37 天まで届く

 ぼんやりとして精気の見えない眼差しにトニアは肩をすぼめて小さくなる。無神経なのは分かっている。だけど今日は、ミハウの話を聞きたい。トニアはぐっと膝に乗せた手のひらに皺を寄せる。


「…………ああ。そうだ」

「……えっ」


 耳を通った返事にトニアは目が覚めたように顔を上げた。


「あの……どうし、て……?」

「父が追放されたのかって? 理由は限られてる。父は情念を向ける方向を間違えた」


 ミハウの目元が少し険しくなり、劣を嫌うように鋭利な光が宿る。


「マニトーアの音楽をソグラツィオだと耳にしないだろ? それは意図的なものだ。排除する人間がいる。俺たちが生まれる前から、少しずつじわじわとカビが侵食するように蔓延っていった暗黙の規制だ。年を追うごとにその目は厳しくなってきてる。当然、マニトーアの音楽を持ち込むことは許されない。上流で止めてしまっているせいで、幸か不幸か、市民の皆がうっかり反してしまう可能性は少ない。それに、万が一でもひっそりとしていれば隠れることもできただろう。でも父は、立場上規則に背く道がある上に、どうしても目立った」


 トニアはごくりと深刻な息をのみ込む。ミハウは平坦な口調のまま話を続けた。


「父は宮廷音楽家の一人だった。ベッテのように楽団を率いて、国王たちとも仲が良かった。立場上マニトーアの音楽をどうにか入手できる父は、仲間たちの要望に応える形でリスクを知りながらも無償で違法レコードを配り始めた。医者の知り合いから廃棄されるレントゲン写真を譲ってもらって、そこに音楽をのせた。皆は泣いて喜んだと聞く。だが、ささやかな彼らの反抗を黙って見過ごしてくれるはずがない。レコードが没収され、捨てられると同時に父も追放された。仲間たちは父を庇ってくれたそうだが、ある日を境にぱったりと彼らは声を消した。牢獄にいるにしてもあまりにも静かだった」

「つ、追放って、宮廷から……ですよね?」

「いいや。国外追放だ。違法レコード作成の罪で、関係者への見せしめとして父は追放された。表向きの報道では病に倒れたとだけ言って。横暴さを白状する必要なんてないからな」


 ミハウの瞳がちらりと窓の外の街の風景を捉える。トニアは彼の寂しそうな眼差しに気づき、胸が変に脈打つのを感じた。ちくちくと痛むのは、マニトーアの音楽に対する嫌悪への恐怖か、ミハウの父に対する同情か。

 トニアは戻ってきたミハウの瞳を見つめることしかできなかった。


「追放された後、父が率いていた合唱団も解散。父がどこへ行ったのかも分からない。どこにも居場所がなくなった俺を、ネルフェットが拾ってくれた。住むところがないなら宮殿に住めばいいなんて言って、俺を宮廷の声楽家として雇ってね。ずっと昔から決めてたんだ、とか、断るならこの先の計画を事細かに百枚のレポートとして提出しろ、なんて言ったりして、俺に新しい居場所をくれた」

「…………そう、だったんですか……」


 彼のネルフェットに対する謝意がひしひしと伝わり、トニアは肩身が狭くなる。ミハウは明言しないが、話の流れからマニトーアの音楽の規制を強めたのはリリオラだ。そんな彼女とともにいるネルフェットに自分が近づくのは綱渡りをするようなものなのだと理解できる。下に張り巡らされた刃の渦に彼を落としかねない。トニアの顔はふつふつと下へと下がっていく。


「あ……お、お母様、は……? 大丈夫だったんですか……?」


 息をするのが苦しくて、トニアは酸素を求めて会話を続ける。


「母とは離婚してから会っていない。ちょうど追放の少し前のことで、母ではなく父を選んだ自分のことを恨んでるんじゃないかって思って。結局のところ、俺は母が愛した父を守ることもできなかったわけだし。父の消息も報告できないし、合わせる顔がないよ」


 ミハウは背中を椅子に預けた。情けないな、と窓の外に顔を向けて、自分を律するように腕を組む。

 彼の話が聞きたかったのに、その内容に圧し潰されてしまいそうなトニアは俯いたまま唇を噛んだ。


「…………わた、し……ネルフェットの傍にいない方が、いいですか……?」


 鍋底から掬い上げられた靄が心を包み込み、彼女は小さな声で呟いた。

 ミハウは彼女の沈んだ頭頂部を見やり、組んでいた腕を解いてテーブルに身を乗り出し彼女に声が聞こえるように近づいた。


「それこそあいつが傷つく」

「……でも……私……」

「ネルフェットの噂、知ってる?」

「……噂……それって……護衛が、いない、こと……?」


 前にピエレットから聞いた眉唾の話を思い出し、トニアはそっと上目遣いでミハウを見上げる。


「そう。君が信じているのかは知らないけど、あの噂は偽りじゃない。実際に、ネルフェットが初等教育を終えた頃から奇妙なことが続いた。成長するにつれてネルフェットは護衛が傍にいることで友だちが遠慮してしまうことに気づいた。だから皆と同じように、一人で友だちに会いに行きたいと望むようになった。国王たちは護衛に遠くから見守るようにと伝えたが、リリオラがそれすら止めさせたんだ。ネルフェットの望むようにさせてあげたいと言って」


 トニアはいつもより近いミハウの真剣な表情に、しっかりと耳を澄ませた。


「一人で出かけられるようになったネルフェットも最初は喜んでいた。けど、まぁ世の中善い人間ばかりじゃないしな。当然狙う奴もいた。でもネルフェットが襲われそうになる度に彼らは致命傷を負った。秘密裏に罰せられて公にはされてこなかったけど、そのうちに噂が広まってね。普通の人間もネルフェットに近寄るのに引け目を感じるようになる。悪意があるわけじゃないけど、容易に近づいてはいけないんじゃないかって。だからネルフェットは、国民に近づきたいのにいつも一線を越えられない。溝を感じてしまってるんだろう。自分は害を与えないことを伝えたくて、周りに必要以上に気を遣う。あいつは愛想もいいし、評判自体も悪くない。でも噂がつきまとって、本当に親しくなれる人間は少ない。特に、”庶民”とされる人たちには」


 ミハウはじーっとトニアの表情を窺い、首を傾げる。


「ネルフェットに敬語、注意されたことある?」

「……は、はい……何度か……」

「それもこの噂の影響の一つ。特に壁を感じるから、敬語は好きじゃないんだってさ」


 トニアの脳裏に注意された時のネルフェットの表情が頭に浮かぶ。確かに、あの時はまだ彼との間に距離があった。けれど、本気で敬語を止めて欲しそうな顔をしていた。

 腑に落ちたような瞳をするトニアにミハウはふと目元を緩ませる。


「折角の友だちだ。脅した俺も悪かった。あの時はああ言ったが、少し大げさだったな」

「い、いいえ……。私が、ミハウさんに実害を与えたから、警戒するのも当然です……」


 トニアは首を横に振り、テーブルに置かれたミハウの左手を見る。ミハウはトニアの視線に気づき、そっと右手で手首を撫でてみせた。


「これがあるうちは、大丈夫だ」

「……え?」

「俺がトニアのことを変なことをしないか見張ってれば問題ないだろ」

「……そっ、そんなぁ……結局、信用ないじゃないですか……」


 トニアは情けない声を出して力なく項垂れる。ミハウが椅子に身体を戻し、萎びていくトニアを横目に停留所で開いた扉の向こうに目を向けた。

 ミハウの話をたくさん聞けたのは良かった。何も知らなかった時よりも、彼がしっかりと地面に足をつけて生きている実感が湧いてくるからだ。浮世離れした雰囲気を纏っていた彼しか見えていなかった時よりも、輪郭の見えた今の彼の姿の方がよっぽどいい。

 少し冷めてしまったコーヒーを飲み込み、トニアは閉まっていく扉を見つめているミハウの横顔を捉える。

 トラムに乗る前までは取扱注意のラベルを彼に貼り付けていたというのに、もうそれは不要となったようだ。

 沈殿して微かに残された甘味が味蕾を刺激し、トニアはふぅ、と水面を揺らす。


「トニア。次で降りても?」

「あ、はい。大丈夫ですよ。……どこか、用事でも?」


 トニアが次の行き先を思い出そうとトラムの前方を見やると、視界の間に入るミハウがそれを遮る。


「祝祭の名誉挽回」

「…………?」

「俺の歌、今日は聞いてくれる?」

「えっ!? い、いいんですかっ?」


 がたっと、威勢よくカップがトレイに置かれた。トニアは思いがけない提案に目を丸くして息を荒くした。


「ああ。ちょうど次の停留所の近くに、いい場所がある。そこに行こう」

「わっ……! 嬉しいです……! ずっと、聞いてみたかったので……!」


 彼女の想定以上の反応に、ミハウは逆に違和感を抱いて邪推するような目をする。


「まぁ聞きたくなかったら、またピスタチオを盛ればいいよ」

「そんなことありません! もう、冗談でもやめてください!」


 しかし彼女は変わらず砕けた声のまま大層嬉しそうに微笑むので、ミハウは懐疑的な考えをやめた。


「ようやく歌が聞けるんですね……!」


 トラムを降りる頃には、朗らかな彼女の興奮が二人を包み込み、いつの間にか雲が陰ってきた空から注ぐ冷気をも寄せ付けなくなる。トニアはゆるんだマフラーのまま目的地まで歩いた。

 ミハウが足を運んだのは小さな劇場だった。近くの劇団がよく公演をしているようで、ミハウとも知り合いだと言う。彼がお願いをするとすぐに扉を開けてくれた。

 百年前に建てられたという劇場は、目を見張るような細工や豪勢な装飾はないものの、こじんまりとしていて肩肘を張ることもなく安穏とした空気が流れていて、トニアはすぐに気に入った。

 ちょうど公演は行っていないとのことで、劇団員は管理の者しかおらず物音もなく静か。トニアは二人だけのために広がる舞台を目の前に、真ん中の席に座り込む。


 ミハウが立つと、狭いはずのその場所が宮殿と遜色のないくらい煌びやかな舞台に思えた。

 伴奏もない彼の独唱が始まると、トニアは彼が息を吸い込んだ瞬間から心を囚われた。目には見えないけれど、空気が微細に震えるのが分かる。その一音一音が、世界に祝福されるように劇場内いっぱいに広がっていき、トニアは自然と目を見開いた。

 照明も彼を照らす一つの明かりしかないというのに、すべてが光に包まれてきらめいている。

 初めて聞く彼の歌声は、透き通っているのに力強く、細胞のすべてに染み渡り、鼓舞され、身体が浮きあがりそうだと錯覚させる。


 彼が歌うのはもちろんソグラツィオの歌。喋るのとは違いまだ聞き取れない部分もある。歌詞の語りがおぼろげでしっかりとは分からない。それでも音階に乗せた声が全身に響くと、感情が意図しないうちに熱情を覚え、この声が止まないようにと願ってしまう。

 トニアはミハウが歌に込めた覚悟に心臓が突き上げられる度に奥の方から感情が溢れてくる。

 彼は音楽の才能に愛され、慈しんだ。しかしその愛した音楽に父親を奪われた。一番の味方であった音楽に裏切られた経験を持つ彼は、今も愛するものを失うことを恐れている。だからといって彼が歌を手放すことはないだろう。それが、彼にとっての唯一の希望でもあるからだ。


 彼の歌が心を持ち上げてくれるのに、ぎりぎりと喉が絞まっていく。

 彼は、父親のようにネルフェットが壊れてしまうのを恐れている。そしてミハウ自身もまた同様に深い傷を残しているはずだ。

 トニアとネルフェットのことを似ていると言った。けれどそれは彼もまた同じ。

 一曲歌い終えたミハウが、すっと美しい呼吸とともに瞼を開ける。


 トニアは自然と立ち上がり、彼に向かって精一杯の拍手を送った。一人分の拍手が客席に響き渡り、ミハウはその音に表情の上に口角で柔らかな曲線を形作る。

 割れんばかりの歓声に引けを取らない彼女の賞嘆はしばらくの間続いた。


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