トゥーリッキの両親は豊かな生活を夢見て、異国から王都にやって来た移民だった。だが、割の良い仕事には就けず、働けども働けども生活は苦しくなるばかりで、やがては幼いトゥーリッキを捨てて、何処かへと逃げていってしまったのだ。


「それからは生きるのに必死で、同じような子供で身を寄せ合って、やっちゃいけないことばっかりしてた。悪い大人に騙されたし、騙したりもした。仲間以外は信じられなかった」


 その日を生き延びるのに精一杯だった日々を送っていた或る日、トゥーリッキは歓楽街の片隅で、悪い大人の男を騙して金を手に入れようとした。面倒を見ていた子供が病気になり、薬代を稼ぎたかったのだ。だが、激昂した男に容赦無く殴る蹴るの暴行を受けていた。口の中に血の味が広がり、鼻血のせいで呼吸がし辛くなり、体中に受ける痛みで意識が遠のいていきそうになった時、突然現れたアトリが男を撃退してくれたのだ。そして、悪いことをするな、と説教をされたトゥーリッキはアトリに手を引かれて、薬局へと連れていかれ、薬を買ってもらって、其処で別れた。

 ――それが、トゥーリッキとアトリの出会いだった。


「アトリが歓楽街に……年頃の青年らしい交友関係を築いているようには見えなかったので……いえ、私が知らなかっただけなのだとは思いますが……驚きました」

「僕も、アトリとは歓楽街に赴いたことはないです。市場や本屋には連れていかれたことはありますが」

「歓楽街には専門学校の知り合いにムリヤリ連れてこられたって、アトリは言ってたよ」

「ああ、成程……然し、お姉さんほど強くないから軍人を諦めて料理人になったと言っていたのに、暴漢を撃退できるということは、アトリは実は強かったのではないですか?」

「あたしもその話を聞いたことあるよ。だからさ、アトリよりも強いヴェルザ姉さんは熊みたいな人なんじゃないかって思ってたんだ」


 実際にヴェルザ姉さんと話をしてみると、ちゃんと言葉が通じる人間だったから安心したよ。と、はっきりと言うトゥーリッキの素直さに、ヴェルザは少しばかり複雑な気持ちになった。

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