つめたくとける

りあ

1.

 寒かった。

 特段風はなくて、雪が降っていたわけでもない。

 そんなものは必要なく、当然みたいな顔で、寒かった。


 冬は好きだ。

 ツンツン頬を刺す冷気に、豪雪を伝えるニュース。

 こたつは暖かくて、湯気を吹き飛ばして飲むお茶は今だけの楽しみで。


 変に詩的なことの浮かぶ深夜は、それでも寒さより寂しさのほうがこびりつく。

 歩けば歩くほどどんよりと心は曇り、悪いものでも食べたみたいに胃は不調を訴えてくる。

 ぽつぽつと光の灯る駅前は、ふらりと彷徨う僕なんてお構いなしに時間を進めていく。

 神社の鳥居に刻まれた名前に見覚えはなく、蚊帳の外に追いやられたような、酷く悲しい気持ちがわいてくる。


 今日で終わろうと、最期にしようと。

 ぐちゃぐちゃに澱んだ腹の底から目をそらして、柵の上に腰かけた。

 転落を防ぐはずの柵だって、僕みたいなのに座られちゃあ気分も悪かろう。

 寒さに身じろぎして、ぽんと手を置いた。

 逃げて、逃げて、無視して、喚いて、覚悟もないのにここに来て。

 見下ろした線路にどっしり構えた車両は、未だ目を覚まさない。


 ぐらり、とよろめいた。

 視界に飛び込むアスファルトは、どきんどきんとうるさい心臓に、本気かって聞いてくる。

 いいや、本気なんかじゃない。

 一月の気温に逆らって噴出した汗は、早く帰ろうって叫ぶ。

 きっと痛い。よくわからないけど怖い。身体の震えは寒さのせいだけじゃない。

 いざとなったら結局このザマで、遺書なんて大それたもの書かなきゃよかったって、ぐらぐら気持ちが揺れる。

 後悔してる。たぶん、嫌なんだろう。

 もっと生きたいって、思っているのかもしれない。

 だけど、戻れない。後には引けない。


 イチ、ニの、サンで飛び出したら、全部が終わり。

 僕みたいなのを止めるためにある柵も、これからぶつかるアスファルトも、何も言わない。

 ただ、遠くの車のクラクションと自分の心臓の音しか聞こえない。

 ああ、暗いなぁ。

 ああ、寒いなぁ。

 深呼吸して、目を瞑って、ぐっと力を込めて。

 さよならって、声にもならない音を発したら。


「寒いですね」


 なんて、返ってきたんだった。


 ・・・・・


 死なないで、飛んじゃダメ、早まらないでって、そんなことを言われたとしたら、僕はどうしたんだろうか。

 お前に何がわかるって言い返したかな。

 腕を掴まれないように焦って跳んだかな。


 どれも仮定。ここにあるのは「寒いですね」なんてありきたりな一言だけ。

 なんだか、笑えてくる。

 そんな言葉をかけてくる知らない声の女の人も、思わず振り向いて「そうですね」なんて返した僕も。

 おかしいったらない。

 ほら、足元の跨線橋だって風でギイギイ、苦笑いしている。


 ほぅ、と白い息を吐いた。

 どくどく動いてた心臓も、暑いのか寒いのか分からなくなってしまったような汗も、探しても見つからない次の言葉も、全部止まった。


「落ちないんですか?」


 顔色もよく見えないけれど、黒い髪の女は首を傾げたらしい。

 きっちり上までボタンの止まったコートも、暖かそうな毛糸の手袋も、冬の夜には合ってるんだろうけど。

 どうにも場違いだ。こんな日に、こんな時間に、こんな場所に。


「やっぱり、落ちないことにしました」


「それはよかったです。月並みですが」


 女の声の色は見えない。ホームの蛍光灯は寿命間際で、橋の上の二人を照らすのには少し、力不足。

 ぶぅうん、と唸ったバイクのエンジンが、静寂に水を差した。

 なにか、なにかと言葉を探して、ポケットの中で所在なく手を握っては開いて。


「あの……」


 何も浮かばないままに空気を震わせて、頬をかく。

 グローブ越しじゃあよくわからないけど、きっと僕の頬は赤く熱く、生きているんだろう。


「コーヒー、飲みませんか」


 不器用に、不格好に、思いつくままというより、喉の震えるままに。

 我ながらヘンなヤツだって、今更に思った。


「ええ、喜んで」


 そんなヘンなヤツの誘いに乗るなんて、たぶん彼女もどこかヘンな人なんだろう、なんて。

 ふらふら、彷徨ってきた道を引き返しながら。

 そう、思った。


 ・・・・・


 がたん、がたん。

 こんな時間でも煌々と光る自販機が、二つの熱のかたまりを落とす。

「ありがとうございます」に乗った薄い微笑みは、長い髪に隠れることもなく届いた。


 グローブをとれば、熱い缶が自己主張を始める。

 少し持て余してからプルタブをつねったら、気難し気にぷしゅ、と唸った。


「熱いのはきらいですか?」


 コーヒーに誘ったのは自分なのに、ふと聞いてしまった。

 冬の夜は冷える。

 次第に缶も元気を失くして、僕たちから熱を奪いに来るはずだ。

 だけど、目の前の彼女はぎゅっと自分の手を抱きしめて、手袋を外すわけでもない。


「いいえ。もう十分、熱いんです」


「でも、すぐに冷えますよ」


「それは……困りますね」


 毛糸から出てきた細い指が、僕と同じようにプルタブにかかる。

 何も違わない開け方で、何も違わない缶なのに。

 ぱしゅっ。

 飛び出た唸り声は、僕の時よりも軽快に思えた。


 舌に乗り、まっすぐ胃まで落ちていく。

 ふぅ、ふぅと冷ましながら飲む、ほろ苦いコーヒー。

 名も知らぬ少女と並んで嚥下したそれは、どろどろ気持ち悪いものを溶かして、流していくような。


「温まります。お金、出しますね」


「僕が付き合ってもらいたかったので、いりませんよ。温まったなら、良かったです」


 缶から唇を離した彼女は、ほぅと白い息を吐く。

 暖房を効かせながら、申し訳程度に光る自販機では、黒髪の向こうを覗くことしかできなかった。

 雪は白いのに、冬は白いのに、僕たちは赤く染められる。

 風の当たったところから、誰かに見つめられたところから。

 ふと視線が交差して、覗き込んだ瞳は藍色。

 宙みたいな、海みたいな、ビー玉みたいな、どれも合うようでどれも合わない、藍。


「やっぱり、寒いですね」


 その目を細めて、彼女は言った。

 嚙み締めるように。


 からん、からん。

 二つ、役目を終えた缶が、町に音を残した。


 ・・・・・


 目が覚めたのは、昼を過ぎたころだった。

 第九を奏でる町のチャイムが、起き掛けの頭に響く。

 父も母も弟も、もうとっくに家にはいない。

 さぁあ、と走り去る車が、平日の昼間を伝えていなくなる。


 食卓には朝飯の残りがあって、テレビを点けても面白みのないワイドショーが流れるばかり。

 祖母は洗濯物を干しに行ったのか。

 昼飯を腹につめ、特にすることもなく自室にまた、籠る。


 お天道様はとっくに真上を通り過ぎたのに、一人は冷たかった。

 ばたん、と乱雑に扉を閉めても、誰も咎めない。

 倒れた先の床は冷え切っていて、もうずいぶんとカーテンを開けていないことに気づく。

 手を伸ばせばベッドにあたって、足を延ばせば本棚にあたる。


 起き上がって電気を点けた。

 LEDに変えた部屋の照明は、どれだけ明るく設定しても、鏡の奥の自分だけは暗いまま。

 鏡を隠さずに眠ると、魂を異界に持っていかれるらしい。

 ならば僕は、異界に行って帰ってきたのだろうか。

 一度も布をかけられたことのない鏡面は、少し曇っていた。


「寒いですね」


 呟いて、ベッドに寝転がる。

 手を当てれば拍動が聞こえて、息を止めれば苦しい。

 手の甲をつねれば痛いし、昨日見たアスファルトはまだ怖い。

 そうだ、僕は。

 今日も生きているのか。

 ごろん、と寝返りを打った。


 友達といる時が楽しい、一人でいる時が楽しい。

 安易に二つに分けられても、困る。

 友達といればバカな話をして盛り上がり、一人でいれば読書に耽る。

 別にどちらか片方が好きなわけじゃない。どっちもそれなりに楽しくて、選ぶものじゃない。


 じゃあ、いつからだろう。

 人と話している時に、自分がちゃんと笑っているかなんて、気にするようになったのは。

 一人でいる時に、どうしようもなくなにかを吐き出したいような気持ちになるようになったのは。


「寒いですね」


 もう一度、意味もなく呟いて。

 枕元に無造作に置かれた本を開いた。


 ・・・・・


 夕方、風呂を洗った。

 すぐ近くの公園からは、小さな子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。

 遊具がたくさん撤去され、冷たい風が随分と吹いているだろうに。

 誰だって幼い頃は無敵で、どれだけ肌が赤くなっても走り回れるものなんだろう。

 懐かしく思っても、戻りたいとは思わなかった。


 帰ってきた母とは、特に言葉を交わさなかった。

 弟は漫画を読みに自室に行き、祖母は夕飯の支度を始める。

 手伝うわけでもなく、かといってなにもしないのは手持ち無沙汰で。

 昔よく追いかけていた、新聞の小説コーナーを流し読みした。


 父は滅多に家で食事をしない。

 そもそも、夕飯を食べているかどうかも不明だ。

 ビールを注いだ母の向かいの席で、箸を取った。

 今日何をしていたのか。これからどうするつもりなのか。

 繰り返し繰り返し行われてきた問答が始まる前に、僕は席を立つ。


 食器を食洗器に放り込み、着替えを探す。

 ぶるり、と冷えすぎた脱衣所の空気に震え、大口を開けた洗濯機に手をついた。

 ヒーターは僕と同じく白い息を吐いて、冷たすぎる冬に逆らい始める。

 湯舟が生み出す大量の湯気、すり減った石鹸の香り。

 どうにも、落ち着かない湯浴みの時間だった。


 まだ、ベッドに入るのにはだいぶ早い。

 特に誰かからメッセージが来るわけでもないのにスマホを開き、エアコンの下で眺める。

 ブックマークされたネット小説は、ありきたりな異世界ファンタジーばかり。

 ぽふん、とベッドに倒れこめば、舞った埃が長らく日に当たっていないことを訴えてきた。


 こんないつも通りに嫌気が差したんだったか。

 そんな気がするし、そうでない気もする。

 頭を抱えたくなるほどの自己嫌悪も、耳をふさぎたくなる小言の数々も、こういう日常の先にあった。

 だけど、こういう時間が嫌いなわけではなかったと思う。


 努力も我慢もできない自分だ。

 自嘲を少し。

 うとうと舟をこいでいるうちに、日をまたいでいた。


 ・・・・・


 なんとない予感がして、グローブを手に取った。

 昨日は覚悟を決めて握ったグローブだ。

 昨日は嚙み締めるように着たジャンパーだ。

 でも今日は、気負わない。別に、覚悟することもない。

 ただ、いつも通りに袖を通して、家族の寝静まった廊下を、歩く。


 不思議な高揚感に包まれる瞬間だった、昔から。

 内緒でジュースを買いに行ったとき。

 怒られ拗ねて、隠れて夕飯を食べようと思ったとき。

 そして、自殺を思い至ったとき。

 いつもこの、暗い廊下を歩いた。

 足音を忍ばせて、誰も起こさないように。

 玄関から出てしまえば、そんな高揚感も消える。

 そこにあるのは冷たい一月の空気と、これから向かう場所への道順だけ。


 すっかり車通りがなくなっても、信号は変わらず明滅する。

 律儀に交通規則を守って、駅が見えてきた。

 ロータリーのイチョウの木は、葉を落として風に揺れる。

 古ぼけた跨線橋の階段、終電の後は車庫代わりに使われる線路。

 みんな無機質で、この世界で寒さを感じているのは僕だけのような、そんな気さえした。


 昨日よりは、風がある。

 街灯はきぃきぃ体を揺らすし、改札正面の扉だって時折がたがた音を立てる。

 ともすれば不気味。だけど僕は、特にそれを感じなかった。


 足を動かすのは予感。

 昨日と同じ場所に、昨日と違う気持ちで。

 冬は好きだ。

 春が出会いと別れの季節なら、冬は仲を温め合う季節。

 ならきっと、自販機から出てくるコーヒーの缶みたいに。

 この冬は、僕の手を温めてくれるなにかが見つかるような、気がして。

 跨線橋の上の影に……。


「寒いですね」


 そう、声をかけた。


 ・・・・・


 客観視、という言葉がある。

 自分を客観的に見てみろ、客観的な評価をしろ、と様々な言葉をかけられてきた。

 だが、同時に僕は常々疑問に思っていた。

 誰だって、鏡がなければ自分の姿は見えやしない。

 顔もわからない「自分」なんて名前の他人の、何がわかるって言うんだろう。

 カミサマの視点も持っちゃいないんだ。どうやって見えない自分を評価しろって言うんだ。


 目の前の少女も、そういう言葉にさらされてきたのだろうか。

 もしそうなら、どうやって受け止めてきたのだろうか。

 彼女を知りたい。

 彼女が何を考えているのか、好きなものは、大切な思い出は、どうして生きてこられたのか。

 聞きたいことは山ほどあるのに、口をついて出るのは、気温を気遣う言葉だけ。


「ええ、今日も寒いですね」


 これじゃあ、なにひとつわかりゃしない。

 ただ、彼女も僕と同じく寒さを感じる、人間だということしか。


「今日こそ、飛び降りるんですか?」


「いえ。なんだか、バカバカしくなっちゃって」


「そうですか」の言葉の色は、僕を気遣う暖色で。

 相変わらず見えやしない暗がりの向こうの表情は、ほう、と息をついたように見えた。

 名前も知らない彼女が、名前も知らない僕を心配して、安心する。

 今の世の中を考えれば、酷く滑稽なその構図に、思わず口が開かれる。


「あなたは……どうして僕に声をかけたんですか?」


「さて。気まぐれかもしれませんし、なにか見返りを求めてのことかもしれません」


 僕をからかって、微笑む気配。

 真面目な気持ちで聞いたつもりだったけれど、不思議と不快は覚えない。

 すとん、となにかがはまるように、二人の間ではこれが正しいコミュニケーションなのだと、察せるような。

 会ったのは二度目のことで、自己紹介すらしていない男女。

 なのに、なぜか温まる心の底があって、息をつまらせずに笑い合える。

 少し強い夜風が二人の間を吹き抜けて、ただでさえセンチメンタルな感情の揺らぎに、形を与えてくる。


「コーヒー、飲みますか」


「是非に」


 まったく同じ道をたどって、同じ自販機に手を伸ばしても、昨日と今日に違いを感じる。

 がたん、ぷしゅ。缶のたてた音の響き方だって、変わらないけれど。

 ひとつだけ、まったく違う心持ちを考えれば、おのずとわかる。

 こんな出会いをすれば、誰だって気分は詩人だろう。僕だって、そうだ。

 ああ、きっと。


「ねえ、僕は」


 目の前に立つ、黒髪の少女は、僕の。


「僕は貴女に、恋をしてしまうかもしれない」


 運命の人なんじゃないかって。


 夢遊病に冒されたみたいに、言葉を紡いだ。

 名前も知らない女性に、何のひねりもない……口説き文句とも呼べない一言を。

 九十九パーセント引かれるだろう、気持ちの悪いその言葉に、彼女は。


「奇遇ですね」


 なんて、答えた。

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