39 塞がれた叫び

 宮殿の廊下を歩いていると、あちこちの部屋から色んな音が聞こえてくる。

 白熱した会議の声。水で汚れを流す音。清掃場所の指示。使用人たちの雑談。衛兵たちの点呼……。

 ネルフェットが通りがかった大きな扉の向こうからは、楽団の奏でる楽器に続いて、ベッテのきびきびとした声が聞こえてくる。祝祭が終わるということは、詠唱会に向けた練習に励む時期が来るころ。

 祝祭はバタついてしまったから、今度は平穏無事に終わることを望みつつも、ネルフェットはさらに廊下の先を進む。すると、絹を編む繊細な歌声が廊下を曲がった先の部屋から彼の耳に届く。


 ネルフェットはその歌声に誘われるように足の方向を変える。

 音を立てないように扉を開け、ピアストエ一台だけが置いてある部屋の中を覗き込んだ。

 思った通り、そこではミハウが歌っていた。祝祭で歌えなかった分、詠唱会への意気込みも増していることだろう。ネルフェットはミハウが気づかないのをいいことに、扉を開けて一歩中へと踏み出す。

 扉のすぐ隣の壁に背中を預け、久しぶりにまともに聞いた彼の声を堪能するように瞼を閉じる。幼い頃、彼のように歌いたくて口から血が出るのではないかと思うほど練習したことを思い出す。

 当時のぼやけた幻想に、ネルフェットの口元は思わず笑みを描いた。


「……ネルフェット、無断で鑑賞とは行儀が悪いな」


 歌い終わり、ミハウはネルフェットの方を振り返って仄かに笑う。


「そう言うなって。やっぱりミハウの歌はいいな。この前聞けなかったのが残念だ」

「もう腐るほど聞いてるだろ」

「毎回聞くたびに新鮮なんだから、何度聞こうと腐ることなんてないって」


 ネルフェットはピアストエの上に置いた楽譜を整理するミハウに参ったように肩をすくめる。


「で、何か用か? ただ聞きに来ただけ?」

「用がないと口を聞いちゃいけないのかよ。……まぁ、なくはないんだけど」


 ネルフェットは少し躊躇いながら頭を掻いた。


「そうだと思った。最近お前忙しいから、俺に構ってる暇なんてないだろ。お前の計画の方は順調なのか?」

「ああ。担当者たちと連日会議だよ。それはいいんだけどさ」


 頭に余白ができるとどうしてもトニアとミハウのことを考えてしまうネルフェットは、忙殺されている方がマシだと判断し、好んで予定を詰めていた。

 ミハウは僅かに疲れが見えるネルフェットの顔色を窺い、すぐに楽譜へと目を移す。


「ミハウの方はどうだ? 歌……は、順調そうだけど。えっと……」

「トニア?」


 ネルフェットが言葉をつかえると、ミハウがすかさず助け舟を出す。


「……そう。そうだよ。最近はどう? トニアと……うまくやれてる?」


 ミハウはベールに包まれたようなネルフェットの浮かない声に動きを止め、はぁ、と聞こえないくらい微かな息を吐いた。


「祝祭以来、悪くはない。彼女と話して、俺も少しは心を開こうかと思って」

「それ……ああ……だから、父親のこと……」

「なんだ、聞いたのか」


 ミハウは楽譜から手を離しネルフェットの方を振り返った。彼の合点がいったような清涼感のある表情にネルフェットの心に泡が立つ。


「正直、最初はどう付き合っていいものか分からなかった。でももうトニアの扱いにはだいぶ慣れた。しんどいこともあるけど、彼女といるのも悪くない。だから話してもいいかなと思ったんだ」

「……そっか」

「彼女、純朴で素直だろ。だから同情してくれた。まぁ今更そんなものはいらないけど、ただ」


 ミハウは窓から差し込む光に目を向け、その虚ろな瞳を照らす。


「俺にとっては都合がいい」

「…………は?」


 ネルフェットはどんなに明かりを吸い込もうとも決して光を宿さないミハウの瞳に怪訝な声を出す。その表情は不快を隠すことはなかった。

 ミハウは横目でネルフェットを捉えると、瞼を閉じて口角をいやらしく上げて自分に言い聞かせるように続ける。


「彼女が俺に囚われる限り、俺たちが離れることはない。俺は彼女のこと、解放する気はないから」

「……どういうことだよ」


 低空飛行のミハウの声が床を這ってネルフェットを刺激するように身体を沿って上がってくる。ネルフェットが顔を背けたミハウから目を離さずにいると、痺れる感情が指先まで蝕む。


「暇つぶしにちょうどいい。お気に入りの玩具を、わざわざ手放す必要があるか?」

「なっ……おもちゃ……って……何を言ってるんだよ。トニアは、そんな……そういうつもりで傍にいるわけじゃないんだからな……!? お、お前のことをちゃんと考えて、想って、るんだから」


 ネルフェットは思わぬ言葉に目を丸くして食い入るように言い張った。まるでトニアの心を代弁しているかのようなネルフェットにミハウは決して振り向くことはなく、目の前に置いた楽譜に向かって目を伏せる。


「愛せなくても、運命が選んだ縁だ」

「ミハウはそれで良くても、トニアがいいわけないだろ! 愛されなくてもいいなんて、そんなこと言うと思うのか!?」

「それは俺とトニアの問題だ。ネルフェットには関係ない」

「ミハウ……?」


 断ち切るように言い放つミハウに、ネルフェットの声は震えた。彼が何を言っているのかが分からない。自分が知っている彼は、こんな感情を失った言葉をかける人ではない。しかし不安になったネルフェットがミハウの表情を窺おうと一歩前に出るのと同じタイミングで、ネルフェットを呼ぶ衛兵の凛々しい声が廊下の先から響いてくる。


「……あ……そうだ……」


 今日は担当者たちと一緒に公開候補の建物を視察に行く日だった。ネルフェットは腕時計にちらりと目を落とし、葛藤する思考で足踏みをする。


「早く行けよ。皆待ってるんだろ」

「…………ミハウ……お前……」

「俺たちに構うな。この件に、お前は無関係だ。仕事に集中しろ」

「…………!」


 体温が身体中から引いていく。ネルフェットは真っ白になった頭でもがき、冷え切った部屋の空気をうまく吸えなくなった。その間にも衛兵の声は響き渡る。

 後ろを向いたまま作業に戻るミハウの後頭部を瞳に映し、歯を強く食いしばった後でネルフェットは勢いをつけて踵を返す。乱暴なネルフェットの足音が小さくなり、ミハウはそっと後ろを振り返った。

 誰もいなくなった壁をぼうっと見つめ、ミハウは再び楽譜を手に取る。



 夜を迎えた宮殿で、ようやく練習を終えたベッテは一息つきながら自身の手を覆うグローブを見つめる。骨組みの向こうに見える指を折り曲げてみると、カラカラと音を立ててまるで自分がからくり人形になった気分になった。

 悪夢を見るほど繰り返した音が耳に残り、ベッテは自虐的な笑みを浮かべる。そこへ、衛兵が挨拶する声が聞こえてきた。ここのところ練習に一日を捧げる日が続き、少し瞳が渇いてきたベッテは淡白な眼差しを声がする方向へと向けた。開いた扉の向こうを、衛兵の敬礼に会釈をしながら通り過ぎていくネルフェットが見えた。

 ベッテは風のように去って行った彼の残像を目で追い、こっそりとその後を追いかけてみることにした。一瞬見えた彼の横顔がどうにも後ろ髪を引いたからだ。


 ネルフェットはそのまま最上階のベランダへと向かい、冷たい風に吹かれて星空を見上げ始めた。窓の内側から彼を観察するベッテ。するとネルフェットは誰も見ていないと思っているのか、突如両手で頭を抱えて頭を上下左右に揺さぶりだした。恐らく彼は抑えきれない感情に悶えていて深刻な様子。しかし傍から見ていると、その動きはえらくコミカルで、ベッテは不審を挟むこともなく目を楽しませた。

 ぴたりと彼の動きが止まると、今度は手すりに手をついて空に向かって何かを叫んでいる。幸いにも窓は閉め切られている上にその防音は完璧。彼が何を言ったのかは聞こえなかった。

 叫び終えた彼。今度は手すりを握ったまましゃがみこみ、大きなため息を吐いていることが容易に想像できるほど項垂れる。それからしばらく、その姿勢のまま動かなくなった。

 ベッテは動きがなくなったネルフェットから目を離し、すたすたと来た道を戻る。


 今見たことをネルフェット本人に伝えたら、恐らく恥ずかしさのあまり茹蛸のように顔を真っ赤にして必死で隠ぺいを懇願してくる。そうしたら、その代償にまた作曲の仕事をくれるだろうか。

 誰かに報告するつもりもないベッテは、あり得るはずのない可能性に思いを弾ませる。

 もといた部屋に戻ると、先ほどはいなかったミハウが忘れ物を取りに来たようで、椅子の上に置いたままだったファイルを拾い上げたところに遭遇した。


「ねぇミハウ」


 ベッテはファイルの中身をめくるミハウに声をかける。彼女もまだ片付けの途中だ。ミハウはベッテに目を向けることもなく声だけで返事をした。


「あなた、何を考えているの?」

「…………何が?」


 ミハウはファイルを開いたまま首を傾げる。


「さっき、変なネルフェットを見た。あなたが何か言ったんじゃないの?」

「どうしてそう思うんだ? 理由なんていくらでもあるだろ」

「ないわ。あなたもネルフェットのことをよく知っているでしょう? 彼が取り乱すことなんて滅多にない。なら、理由は一つしか考えられない」


 ベッテはミハウの左手首をじっと見つめた。鷹のような鋭い眼差しに、ミハウはぱたんとファイルを閉じる。


「今、彼の心が乱れるのなんて、それしかないじゃない」

「本当に君は観察力に優れてるんだな。でも、深い意味なんてないよ」

「えぇ?」

「俺は役割を全うしてるだけ。君と同じだろ」

「…………よく分からないけれど、ちゃんとしてよ……? お互い、自分たちのためでしょう?」

「ああ。分かってる。嫌というほどね」


 ミハウはそう言いながらベッテの傍を通り過ぎ、ファイルをひらひらと振って部屋を出て行った。


「……お願いだから、耐えて頂戴……」


 ミハウの落ち着いた口調の名残りに、ベッテは一人、木のグローブに覆われた両手をぎゅっと胸の前で抱きしめるように包み込んだ。

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