第18話 精神的疲労は理性を鈍くさせるエッセンス

 独特の臭気を放つ怪しい軟膏を塗っていた御蔭だろうか、痛めていた足首はすっかり回復した。足首をぐるぐる回しても、歩いても走っても、痛みは全くない。「よく効くらしいから使ってみなさい」と言って軟膏を渡してくれた父親にハルジは深く感謝し、手渡された際に「何ですか、これは?毒薬ではないですよね?」と言ってしまった自分を恥じた。


「……おっと」


 新しい眼鏡が出来上がるまでの間、ハルジは以前まで使用していたものを掛けている。けれども現在の彼の視力に合っているレンズではないので、裸眼よりはマシという程度。うっかりすると机の脚や箪笥の角に足の小指をぶつけたり、距離感が掴めなくて正面から物にぶつかってしまうのだ。今も寸でのところで難は逃れたが、その後にお茶を飲もうとポットに沸かした湯を入れようとして狙いを外し、机の上に湯をぶちまけてしまった。


(早く新しい眼鏡をかけたい……)


 今朝もまた、この国の冬らしいどんよりとした空模様。思い通りに行動できそうできないもどかしさも合わさって、全くもって清々しい気分になれない。身支度を整えたハルジは荷物を手にして、自室の扉を開けて――中途半端に開いた扉に顔をぶつけた。幸いなことに眼鏡は無事だったが、額を強かにぶつけ、更には荷物を足の上に落としてしまった痛みで暫し悶絶した。不意打ちは辛い。

 それからは財務院職員専用の独身寮の玄関の分厚い扉を慎重に開けたので、二の舞は避けられた。だが後ろにいたらしい他の職員に不審な目で見られた。軽く咳払いをして誤魔化して、ハルジは職場へと向かっていく。




 特別会計室の隣にある面談室は重たい空気に包まれている。その中でクラキ室長は現在、とある王子の財務担当をしている若い従者と対面していた。

 従者の主は「婚約をするはずだった女性につぎ込んだ分の代金を王族費で補填しておいてくれ」と主張している。それに対する室長の答えは「国民の血税で賄われている王族費はてめえさまの財布じゃねえよ」を丁寧な言葉で表現したものだったが、半べそをかいている従者は引き下がらない。困った室長は虚空を仰いで逡巡すると、顔の位置を戻して、視線を手元の書類に落とした。


「う~ん?殿下の月々のお小遣いは領地収入で十分に賄えるはずですが~?領民の方々が賢いので、経営能力が欠如している殿下でも何とかして頂けている素敵な領地ですよ~?羨ましい限りです~」

「あの王子に計画性なんてものが存在すると思いますか?あの王子が他人の話に耳を傾けると思いますか?私辞めたいんですけど生活がかかってるというか子供ももうすぐ生まれるので辞めるに辞められないんです、助けてください」

「心中お察し申し上げます。人事部に訴えて、所属を変えてもらってください。尚、殿下の申し出を受けましたら私の首と胴体が永遠にお別れしなくてはならないので、お断り申し上げます。私にも家族がいますのでね、心臓に熊ばりの剛毛を生やさないといけないのですよ~」

「そんなぁ~~~!」

「無理なもんは無理です~」


 そんなやりとりを繰り広げ、駄々っ子のように号泣する従者を漸く追い返した室長が普段よりも格段にげっそりとした表情で職場に戻ってくる。彼は自分の席に着くなり深く項垂れて、深い溜め息を吐いた。

 ――あのやりとりも、もう何度目だろうか。相手は変わるが話題は全然変わらないし、どうせまた三日ほどしたら同じことを言ってくるに違いない。憂鬱だ。やってられない。と、一頻り心中で文句を垂れると、虚ろな目をした室長は顔を上げ、壁に掛けられている時計に目をやった。


「……職員の皆さ~ん、お昼の時間ですよ~!手の空いている人、目途がついた人からささっと食事休憩に入ってくださいね~!」


 一部の真面目が過ぎる職員は一旦集中すると回りが見えなくなる。定期的に室長が声掛けをしないと休憩をとり損ねてしまうので、室長は常にあちこちに気を張り巡らせなければならないので大変だ。

 ――散らかっている机の上をある程度片付けたら、自分も休憩に入ろう。と、室長がのろのろと手を動かしていると、正面から声をかけられたような気配がした。積み重ねた本と書類の山の隙間から顔を覗かせた先にいたのは、カウピ財務官ことハルジだった。


「どうかしましたか、カウピくん?」


 片付けをする手は止めずに室長が声をかけると、ハルジは「職務とは関係の無い事なのですか」と前置きをして、言葉を続けた。


「室長に御相談したいことが。少し、お時間を頂けないでしょうか?」


 仕事にしか興味が無いカウピ財務官、と陰で称されているハルジが珍しいことを言ってきたので。興味を抱いた室長は片眉を跳ね上げた。他人に知られたくない内容かと室長が尋ねれば、「全くもって軽い内容です」とハルジが答えるので、「昼休憩を利用して相談に乗りましょう」と返して、室長は席を立つ。




 場所は変わり、昼時でわいわいがやがやと賑やかな食堂の片隅でハルジと室長は注文した料理がやって来るのを待つ。


「私に相談とは?」

「ステルキ准尉にお会いしたいのですが、どのようにしたら彼女にお会いできるのでしょうか?」


 予想外の相談内容に動揺した室長は口に含んでいた水を噴き出しそうになるが、何とか堪えて飲み込んだ。


「……ごほっ、げふっ、え、えぇ~、ふ、ふむん?以前にステルキ准尉のお見合い相手を募集した際に、カウピくんは応募してこなかったと記憶しておりますが?どうかしましたか?高熱でもありますか?今日はもう家に帰って、後日医師に診察して頂いて、一週間ほど静養してきては?手続きは私がしておきますから、どうぞお大事に」

「いえ、僕は彼女とお見合いをしたいのではありません。そして僕は平熱です。静養も必要ありません。実は……」


 どうして、ステルキ准尉に会いたいなどという突拍子もないことを言い放ったのか。ハルジは淡々と説明し、室長はうんうんと頷いて傾聴する。


「――という事情がありまして、改めて彼女に直接御礼を申し上げたいのです。然し、彼女の居場所が分かりません。王都にいるのだということだけは分かるのですが……」


 ステルキ准尉の知人でも何でもないハルジが軍に問い合わせたとしても、「個人情報ですので」とあしらわれるだろうし、彼女の後見をしているというクヴェルドゥールヴ家の屋敷に向かっても門前払いされるだろう。自力で探そうにも、国内で最も人口が多い王都でたった一人の女性を捜索しようなど、無謀にも程がある。そこで、ハルジは考えた。王宮にも軍にも知人がいるという室長の力を借りられないかと。


「……成程、そういった事情があったのですね。あまりにも突拍子もないことを言うので、遂にカウピくんの頭が仕事のし過ぎで限界を迎えたのかと心配をしてしまいましたよ。いやはや、カウピくんでも仕事関係ではない他人様にお世話になったら御礼を言うという社交性が備わっていたんですね~」

「人間関係で失敗する度に父母に説教を頂いているので、或る程度は学習しております」


 それとなく失礼なことを仰いますね、室長――とは言わない方が良いだろう。喉まで出てきた言葉をどうにか飲み込んだハルジの社交性レベルが1%ほど上昇したような気配がした。


「軍の人事部に知人がおりますので、事情を話せばステルキ准尉と面会する機会を与えてもらえるかもしれません――」


 とまで言ってから、室長は突如頭の中に降ってきた思いつきを口に出した。普段の室長であれば、気の置けない関係の相手でない限りは理性が働いて制止してくれるのだが、どこぞの王子の従者とのやり取りで疲れてしまったのだろう、理性がストライキを起こした。


「――が、それ以外にもステルキ准尉にお会いできる方法があります。カウピくん、是非とも彼女とお見合いをしましょう。確かまだまだ募集をしていたはずなので、早速応募しましょうか!」

「室長、突拍子もない発言です。室長こそ熱があるのでは?」


 ああ、私、面白いことを言っちゃった★と悦に入って、にやりと笑っている上司に向けて、ハルジは冷たい視線と言葉をお見舞いする。1%上がったハルジの社交性のレベルが5%ほど下降した気配がした。


「熱はありませんよ。顔色は年がら年中死人のようですが、物凄く元気です――まあ、それはおいといて。馬鹿らしい方法だと言われるのは承知の上で、カウピくんに申し上げました」


 口に戸を立てられない人々からの情報によると、ステルキ准尉との見合い話に応募してくる男性は皆無なのだという。なので、ハルジが応募をすれば直ぐにでも彼女との面会が叶うのではと考えた。室長はそう主張するが、これは咄嗟に考えた言い訳である。


「成人している独身男性であれば、離婚歴があっても問題は無い……募集要項にはそうありました。カウピくんは見事に該当するので問題は無いですね~」

「とはいえ、そのお見合いは王太子殿下が主導されているのですよね?その辺の馬の骨では相手にされないのではないでしょうか?」

「君は成人している独身男性で、財務院に勤めている役人で、更には王都で有名なカウピ商会会長の子息でもある。選考で撥ねられる確率は非常に低いと思いますよ~」

「……今日一日、じっくりと考えさせてください」


 普段の彼であれば「やはり、その他の方法でお願いします」と言って切り捨てるのだが、この時はどうしてか、頭が回らなかったので、うっかりそう答えてしまっていたハルジだった。


「分かりました。返事は明日伺います。それでは食事にしましょうか、ほら、早く食べましょう、カウピくん!」


 あらら、拒否してこない?おかしいなあ?とは思いつつも、精神的に疲れている室長の意識は話し合いをしている間にやってきていた料理に向けられる。幸せそうな顔で料理に舌鼓を打つ室長につられてハルジも食事に手を出すが、無表情の下でひどく動揺しているようで、いつもは美味にしか感じられない料理の味がよく分からなくなっていた。




 ――翌日。虚ろな目の下にくっきりとした隈を作ったハルジは、仕事を始める前に室長の机の前に立ち、無遠慮に口を開く。


「クラキ室長。昨日のお話を進めて頂いても宜しいでしょうか?」


 あれから明け方になるまで悶々と考え続けたハルジは、室長の思いつきに乗ることを決意した。

 ――あれ?予想外の行動をとってきちゃったんですけど?

 一晩考えれば、あの提案が冗談であることに気が付いて、むすっとした表情で「軍の人事部のお知り合いに取り次いでください」と返してくるだろうと予想していたのだが、そうはならなかった。室長は動揺を隠そうとして、思わずにっこりと微笑むが――額に冷や汗をびっしりとかいている。


「わ、分かりましたぁ~。それでは早速ぅ、王宮に向かいぃ、担当の方に話を通してきますねぇ~」


 どうしよう、面白いことになってしまった。でも今更「冗談で~す★」という勇気も沸いてこない。ならばもう、行動に移すしかない。室長は覚悟を決めて、その場から走り去っていった。


「カウピくん、室長と何を話していたの?室長の声の調子が何だかおかしかったような気がするんだけど……」


 深い溜め息を吐きながら自席に戻ってきたハルジに、隣席のブローミ財務官が胡乱な声で尋ねる。彼女の目には二人の様子が不審に映ったのかもしれない。


「はあ、諸事情により、ステルキ准尉とお見合いをすることにしました……」

「ふ~ん、そうなんだ。頑張ってね~…………え?」


 ハルジは特別大きな声で話をしていた訳ではないのだが、彼の声は職場にいる多くの人間の耳に飛び込んでいったらしい。或る者は顎が外れそうなほど大きく口を開けて唖然とし、或る者は手にしていたペンを落として床に突き刺し、或る者はインク壺を倒して書類と机の上を真っ黒に染めたりと様々な反応が起きている。ハルジはそれらに全く目をくれず、石のように固まっているブローミ財務官にも気付かず、普段の落ち着きを取り戻そうとして仕事を開始した。

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