バルチック艦隊の敗因

 日本海海戦において日本海軍がロシア帝国のバルチック艦隊を壊滅させたことは、日露戦争でのロシアの敗北を決定づける出来事でした。

 この海戦には地理上の問題および日英同盟が深く関わっていると言われています。


 バルチック艦隊は、日露戦争でロシアの圧倒的優位を確保するために、バルト海から旅順を目指して出港しました(1904年10月)。

 バルト海は、ヨーロッパの北方かつロシア帝国の西方に位置しています。バルチック艦隊の主な戦艦は、そこから北海を通じて大西洋に出て、アフリカを回ってインド洋に出て、南シナ海を経て日本に辿り着くことになります。

 めちゃくちゃ長いです。半年かかりました。

 この長い長い航海で、バルチック艦隊の戦艦も水兵も、疲弊し切ってしまいました。いざ日本軍と戦うという時(1905年5月)、彼らはクタクタのボロボロでした。


 もう少し具体的に見ていきましょう。


 ロシア帝国の中心地は、ヨーロッパに近い西方に位置していたので、軍事的拠点も西側にあり、東方には強力な海軍を配備することができていませんでした。よって強い艦隊は西から持って来なければなりませんでしたが、これにはもちろん海路が必要です。できたてほやほやのシベリア鉄道のようにロシア領内を真横に突っ切ることは、物理的に不可能でした。そして、凍りついた北極海の方を通ることも、当然できませんでした。

 バルチック艦隊は南に大きく迂回して進むことになります。


 さて、ヨーロッパからインド洋に出るには、スエズ運河が便利です。しかし当時のスエズ運河は、イギリスが領有していました。日英同盟(1902年)などがありますから、イギリスは当然、敵国のロシアを通してはくれないでしょう。

 スエズ運河が使えなければ、近道は不可能です。バルチック艦隊はアフリカ大陸南端の希望峰を回らなければなりませんでした。これが非常に長距離で、しかも非常に暑かったので、ロシア兵たちは疲れてしまいました。


 更に、長距離の航行には途中での補給が不可欠です。しかしここでも日英同盟がロシアを阻みます。

 当時のイギリス領の国々はバルチック艦隊の寄港を許しませんでした。

 アフリカ大陸の西海岸は主にフランス領でしたから補給が許されましたが、そこから東に回ってマダガスカル島を出ますと、インドやマレーシアなどのイギリス領が続いてしまい、フランス領インドシナ(現在のベトナムなど)までは補給が一切できませんでした。

 しかも頼みのフランスすら、英仏協商(1904年4月)の影響もあって、ちょっとしかロシアの支援をしてくれませんでした。

 石炭や水や食料が足りなくなり、休むこともできず、バルチック艦隊は非常につらい目に遭いました。死者も相次ぎました。


 かくして瀕死の状態で対馬までやってきたバルチック艦隊は、日本海軍に敗れ去ることになります。

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