35 線と線

 国際電話をかけるには、それなりにお金がかかる。トニアは留学前にためたアルバイトでの貯金を主な生活費としているため、十分な余裕があるわけではない。だから家族へ連絡する頻度も多くはなかった。

 けれど今日は自分を許してしまおうと、慣れた番号に電話をかける。

 つい話が膨らんだとしても長時間の電話はできない。貴重な一分一秒が過ぎゆくのを、トニアはどきどきしながら待つ。


『トニア? ちょっと、久しぶりじゃない! どうして全然連絡くれないの? 電話しても、いつも留守だし!』


 呼び出し音が切れるなり、耳にぴったりとくっつけた受話器からははきはきとした声が大音量で響く。


「だ、ダーチャ……? お母さんたちは?」


 電話を受けたのは姉のダーチャ。ジルドと双子の、弁護士として順調なキャリアを積んでいる自慢の姉だった。


『今は出かけてるよ。今日は近所のおばあ様の誕生日パーティーだからね』

「あ。そっか……。あれ? ダーチャは行かないの?」

『私は仕事が溜まってるし、留守番。休暇に実家に帰ってきたんだから、少しくらいのんびりしたくて』

「……矛盾してない?」

『え? そう?』


 おおらかに笑うダーチャが話す母国の言葉に、トニアは胸にジーンと喜びが響くのが分かった。マニトーアの言葉を話したのはいつ振りか分からない。すらすらと口を突いて出てくる言語に、トニアは無意識のうちに頬を緩めていた。


「あんまり無理しないでね。ダーチャ」

『同じ言葉を返すわよ。で、どうかしたの? なんだか声が浮かないけど』


 ぎくり、とトニアは肩を震わせる。顔も見えないというのに、そんなに自分の声は沈んで聞こえるのか。


「うん。ちょっと……最近、慌ただしくて」

『そうなの? トニアのことだから、勉強に熱中しすぎて体調を崩しかねないから……。詰め込みすぎちゃだめよ? あなたはこれまでも一生懸命学んできたんだから。焦りは禁物』

「うん……」


 快活で優しい姉の声に、トニアは溢れ出そうな涙を堪えようとぐっと口内を噛む。


『まぁでも、あれもこれもトニアに要求するのはよくないよね。抱えすぎも良くないから。私に何か手伝えることはある?』

「……えっと」


 電気をつけていない部屋は薄暗く、トニアはぼやけた視界で何度か瞬きをした。模試の結果を伝えるべきだろうか。それに、ミハウのことも。隠し事に疲れてしまったトニアは活気のない葛藤に心が萎びていった。


『トニア。やっぱりあなたは、抱えすぎちゃうみたいね』


 妹のことは何でもお見通しとでも言うように、ダーチャは愛のある笑い声で囁いた。


『何かに熱中するのはいいこと。だけど、あまりにも視野を狭めてしまったら、追い詰められるのは自分でしょう』

「…………うん」


 ぐすっと、聞かれたくない音が受話器を通してダーチャまで届く。ダーチャはまた、くすっと笑った。


『私はあなたの姉なの。あなたが元気を失くしている時に、何も出来ないなんてどういう拷問?』

「ダーチャ……」


 電話越しの姉の声は、二人の物理的な距離をすべて取り払うように思えた。すぐ隣にダーチャがいるような気がして、トニアはその温もりに堪えるのを止めた。


「私……さみしいよ、お姉ちゃん」


 留学してきてから家族に一度も言ったことのない言葉だった。実際にホームシックを感じることはあった。しかしすぐにそれを払拭するような知的好奇心に巡り合い、その連続にトニアは救われた。


「一人って……すごく心細い。皆の賑やかな声が懐かしい。レモンいっぱいの丘の上を駆け上りたいよ」


 ポスターの中にいる兄とも会話はできない。電話をしたって、彼らの顔を見ることもできないのだ。トニアは脳裏に浮かぶ家族や農園の風景を思い返し、胸が絞まった。


『あらあら。トニアが弱音を言うなんて。相当落ち込んでいるみたいね』

「うん。そう。どうしていいか分からないの」

『何があったの?』

「……模試の結果が散々だった。それに……あの……私……」


 ネルフェットやミハウ、リリオラの顔が順に脳を駆け巡り、トニアは口ごもる。何から伝えればいいのだろう。王子に出会ったこと。彼の親しい人間がマニトーアをよく思っていないこと。憧れのおとぎ話との遭遇。どれも複雑に絡み合って素直に言葉が出て来ない。そもそも、紋様のことなんて信じてもらえるのだろうか。


『なぁに? もしかして人間関係? ソグラツィオの人って、嫌味な気難しい人もいそうだものね。あ、それとももしかして……!』


 ダーチャの声が湧き上がるように興奮する。


『好きな人でもできたの?』

「ぅえっ!?」


 流石は弁護士。洞察力に長けている。それとも自分が分かりやすいだけかもしれない。トニアはルーレットで不意に番号を当ててしまったかのようにどぎまぎとする。


「ち、違う違う! え? いや、違わない……? ううん! たぶん、違う!」


 ネルフェットとミハウの顔が交互に浮かび、トニアは誰もいないのに手を大きく振って否定した。確かにネルフェットに惹かれたことはある。けれどそれはもう断ち切ったはずだし。

 トニアは心臓を抑えて呼吸を整えた。

 ミハウのことも好きとか嫌いとかじゃない。ただ彼との関係をどう進めていけばいいのか分からないだけ。


(……そうだよね?)


 彼女はふと自分に問いかける。


「人間関係には悩んでるけど、ダーチャが思うような感じじゃない、よ!」

『えー? そうなの? 残念。まぁでも、悩んでいることは確かなようね』

「うん。えっと……音楽、やってる人なんだけど、ちょっと気難しい、というか、なんか雲のような人でよく分からないの。悪い人じゃないんだろうなって思うんだけど、意地悪なところもあるし、本心が見えないって言うか……。私、き、嫌われてるのかな……?」

『そんなこと言われても、会ったことがないから分からないけど……』

「この前ね、私その人のこと危うく殺してしまいそうになって! アレルギー持ってるって知らなかったんだけど、本当に怖かった……! でも、その人はちゃんと許してくれた。だから私も、怖がってばかりはやめたいなって思うの」


 トニアの懺悔にダーチャは思わず声をあげて笑った。笑い事じゃない。そう強く言いたかったが、トニアは恥ずかしくて何も言えなかった。


『随分と、飽きの来なさそうな日々を送っているようね! あははは。心配して損した』

「損じゃない! し、心配してくれていいんだよ……?」

『はいはい。分かってるって。あー、でも、そうね……』


 ひとしきり笑ったダーチャは、大きく息を吐いて声を整えた。


『とにかく、今は勉強どころじゃないって感じなのね? それじゃ試験に身は入らないわ』

「うん……そうみたい……」


 トニアはダーチャの的確な指摘にしゅん、と肩を落とす。


「私、どうすればいい? このままじゃ、自分を失ってしまいそう。自分がどうしたいのかも分からない。ただ試験の不安ばかりが先行する……。でも、他のことばっかり考えちゃうし……」

『どうもこうも、トニアはずーっと未来を見据えていたでしょう?』

「…………でも」

『自分から足を踏み外そうとしなくてもいいのよ』


 子守歌のように耳障りの良い声にトニアは耳を傾ける。


『自分がこれまで何を見てきたか、考えてきたか、それを思い出せばいいだけ。それで、今のあなたの頭で考えてみなさい。きっと自分が見えてくるから。そうしたら、またその道を進めばいいだけ』

「…………うん」

『でも今のトニアは、それとは他に向き合わなきゃいけないことがあるみたいね。その、音楽をやっているっていう人。ちゃんと、その人の話を聞いてみたことはある?』

「……え?」

『会話って、成り立っているようで実は難しい時もある。自分だけで判断しちゃだめ。目の前にいる人のことを、しっかりと見ていかないと』

「………………はい」


 小さく返事をするトニアには心当たりがあった。

 確かに、ミハウは自分のことをあまり話さない。嫌なのだろうと思って気にしないようにしていたが、それは自分が逃げていただけなのかもしれない。

 本当のところ、彼が言う言葉が怖い。もし、リリオラのような確固たる意志が根付いていたとしたら。

 トニアは右手首の迷路のような線を視線で辿る。

 伝承に憧れているだけでは何も解決しない。この紋様はもう自分たちのものなのだから。時間に身を任せて、頼ってばかりいては進展しない。それでは互いに悶々と苦しみ続けるだけ。


『ねぇトニア。一人で頑張っているあなたのこと、私はいつだって応援してる。本当はすぐにでも飛んでいきたいけど、それが出来ない。私もすごくもどかしくて、さみしい。あなたに会いたくてたまらないから』

「ダーチャ……」

『これはね、我儘な姉の戯言だって思って欲しいんだけど……私、あなたの夢が大好きなの』

「……夢?」

『そう。家族で出かけた時、街に出るなりトニアは皆の手を引いて夢中で教えてくれたでしょ? この劇場には、街の人の夢が詰まってるんだよって。私、その時のトニアの笑顔が忘れられなくて』


 当時を懐かしみ、ダーチャはふふふ、と優しく笑う。


『あんな風に街の皆に愛される劇場を絶対作るんだって意気込んでた。トニア、劇場をつくることが夢でしょう? まだまだ、先は長いはずでしょ』


 彼女の言葉にトニアはそっと顔を上げる。


『一歩ずつ、あなたは前に進んでいるから大丈夫。自分を信じて』

「……ダーチャ。…………うん……ありがとう……!」


 トニアの声は最初とは違って弾んで聞こえた。ダーチャにはそれが伝わり、自身を慰めるように胸を撫で下ろす。遠く離れた妹が抱える辛さを身をもって知ることはできない。だから少しでも彼女が元気を取り戻せたのであれば、それだけでも胸はいっぱいになる。


「私、勝手に考えすぎていたのかもしれない。もう少し、遠慮しない人になろうって思う」

『ふふふ。やりすぎはだめだからね』

「分かってる! でも、そうしないと駄目な時だって、あるよね?」


 トニアは覚悟を決めたような眼差しで、窓から差し込む月の光に掲げた紋様を見上げる。

 ミハウに言われたネルフェットへの懸念。彼が何を恐れているのか分からなければ対処の仕様がない。それこそピスタチオのように、自らの蒔いた種が知らぬ間に劇薬となってしまう可能性だってある。

 ならば今、自分がやるべきことは見えている。

 受話器を耳に当てたまま、トニアはカレンダーに目を向けた。

 そこに貼られたメモには、ミハウに貰った連絡先が書かれている。彼が電話口で言う番号を慌てて書き取ったものだ。トニアは手を伸ばし、流れるような字で記された番号をまじまじと目で追った。

 この電話を切った瞬間を最後に、落ち込むのは一度やめてしまおう。そしてもう一度、駒を振り直してみよう。




 ミハウに電話をしたのは、ダーチャとの通話を終えてすぐだった。また迷いが生まれてしまう前に、トニアは無心で彼の番号をなぞる。

 彼を待つ音が二十秒。無機質な喧騒のあとに聞こえてきた彼の声は、晴れた日の雪原のごとく静かだった。


「ミハウさん。すみません、電話、して」


 振動板が彼の声を紡ぐと、トニアは突如として声を失う。勢いに任せて話すことを考えていなかった。しかももう夜だ。彼が何をしているのかなんて、少しくらいも頭にはなかった。


『いい。ちょうど帰ったところだ』

「今日も仕事ですか? お疲れ様です」


 トニアは交換機で隠されたミハウの姿を想像する。仕事を終えたばかりの彼はコートを脱いでいるのだろうか。帰るなり電話の鳴る音に迎えられたのか、それとも一息ついた後だったのか。ソファに座って寛いでいるところか、帰ってきて何もできずに電話に足止めされてしまったのか。

 そんなことを考えていると、トニアの凝った頭は徐々に緩和されていった。


「ごめんなさい。疲れてますよね? あの、大したことではないんですが……ちょっと、ご相談がありまして」

『相談? 何? 俺そういうの得意じゃないけど』


 今の返答は彼の顔が容易に想像できた。きっと億劫さを抑えることもなく眉を大きく顰めて苦い顔をしているに違いない。


「そう言わないでください」

『はぁ……。で、どんな相談?』


 大きな息が受話器からも溢れてきそうだった。トニアは正直な彼の反応に思わず口角が持ち上がる。


「ソグラツィオに来て、新しい挑戦をしてみたり、マニトーアにはなかったものを見てみたり、いろいろと出来ることをしてきたんですけど……一つ、まだ体験してないことがあるんです」

『……? 体験?』

「はい。ミハウさん知ってます? ヴィンテージなトラムに乗って、コーヒーを飲むことができるって」

『…………ああ、カフェトラムのこと?』

「はい! それです。私、それにまだ乗ったことがないんですよ」

『…………うん』

「それで……あの……もし、ミハウさんがよければ、なんですけど……一緒に乗ってくれませんか?」

『……は?』


 彼との電話は間が多い。


『…………なんで?』


 今回は特に想定外の提案だったのだろう。彼の声は漂白したように不純物がない。


「カフェって、誰かとお話ししながらいると、より楽しい気がするんです。しかも移動するカフェでしょう? 行ったことがないし、ちょっと、心細いなぁって」

『ピエレットを誘えばいいだろう』

「彼女、私たちの紋様の研究で忙しいみたいで……邪魔したくないっていうか……」

『俺はいいの?』

「……だ、だって……」


 トニアは一度息をのみ込む。


「私たち、運命で繋がっているじゃないですか。遠慮なんて、し、したく、ない……です……」


 言葉を取りこぼすことなく、トニアは言いたいことを言い切った。

 力を込めた声とは裏腹に、彼女の表情は不安をいっぱいにまぶして指先は僅かに震える。

 案の定返答までに時間のかかるミハウの余白に、トニアは達成感とともに胸が張りつめた。


『……はぁ……まぁ、分かった』

「ほ、本当ですか?」

『ああ』

「本当に本当? いいんですか?」

『そんなに疑うな。気が変わりそうだ』

「あっ。それは嫌です……!」


 彼が承諾してくれることをそこまで期待していなかったトニアは、ふるふると首を横に振って彼の気を留める。


「ありがとうございます。カフェトラム、ずっと乗りたかったので嬉しいです」

『建物以外にも興味あるんだ?』

「あ、あります……!」

『そっか……。あ、そうだ。そういえばこの前の模試、もう結果分かった? 君がこの国にいる一番の目的だろ?』


 やはり、自然と話題はそちらに向かう。

 トニアは前のめりに建物見学に乗り込み、ミハウに毒を盛ることになった経緯の後ろめたさから目が泳ぐ。


「あ、えっと……それは……その……」


 語ることを拒むさまは、トニアが望まなくとも彼に結果が伝わってしまう。ミハウの小さなため息が聞こえた気がした。


『……君の気晴らしを言い訳に、カフェに付き添うよ』


 同情にも呆れにも聞こえる愛想のない声で、ミハウは彼女の現状に労わりを挟んだ。

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