第24話 ヴェルザの愉しみは一人酒

 慣れた手つきで酒瓶の蓋を開け、その中身を透明なグラスに注ぐ。ホップの爽やかな香りを吸い込んで、シュワシュワと細かな泡を立てる赤褐色の麦酒をじっくりと見詰めて――ヴェルザはにんまりとする。


「本日は御疲れ様で御座いました、スヴェルズレイズさん」


 グラスを掲げて、麦酒をグビグビと飲み干して、息を深く吐く。ホップの苦味が弱く、麦芽の味をしっかりと感じられるそれは喉越しのキレが良く、飲み易い。空になったグラスに二杯目を注いで、勢い良く飲み干していく。先程まで居た高級料理店でも酒を振る舞われたが、値段が値段であるので気安く追加注文は出来ないし、何より猫を被っていたので、摂取する酒量が圧倒的に物足りなかったのだ。礼服という武装を解除し、化粧という塗装を顔から剥がして、人目を気にしないで飲む酒が美味くて仕方がない。皿の上にこんもりと盛られたつまみにも手を伸ばして、ヴェルザは悦に入る。

 この国の冬空は常に雲に覆われているので、太陽の位置で大凡の時間を計り難い。室内の壁に掛けられている時計の針が今は未だ昼間の区分にあることを知らせていても、部屋の主は一切そのことを気にせずに、あっという間に麦酒の瓶を二本も空にしてしまった。男装の麗人ステルキ准尉に憧れている御婦人方は御存知ないが、ヴェルザはかなりの酒飲みなのだ。

 さて、次はどれにしようか。平時と変わらないヴェルザの目が、掻き机の上に並べられた各種の酒瓶を品定めしていく。


「ああ……そうそう、今日のお見合いなのですが、諸事情により、お食事会に変更されました。上品なお料理は美味しかったですよ~」


 三本目に選んだ酒瓶のコルク栓が抜かれ、ぽん、と軽快な音を立てる。グラスに注がれたのは、深い金色が美しい葡萄酒だ。


「結婚することを拒絶している訳ではないのですが、若しかしたら、結婚の女神さまがスカートを捲り上げて全速力で私から逃げていらっしゃるのかもしれないとか思いたくなるようなことがちょこちょこあるんです。気が付けば、世間でいうところの適齢期を過ぎてしまっているのですが、充実した日々を送れているので、特に焦りが生まれることもなく……然し周囲の他人が口を出してくるので辛い……」


 独身で何が悪いんだ、何も問題はない。何も知らない他人に、ああだこうだの言われる筋合いはない――などと言っていた人間ほど、いざ自分が結婚すると、独身状態を維持している他人に対していらぬ世話を焼き始める現象は何というのだろうか。

 ああ、何て嫌な気分なのだろう。そんな時は葡萄酒を一口味わい、チーズを一切れ食べれば、ヴェルザはにんまり。このくらいの小さな幸せで満足するヴェルザはチョロい。それにしても、果実そのものの香りが豊かで、程好い酸味が心地良い甘口の葡萄酒にはチーズが合う。突然王都に呼び戻されたヴェルザを心配して、手紙と共にロスガルジ名産のラッギさん家のチーズを贈ってくれた以前の上司に感謝するしかない。


「さて、次は此方の葡萄酒に致しましょうか。……そんな目で見ないでくださいよ、お父ちゃん、お母ちゃん。明日も仕事なので、程々にしますから」


 ヴェルザの視線の先、書き机と接している壁には無彩色の写真が二枚飾られている。その内の一枚に向けて、ヴェルザは苦笑してみせた。寄り添って写っているのは、軍服姿の男性と花嫁姿の女性――ヴェルザの両親で、二人は微笑んでいるのに、何やら圧を感じてしまったのだ。

 父親と結婚するまでは、商船の用心棒していたのだという母親のカトラは腕っぷしの強さと、有り余る体力が自慢だった。船で様々な街を訪れていたからか、異国の言葉を幾つも知っていて、母親の昔話を寝物語に聞いていたような記憶がヴェルザにはある。そんな頼もしい母親はヴェルザが基礎学校に入る前に風邪をこじらせてしまい、亡くなった。言葉遣いが少々乱暴で、行動もガサツではあったが、子供たちに目一杯の愛情をかけてくれていたことをヴェルザはよく覚えている。

 妻を亡くして以来、男手一つで二人の子供を育てていた父親のヒルディブランドも、ヴェルザが基礎学校の高等級に進級した頃に亡くなった。軍人だった父親は国境沿いで起こった紛争の鎮圧に向かい、敵の部隊の攻撃を受けて殉職したのだ。両親の他に身寄りの無かったヴェルザたち姉弟は、父親の上官だった養父アースビョルンに引き取られ、今日に至っている。

 三種類目の酒、芳醇な香りを放つ、深い赤色が美しい葡萄酒を注いだグラスを口元に寄せたヴェルザの目が、両親の写真からもう一枚の写真に移される。


「お見合い相手のカウピさんは以前に知り合った御方なのですが……アトリの友人だったのですね。姉ちゃんは驚きましたよ。貴方とは色々な話をしたはずなのに、交友関係については深く語り合いませんでしたからね」


 成人の記念にと、着慣れない礼服を着て、はにかんで写っている青年はヴェルザの実弟アトリ。写真の彼の頭を、ヴェルザは指先で軽く小突いた。


「縁談は纏まりませんでしたが、カウピさんからはアトリの話を聞けて楽しかったです。……アトリ、貴方に心を許せる友人がいたことを知れて、姉ちゃんは物凄く嬉しかったです」


 姉のヴェルザと似た面差しをしているが、きりっとした印象が強い彼女とは違い、アトリはどことなく柔和な印象を受ける。身長も同じくらいの高さだったので、後ろ姿ではよくアトリに間違えられたものだ。特に士官学校時代のヴェルザは短髪で、落ち着いた低い声をしているので、振り返って声を発しても暫く相手に人違いであることを気が付かれないほどだったものだ。よく見て欲しい、細やかではあるが胸に膨らみがあるのだ。それは決して、鍛え上げられた胸筋ではないのだ。

 人当たりは良いが他人に簡単に心を開かないアトリと、人付き合いに難があると自負していたカウピ財務官。不思議な組み合わせの二人は、どういう訳か相性が良かったのかもしれない。

 食事会で交わしたカウピ財務官との会話を思い出しつつ、ヴェルザはアトリの頬を指の腹で優しく撫でる。


「……貴方とは楽しいこと、悲しいこと、他愛の無いこと、どんなことでも話していたと思っていたのに、貴方がいなくなってから気付きましたよ。私は存外、アトリのことを知らなかったのだと。姉弟であろうと、何でもかんでも明け透けに語り合う訳ではない、それが当たり前なのだろうと思いますけれどね。貴方を思い出すと……未だに胸が締め付けられるんですよ」


 母親も父親も、突然失った。当たり前の日常はいつでも突然様子を変える。それを知っていたはずなのに、ヴェルザは想像だにしていなかった――弟までも突然失う日が来るなどと。

 グラスを唇に寄せて傾けるが、いつの間にか飲み干してしまっていたようで、ヴェルザは小さく舌打ちをする。そうして新しい酒瓶――島国から輸入された大麦の蒸留酒の蓋を開けて、グラスに中身を注ぐ。琥珀色の液体が揺らめく様は美しく、穀物の香りが鼻腔をふんわりと擽った。水のように胃に流し込むような飲み方は止めて、じっくりと、ちびちびと味わうことに決める。王都の酒屋で購入した時の値段が頭を過ぎったからだ。

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