7.〝龍虎相討つ〟
鉦巻は待っていた。
――本気を出した兄と刃を交わしてみたいという思いを胸に。
彼にとって金とは術理であり技であった。
そんな男が欲するものがあるとしたら、それはもう名誉や愛などではなく純粋な決着だった。
これに勝ったなら、自分は双璧ではなく――本物の一角に成れるという悲願を抱きながら、彼は佇む。
対する兄はいつでも抜刀できるよう、既に柄に手を掛けている。
(こんな時でも、得意の抜き打ちか――)
前に行った、次期師範を決める戦いでもそうだった。
奇策を打たず得意な技でこそ挑んでくる兄の愚直さに、心の中で笑みがこぼれる――あるいは、それこそが彼の辿り着いた剣の境地なのかもしれなかった。
……今にして思えば、手の内こそ見え透いていたが……弦一の戦法は何も間違っていなかったかもしれない――と、考える。
当前だが、津波の如く面で押し切られれば鉦巻とて尻尾を返して逃げるしかない。
加えて忠邦の持つ剣の才も膂力も、弦一の比ではない。
しかし鉦巻の動体視力と反射は、微細な所作の全てを見切り対応してみせる正に神眼。
この局面で突如、投石や銃が用いられたとしても対応してのけるだろう。
詰めに詰めた〝死返シ〟の術理は、勝つのは他ならぬ自分であると鉦巻に告げていた。
――あと、三間。
しかし。
一方の忠邦は……この期に及んで、まだ弟を殺す事が正しいのか迷っていた。
◆
忠邦が行く。
弓弦でも引き絞るように、左で鯉口を強く握り――柄頭の右手を力ませながら走る。
精神を割るが如き悲痛は、その心を二つに割っていた。
――この局面においてさえ、弟を助けられないかとする優しき心。
――この立ち合いで、今度こそ〝死返シ〟を攻略できないかと、昂る心に。
前者は未だに大人としての分別ができない子供の、後者は剣士の業が滲み出ていた。
知識や技術を、盗人にも奪えない財産だと鉦巻に語った事がある。
しかし、結局どれだけ努力して残そうと、積み上げようとしても――零れ落ちていく物は確かにあり、不死も不滅も、無垢も純粋も幻想でしかないのだと痛感していた。
(だが、だが――それでも)
家族に生きていて欲しいと思って、何が悪い。
自分が属する社会がより高みに登って、富んでほしいと思って何が悪いというのだ。
兄として、自分は正しい道を示せたのだろうか。
……否定と疑念まで湧き上がってくる複雑な心を反映するように、忠邦の柄糸が圧力で切断されかねない程に強く握られる。
二つだったものが四つに分かれ――複雑に絡み合う。
剣の高みを追求し、真に『技の鉦巻』として己の究極へ至った弟と対峙するには――彼は余りに迷いが多く弱すぎた。
不甲斐なさ、不明さ――ここ一番という時に、弟の側に居られなかった悲しみ。
恩人を殺されたという怒りより、己の不明と半端さに対する呵責の方が大きい事を自覚しつつ、忠邦はただただ疾走するしかなかった。
差し迫った死を打開する方法より、己に対する底すらない程の怒りが――忠邦の全身を迸り、行き所のない力として満ちつつあった。
優しさから始まった力が――全くの別物へと変質しつつあるのに気付けないまま。
鉦巻もまた同様に、その異変に気付いていなかった。
――古傷が再び血の咲かせようとして開けず、醜い蚯蚓腫れとなって浮かび上がる。
――眼球の毛細血管が破れ、瞳を真紅に染め上げ後方に血涙が流れ始める。
――異様な力による咬合が、上下の臼歯を砕き犬歯が交差する。
――あと、二間。
柄の奥にある茎すら――鉄の鞘まで軋み始める、異常な膂力が刀を包み始めていた。
◆
一間――そして。
「はっ――‼」
抜刀。
刃圏に入った忠邦へ最適解の一閃が奔る。
集中は弦一の時と同様、鉦巻の目前の光景を極端に遅くし――音さえ脳から遮断。
対して、忠邦の手は――未だに柄を握り締めたままだった。
(……駄目、だったのか)
肉親としての優しさを捨てきれなかったのか……ああ、この兄なら十分に有り得た。
それとも〝死返シ〟を前に対策も打てなかったのか……嬉しいような、悲しいような。
……どちらにしても、関係ない。
(もう、終わったんだ――)
抜き打った刀は、もう幾許もない内に忠邦の頸を切り飛ばすだろう。
弦一の時と、同じように。
既に〝死返シ〟を放てる、最低限の血しか残していない死に体だからこそ――死合いの中で、鉦巻は複雑な感情を脳裏に浮かべる事ができた。
もし鉦巻が次元の違いを持つ肉体を持っていたならば……大きな失望と諦観から溜息すら漏らしていただろう。
実力伯仲した忠邦相手でなくとも、一度の交錯で出来る表情は瞬き位であった。
だから、失望させられた相手の姿を……命を賭けたに拘らず、返されたものがこれなのかという失望から、鉦巻の瞼が勝負の最中に一度瞬いたのも無理からぬ事であった。
次に目を開いた時、宙を飛んでいる兄の頸は見たくなかった。
殺してでも真の勝利を得たいという心に反する、容易に得たくなかったという想い。
それが――気付かせなかった。
忠邦ですら、気付いていなかった。
柄に手を掛けた忠邦の右手が――消え失せているという事に。
――閃きが、交錯する。
◆
鉦巻は窮地となった瞬間だけでなく、意図して世界を遅く見る事の出来る力があった。
脳の処理速度の、急激な向上である。
この力があったからこそ毒蛇も毒虫も、鉦巻にとって気軽な遊び相手でしかなかった。
体格差がある大人どころか、殺しに慣れている野盗にさえも易々と先手を取れて――道場でいざ組み合ったとしても、遥かに体格で勝る弦一にさえ負けた事はない。
鉦巻が〝蛇〟として考案した技は、人の脳の処理速度の陥穽を衝いたものであったのだから――これは手に入れて当然の術理であったと言えるだろう。
それ程に、周囲が停滞している世界で、自分だけ早いという光景は彼にとって身近で――あって当然のものであった。
だから気付けない。
伊草鉦巻には分からない。
今考えて、見ているものが既に走馬灯であるという事に――全く思い至れないのだ。
最初の異変は、視界の隅――兄の腰元で瞬く星の輝きだった。
(――星?)
地上ある訳がないものを確認する為に、処理速度が再向上を始める。
――当然、あったのは星ではない。
(て、つ?)
鯉口が割れ、棟近くの鉄鞘が蛹の様に破けた異様な光景。
そして――消えている、中身の刀。
人ならざる膂力によって生み落されし、新たなる秘剣が産声を上げた瞬間であった。
◆
忠邦の全身を支配した力の奔流が、ただ刀を抜く事へと集約されていく。
――刃鳴流において、鉄鞘は術理をより高次に持ち上げる為のものではない。
本来、刀の代用品として腕力と体力に恵まれた田越一族だけが用いていたものだった。
しかし時代の変遷と共に治安や食糧事情、衛生状況が改善され、成人となるのが容易となるにつれて、恵まれた体格や才覚を発揮する者が増え――普通の剣術流派と変わらない形で伝わる事となったのである。
とはいえ最初、鉄の鞘は不便極まりないものとされて生み出す刀工すら選んだ。
しかし更に時代が進み戦国の世よりも人が富み、経済が発展するにつれその問題も解消する。
そして江戸時代――伊草兄弟が生きる、現在。
筋力に恵まれた特異体質ではあったものの、脳の処理速度を自在に操り剣術に並々ならぬ才覚を見せた弟と共に、双璧と呼ばれるには筋力だけでは及ばない。
単純な努力と研鑽を人一倍行う事で肉迫したのが、忠邦という男であったのだ。
そんな彼が熱心に行った鍛錬の一つこそ、刀の抜き打ちである。
言うに及ばずではあるが、人間とは本来、斬られれば一太刀で死ぬものだ。
ならば――骨が腐る程に抜刀を研鑽すれば一つくらいは
道場の全員――弟である鉦巻が眠った後も続けた、地道な鍛錬。
明け方まで、一振りをどうすれば速く、鋭くできるかを考え――繰り出し続ける修行。
数えるという考えも浮かべないまま、彼はこれをただひたすら毎日続けた。
普通であれば思い浮かんだ時点で間違いなく考えを消し、実践にさえ至らないだろう鍛錬法だったが……彼は先の見えない事への挑戦に幼少期から慣れていた。
そして、叶えてきた。
裏方に回るという姿勢を見せつつも『弟よりも強くありたい』という男らしさが――今日に至るまで忠邦の鍛錬を支えてきて――今、無意識の内に結実する事となった。
――これは〝死返シ〟のように考え抜かれた術理ではなく、遣い手に神眼も求めない。
狂気染みた、己に課し続けた習慣が濁流となって溢れ出した剣だった。
堰き止められていた力の決壊。
鉄の鞘に止められていた鋼の刀が、解き放たれる。
――蓄勁。
広くはデコピンと呼ばれる原理で繰り出される力の奔流。
摂理の体現――そんな形容が相応しい、荒々しく猛り狂う波濤の如き一閃であった。
◆
(……なんだよ)
鉦巻の耳朶を音が貫く――それはまるで、雷霆の轟き。
音より早く斬られた後に、鉄と鋼の砕け散る異様な
秘剣――遠雷。
後に、雷を切ったとされる武将の名剣から肖り――名付ける事となる、忠邦の秘剣。
だが……今、この時は。
「ぁ――」
肉親を斬る事になった剣を、誇らしげに掲げる事などできなかった。
「やっぱり強いじゃないか、兄貴――」
負けたというのに鉦巻の口元には……晴れやかで、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
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