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「それでは、マシンの説明に入りますね。」


青の半袖の制服を着た男性の後に続いて席を立つ。小麦色に焼けた肌に白い歯がぽっかりと浮かぶ。笑顔が眩しい。彼の後を追ってトレーニングマシンが並べられたコーナーへと歩いて行く。


「こちらはエアロバイクですね。ここを引っ張って椅子の高さを調節します。腰骨の辺りにシートの高さを持ってくるようにすると良いと思いますよ。」


言われた通りにつまみを引っ張り、高さを調節する。


「良いですね!では、跨ってみてください。」


ペダルに足をかけシートに跨ってみる。ハンドルに手を伸ばすと腰椎の辺りがピンと伸びるのが分かった。


「丁度良さそうですね!次に使う時もこの高さで行ってみてください。それでは次のマシンに行きましょう。」


席に座っていた時は感じなかったが、後ろ姿を見るとこの青年背中がかなり大きいことに気がつく。制服の肩周りはわずかな余裕もなく布が張り付いているし、女子にしては大き過ぎる170cmの私の姿をすっぽりと隠してしまうくらい背も高い。まさしく筋肉隆々である。


「こちらが高木さんお目当てのランニングマシンですね。ここで傾斜をつけることが出来て、こっちでスピードを調節します。試しに歩いてみましょうか。」


恐る恐るベルト部分に足を乗せてみる。急に動き出すようなことは無いが、未知の体験なので体が強ばる。


「では、このボタンでスタートさせてみましょう!」


今の私はチワワの様に震えていることだろう。どう動き出すのか分からないし、動きについていけず転んだりしないかとても不安だ。こんな初期段階で転んだりしたら一生もののトラウマになりそうだ。お兄さんの笑顔が突き刺さる。泣き言を言っても仕方がない。大人なので平然を装いながら赤いボタンに手を伸ばす。ピッという音と同時にゴウンッと低く鈍い音がしてベルト部分が動き出す。うわっと思わず声が出そうになるのを必死にこらえながら

、ベルトの回転スピードに合わせて足を動かす。


「良い感じですね!慣れてきたら高木さんに合ったスピードを見つけてみてくださいね。これで夜も走れますね!」


爽やかな笑顔に釣られてこちらも口角を引き上げる。笑えているかは問わないでほしい。こちらは足を動かすことに必死だ。しかしこれで昼も夜も雨も雪も関係なく走ることが出来るのだと思うと心が軽くなる。というのも、先月からなんとはなしに夜の街を走り始めたのだが、見通しの悪いT地路で車に轢かれかけたのである。普段やり慣れていないことをするからこういう目に遭う。私の住むアパートの通りは桜並木になっていて、その桜に釣られて春だし体でも動かしてみようかと浮き足立ったまま歩を進めたのが運の尽きだった。しかし、せっかく何かを始めてみたいと思った気持ちを無駄にするのは惜しいので、前々から気になっていた近所のスポーツジムに加入することにしたのだ。そう、お目当てはこのランニングマシンだ。ランニングマシンが設置してある場所は桜並木に面している。建物はガラス張りなので、桜を見ながら走ったら気持ち良いだろうなとあの日思い立った私の気持ちを十分に満たすことができそうであった。


「それでは次のマシンに行きましょうか。」


すっかりランニングマシンと打ち解けた私は、名残惜しさすら感じながら相棒に背を向けた。


その後施設内の主要のマシンの説明と軽いトレーニングをして本日は解散となった。


走れればいいやとだけ思って来たので、初めてのマシンを使ったトレーニングに疲れを感じている。今日はぐっすり眠れそうだ。疲れた体を引き摺って女子更衣室内へ入る。視線をちらりと上げると意外にも白髪混じりの女性の姿が多く目に入った。スポーツと聞くと私くらいの20代が多いものだと思っていた。時間帯の問題でもあるのだろうか。時刻は21時。丁度家事が落ち着いて主婦が自由な時間であるといえばそうかもしれない。何だか居場所がないように感じて肩をすぼめながらロッカーへと急ぐ。シャワールームや大浴場もあるとのことだが、今日は止めておこう。私がそばを通り抜ける度にちらちらと視線を感じる。男が入ってきたのかと思った!背が高いね!なんて言葉が聞こえてきそうだ。いや、大丈夫だ。誰も見ていない。勘違いに違いない。自意識過剰過ぎるぞ私。ロッカーまでの道のりが処刑台に続いているような気分だ。人の間を縫うようにして歩き、やっとロッカーに着いた。早く帰ろう。施設内は冷房が聞いていたがトレーニングウェアは汗をしっかり吸収していた。こんなに汗をかいたのは久しぶりだ。高校の部活動以来だろうか。弓道部と言うと運動部の中の文化部などと揶揄されるが、筋トレは毎日欠かさずやらされたし、冬は嫌になる程走らされた。

過去に思いを馳せているうちにまた新しい団体が更衣室から入ってくるのが分かった。赤や黄色など色とりどりのウェアを身につけた女性達。30代から40代くらいだろうか。皆頬が紅色し、和気藹々としていて活気がある。ジムで知り合ってあのように仲良くなるのだろうか。孤独の中でひたむきに筋肉と向き合うというようなイメージだったが案外そうでも無いのかもしれない。


「今日の代理の先生かっこよくなかったー!?」


「思った!超イケメン!!」


「えぇ、私は山田先生の方が好みー。」


「今日の先生は普段ヒップホップ系のエクササイズしてるんだって!私そっちもやろうかなぁ!」


「あんた、そんな時間もうないでしよ!」


なるほど。後から雪崩込んできた女性達はダンススタジオで行われていたエアロビクスダンスに参加していたようだ。一つの困難を共有するとあのような連帯感が生まれるというわけか。ダンスなど小学生の運動会以来の私には到底たどり着けない境地だ。御手洗を借りて今日の活動を終わりにしよう。


さっきまでの喧騒が嘘のようにトイレ内はしんと静まり返っていた。更衣室やトイレなどこういう性をまざまざと感じさせられる場所が苦手だ。お前は女だ。お前は女として生きなくてはならないんだ。と頭から押さえつけられているような気分になる。普段どんなに体の線が出ない服を着ていてもユニセックスに拘っていてもここでは一人の女として扱われる。女では間違いないのだけれど女を押し付けられるのは苦手で、それは男と言われるのも同じことだった。男と女、二つに縛られるのがどうにも嫌で窮屈だった。溜息を吐いて重い腰を上げる。疲れているのもあって一度座りこんでしまったら立てなくなってしまいそうだ。扉を開けると金髪が目に入った。人が待っていたようだ。


「わぁ!あ!そっか、女の人?なんだ、びっくりしたぁ。」


私が悪いような物言いにいらつき首だけで会釈をして出た。洗面台の鏡と向き合う。


「なんかごめんなさいね!洋服しか見えなくて背が高いから!一瞬男の人かと思ったの!ちゃんと女の子だったわね!」


「…さーせん…」


ちらりと目をやり軽く会釈をする。そうです女の子です。自分の顎先に目をやる。学生時代は部活動もあってベリーショートにしていた。男の子みたいと女子から持て囃されるのも何だか悪い気はしなかった。しかし成人をして自分の行く末を思った時に、このままではいけない気がして顎先までのボブにしている。インナーカラーを変えるなどしてかれこれ5年はこの髪型だ。何だ。何がいけないんだ。髪を伸ばしただけでは女にはなれないらしい。目か?一重で釣り気味の目。狐みたいで嫌いだ。ぱっちり二重のクリクリお目目なら良かったのか。いや違う。さっきの金髪女には私の胸辺りしか見えていなかったようだ。胸かぁ…。胸は…確かにないな…。


「帰ろ…。」


外に出ると暖かな空気が体にまとわりつくのが分かった。草木が水分を多く含んで眠りについた頃。体を伸ばして大きく息を吸い込む。生命の匂い。ほのかに甘い香り。さっきまでの疲れが嘘のように足が軽い。街灯に照らされた桜並木の下を歩く。この季節が一番好きだ。厳しかった冬を乗り越えたモノ達の喜びの息吹が聞こえる。疲れたが終わりよければ全てよしだ。今はこの夜桜を独り占めして帰ろう。

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