第10話 香り良く、美味しい一時

 新市街の、とある宿屋の一室。

 ヴェルザは簡素な造りの部屋の窓を大きく開けて、陽光と外の空気を取り込む。備え付けの机と椅子を窓側に寄せて、借りてきた椅子も其処に設置すれば、お茶会の席は出来上がる。


「どうぞ、此方へ」

「突然の訪問ですのにお招き頂きまして、有難う御座います」


 入り口で待機している人物を席に着かせて、ヴェルザは市場で買ってきた焼き菓子やパンを盛りつけた皿、宿の主人が淹れてくれた浅煎りのコーヒーを机の上に並べてから、漸く腰を落ち着ける。

 そうして、二人だけのお茶会が始まった。


義父君ちちうえ義母君ははうえは、いつ頃、帰国されるのでしょうか?貴女は御存知ですか?」


 手にした無地の白いカップに鼻を近づけて、熱々のコーヒーの香りを堪能しながら、ヴェルザは対面にいる人物に語りかける。


「お義姉様が王都こちらに戻っていらっしゃって直ぐに、ヘルギお兄様がお父様方にお手紙を出されたと伺っているから……そうね、今頃お手紙を読んでいて、急いで旅支度をされているのかもしれないわ」


 今時分は暦の上では未だ秋だが、来週には冬に入る。この国の冬は雪に閉ざされる季節だが、始まりの頃はそれほど雪は降り積もらない。余程の事態が発生しない限りは足止めされることもないので、異国の滞在しているクヴェルドゥールヴ夫妻が王都に戻ってくるのは早くて来週末くらいになるのではないかと、可愛らしい服を着た覇王アルネイズが語る。筋骨隆々とした外見にばかり目がいってしまうが、優雅にコーヒーを嗜む仕草はお嬢様然としている。

 ところで、屋敷に引きこもっているはずのアルネイズがどうしてこの場にいるのか。ヴェルザが王都に戻ってきたことで安心した彼女は、引きこもりだけは止めた。然し、社交界などの公の場に顔を出したりすることは、未だ禁止しているそうだ。そうして、凡そ半年振りに屋敷を取り囲む塀から先に出てきたアルネイズは、兄であるヘルギにヴェルザの居場所を尋ねて、この宿屋を訪れた――今日もまたハムセール王子の使者としてやって来たガガル伍長と共に。尚、ガガル伍長はアルネイズを保護者ヴェルザに引き渡すと、颯爽と職場へと戻っていった。


「此方のお宿は雰囲気が良い所ね。私も、此方に滞在したいわ。気心が知れた使用人たちがいても、御屋敷で過ごすのは寂しいの。でも、私がいたら、お義姉様に迷惑をかけてしまうから……こうしてお茶をしに来ることだけは許してくださる?」


 ヴェルザは椅子をアルネイズの対面から斜向かいに移動させて、ぎゅうっと握られて、血管が浮き出ているアルネイズの震える拳に掌をそっと添える。


「ええ、お互いの都合がつく限り、美味しい一時を共に過ごしましょう。近くに市場もありますから、一緒に行って、お菓子なども選びましょうか。それから宿の御主人に道具を借りて……私がコーヒーを淹れますね」

「お義姉さまが淹れてくださるコーヒーは……何かを超越しているのよね。でも、嬉しいわ。有難う、お義姉様、大好きよ」


 ヴェルザが近衛師団に所属したばかりの頃だっただろうか。コーヒーの淹れ方を覚えたというヴェルザが、クヴェルドゥールヴの家族に御馳走してくれたのだが、あまりの苦さと渋さに全員が白目を剥いて気絶した事件を思い出して、アルネイズが野太い声で笑う。


「あれから何年経ったと思っているのですか、アルネイズ?少しは上達しましたよ」


 そう反論するヴェルザだが、美味しいコーヒーが入れられる確率が三割ほどなので、苦笑いしか浮かべられない。因みにヴェルザは料理は出来るのだが、分量を大雑把に量って失敗する確率を上げる類の人物だ。目玉焼きは美しく焼ける。それがヴェルザの数少ない自慢である。


「そうだわ。もう一つ、お兄様から伺ったことがあるのだけれど、お義姉様……強制的に結婚させられることになったのですって?」


 ほのぼのと微笑んでいたアルネイズの表情がすうっと引き締まり、眼光も鋭くなり、凄腕の暗殺者ばりの殺気を撒き散らす。アルネイズの発言に驚いたヴェルザが口にしていたコーヒーを噴き出してしまいそうになるが、何とかそれを阻止することに成功したものの、噎せてしまう。


「っ、ごほっ、こほっ……げふっ……っふぅ、え、えぇ~とですね、結婚させられると申しますか、結婚相手を見つけて頂く羽目になったと申しますか……どういった訳か、そんなことになってしまいましたね……あはは……はぁ~~~」

「お兄様が、王太子殿下は真面だから心配することはない、と仰っていたから安心していたのに……やはり、あのお馬鹿さんの兄弟ね、碌なことをなさらない。お父様とお兄様に謀反を起こされたら良いのだわ」

「こら、アルネイズ。そんなことを仰らないで」


 アルネイズが殺気を籠めた視線を窓の外へと放つ。偶々向いの住宅の窓が開き、家人である青年は妙に可愛らしい服を着た覇王の殺気をもろに受けてしまい、全身をガクガクと震わせるとその場に倒れてしまった。


「う~ん、義兄君あにうえが仰るには、王太子殿下は将来のことを考えて、御自分の株を上げようと企んでいらっしゃったので、私に何の賠償もしないで和解することはどうしても出来なかったのだとか何とか……」


 ヘルギはその場では何も言わなかったが、ヴェルザが先に退室すると、彼と王太子だけが残った執務室から、凄まじい冷気が漂ってきたのを記憶している。暫くしてから扉は開かれ、退室してくるヘルギの向こうに、真っ白に燃え尽きている王太子の姿が見えたような気がしたが、ヴェルザは何も見なかったことにした。


「私を元の職場に戻すようにと、ヒミングレーヴァ王女殿下にも相当な圧力をかけられていらっしゃったのだとも伺いました。国王陛下に訴えても埒が明かないので、打算で動いてくださりそうな王太子殿下を頼られたのかもしれませんね」

「お義姉様、王太子殿下を庇っているようで庇っていないように聞こえるのだけれど、気の所為かしら?」

「うふふ、気の所為では?」


 名門クヴェルドゥールヴ家の息女であるアルネイズは年頃を迎えると、両親に連れられて社交界に顔を出すようになった。その為、王族の方々とも接する機会があり、ヴェルザが仕えていたヒミングレーヴァ王女とも面識がある。ヒミングレーヴァ王女はヴェルザを正当に評価してくれる数少ない人物で、アルネイズは彼女に相当の信頼を寄せている。故に「もっと色々な所に圧力をかけてください、王女殿下」としか感想を抱かない。


「……お義姉様は近衛師団に全く未練がないの?王女殿下をお守りすることに、あれだけ心を砕いていらっしゃったのに……」


 良家の子女としての勉強よりも、弓矢や剣を手にして鍛錬をしている方が好きなアルネイズは社交界に赴くのが好きではない。渋い顔をしながらも両親について社交界に赴くのは、ヴェルザが職務に励んでいる姿を見かけることが出来るから。近衛師団の軍服を纏い、部下を引き連れて、きびきびとした動きでヒミングレーヴァ王女殿下の警護をしているヴェルザが格好良くて、いつまでも見ていたくて。


「姫君は何度も国王陛下に掛け合ってくださいました、私への処分を撤回してほしいと。そのお気持ちは物凄く嬉しかったのですけれど……あの一件ですっかり心が折れてしまいました。私もまだまだですね」


 軍人になることを目指してから我武者羅に走り続けるヴェルザを支えていた緊張の糸がぶっつりと切れて、元に戻らなくなった。意気消沈したヴェルザを励ましてくれる上司や同僚、部下は多くいたけれど、悪意ある少数の人間の言葉の方が弱った心に強く突き刺さり、抜けなくなってしまった。


「いざ左遷されてみれば、嫌なことは勿論ありましたが、ロスガルジでの警邏隊の仕事は充実していて、私には此方の職務が性に合っていたのだなと感じました。ですから、近衛師団への未練はこれっぽちも無いので……明々後日、ヒミングレーヴァ王女殿下に深々と頭を下げてきます」


 クヴェルドゥールヴ家の後ろ盾がなければ入ることが出来なかった士官学校、近衛師団で培った経験を活かして、これからも国を守る軍人の端くれとしてやっていけたら良い。それが、ヴェルザの望みだ。


「私はもう自分の気持ちに整理がつきました。アルネイズも……いつまでも自分を責めないでください。そんな貴女を見ているのは辛い。無邪気で明るく、ちょっと我侭でお転婆な貴女の笑顔が、私は大好きなので……貴女が自然に笑えるようになることを願います」

「……はい、お義姉様」


 アルネイズの固く握られた拳を、ヴェルザの武骨な手が優しく撫でる。アルネイズの心の中で絡まっているもの――不安、恐れ、怒りを解きほぐしていこうとするような、そんな動作だ。アルネイズは拳を解き、ヴェルザの手を両手で包み込むと、得体の知れない圧を放つ、とびきりの笑顔を見せた。

 初めのうちは以前の彼女との差異が凄まじくて混乱してばかりだったが、三日もすれば覇王アルネイズにも慣れるものだ。ヴェルザの心臓はもう吃驚したりはしない。ヴェルザもまた、とびきりの笑顔を見せた。


「話を戻してしまうのだけれど。王女殿下は話せばわかってくださると思うの。でも、結婚相手の件は……どうなさるおつもりなの?手負いの王太子殿下はそう簡単には制圧できないのではなくて?」

「そう、そうなのです。本当にどうしましょう?明日は王太子殿下の使者の方がいらっしゃって、好みの男性について詳しく聞き取りをされることになっているのです」


 ヴェルザの処分を撤回するのにはあれほど時間がかかったというのに、こんなにもどうでも良いことだけ動きが早いのだろうか。ヴェルザもアルネイズも渋い顔をすることしかできない。

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