28 嗜み研究

 祝祭に招待されてからというもの、トニアはまともな服を持ってきていないことに気づき慌ててピエレットに助けを求めた。彼女の方が身長は少し高いが、サイズが合わないことはないはず。

 僅かな望みを託して泣きついてみたところ、彼女は快く服を貸してくれた。派手でもなく、地味すぎでもない、ちょうどいい塩梅のデザインのワンピースを借りることができたトニアは、自室の鏡の前に立ってまじまじと自分の姿を見る。


 彼女の頭によぎったのは、ミハウのすました顔だった。彼の言った恥をかきたくないという言葉は本心だろう。この服装で音楽堂に訪ねることは果たして相応しいのか。

 正式な催し物などに参加をした経験のないトニアは急に不安に襲われる。

 礼装、礼服なんて、まったくの他人事だと思って生きてきた。砕けた雰囲気の中で過ごしてきたこれまでの恵まれた日々を思い、トニアは憂慮の息を吐く。


 自分よりは場慣れしているピエレットが持っているものであれば問題ないだろうか。そう強く思いたかったが、あいにく彼女はそういった場には姿を現さないらしい。

 そんなことよりも、研究について時間を消費していたいのだろうとトニアは推測した。


「……不安だなぁ」


 一人きりでぐるぐると思案し続けるのには限界が来る。トニアは着替えを済ませベッドの上に座り込む。


(ネルフェットなら、なにか教えてくれるかな……?)


 比べ物にならないほどの場数を踏んでいる、彼のメディアで見てきた姿を思い出し、トニアは羽が落ちてきたように斜め上を見る。

 ミハウを紹介してくれた後、ネルフェットとはまともに話せていない。トニアが声をかけると、ほんの僅かな挨拶を交わしただけですぐにどこかへ行ってしまうからだ。

 きっと、祝祭の準備などで忙しいのだろう。

 サイドテーブルに置いてある目覚まし時計をセットして、もぞもぞと毛布の中へと入る。


 もし彼に会えたら、助言をもらおう。

 彼と話すきっかけを見つけただけで、不安に駆られていた心は安心したのか、トニアの思考はすぐに睡魔に支配されていった。

 翌朝はぐっすり寝られたおかげか寝ざめが良かった。思ったよりも早く起きれたので、トニアはカレンダーに目を向ける。今日の日付のところには、果物のシールが貼ってある。


「あ! そうか……今日は」


 トニアはあまりのんびりとはせずに支度を終え、少し息を弾ませながら朝市へと向かう。

 今日は月に一度だけ出店をしているお店が朝市にいるはずだ。パンにつける新しいジャムが欲しくて、トニアは意気揚々と腕を振る。

 記録通り、お目当ての店を見つけたトニアは、丁寧に陳列された瓶を恍惚の表情で見つめる。


 マニトーアからソグラツィオに来て、初めてここのジャムを食べた時の幸福感が病みつきになり、トニアは出店がある時は必ず買いに来ようと決めていた。

 どれにしようかと歓喜の迷いに浸っているところで誰かの足音が隣で止まる。トニアが顔を上げると、それはミハウだった。今日もまたミハウと鉢合わせだ。


 トニアも市場で買い物をする機会はある。その頻度と比較してみても、彼はよく買い物に出ている。トニアが意味もなく関心の眼差しを向けると、ミハウは首を傾げた。

 いつもそんなに何を買っているのかと尋ねてみたが、彼は備蓄買いは好きじゃないとだけ言って彼女の問いを受け流した。

 トニアがジャムを勧めると、案外あっさりと一つ買ってみてくれたことが今日の彼に対する発見となった。

 買い物を終え、そのまま学院へと向かったトニアは、ミハウがジャムを選んでいた横顔を思い出して不意に眉をしかめる。


 彼は素直なだけなのだろうか。それにしても、もう少しオブラートに包むということを覚えた方が良さそうだ。

 そんな余計な心配をしながら、彼女は脳内を勉学モードへと切り替える。

 講義を受けている途中、雨が降りそうな空にハラハラとしながら窓の外にちらりと意識を向けた。

 すると眼下を歩く人影に、トニアの頭は冴えていく。

 ネルフェットだ。今日、彼は学院へ来ているようだ。

 トニアはさっそく彼に正装についての相談をしようと心に決め、やることリストに付け加える。



 すべての講義が終わるまでトニアはネルフェットに会うことはできなかった。講義をぎっしりと詰めたのは自分のせいではあるものの、彼がもう帰ってしまったかもしれないと、トニアは一抹の不安を覚える。

 案の定学院内を探してみても彼の姿はどこにもない。護衛もいないものだから目印すらない。


「……あ」


 構内を探し回ったところでトニアはふと足を止める。そういえば、まだ見ていないところがあった。

 分厚い雲に覆われた空を見上げ、トニアは雨が降る前にと帰りを急ぐ学生たちとは反対に突き進み、細い階段を下る。

 空っぽの屋敷が曇天を背負っていると、いっそう不気味に見えてしまうのは避けようがないことだった。しかしそんなことはお構いなく、トニアが探していた彼の姿が聞こえてくる。

 トニアは遠慮がちに扉を開け、音の広がる部屋を目指して屋敷の中へと入っていった。

 ちょうどピアノを弾いていた彼の音が止まり、一曲演奏が終わったところだった。トニアは無心で鍵盤を見つめているネルフェットの横顔に声をかける。


「ネルフェット、ごめん、お邪魔します」


 思いがけないトニアの登場に、ネルフェットは鍵盤に置いたままの指で猫が無造作に鍵盤を踏むような濁った音を出す。


「トニア? どうしたんだ?」


 ネルフェットの秘密基地に勝手に入ってきたことが後ろめたかったトニア。しかし彼は純粋にびっくりしただけのようだった。丸い目を向けて、明らかに面を食らった声は上の空だ。


「あ、あのね。ちょっと相談があって」

「相談?」


 ネルフェットの眉が過敏に上がる。


「うん。今度、祝祭があるでしょう? ミハウさんが招待状くれて、私も行こうと思うんだけど」

「あ、ああ。祝祭か……」


 ネルフェットはどこかほっとしたように胸を撫で下ろす。トニアはその反応に首を傾げながらも話を続けた。


「それでね、着ていく服が……あ、ピエレットに貸してもらったんだけど、その、大丈夫なのかなって」

「大丈夫って、何が?」


 トニアが疑問に思っている事柄について、ネルフェットはピンとも来ないようできょとんとしている。


「祝祭って、フォーマルな場でしょう? あんまり場違いな服を着て、変に目立ちたくはないなって」

「………………………あ。ああ! なるほど!」


 しばらくの間を開けて、彼はようやくトニアの意図することが分かったようだ。難解な謎解きにひらめいたかのようにネルフェットの表情がすっきりと明るくなる。


「どんな服? そこまでかっちりしてなくても大丈夫だよ。規模も小さいしね」


 ミハウと同じことを言う。

 トニアは困ったように眉を下げ、弱弱しく頷く。


「ネルフェットは、やっぱり慣れてるもんね。私、全然分からなくて……」

「……そういうもの?」


 ぽかんとしたままのネルフェットの表情を見て、トニアは自分の悩みがどんなにちっぽけなのだろうと心細くなる。確かに彼らにとっては日常のこと。けれど彼女にとっては大事なのだ。

 ネルフェットは浮かない顔をしたままのトニアの様子を窺い、パタンとピアノの蓋を閉じる。


「じゃあ、見に行こうか」

「え?」


 すっと立ち上がったネルフェットは、そのまま上着に手を通す。


「買うことはできないけど、こんな感じってのなら分かる。実際に見た方が早いし」


 てきぱきと支度を進めるネルフェットは、すぐに片づけを終えてトニアの目の前にやってくる。


「ん?」


 想定していなかった展開に、トニアはネルフェットの顔を見上げたまま呆気にとられた表情をしていた。ネルフェットは彼女のそんな隙だらけの顔を見て、目をぱちぱちとさせる。自分は変なことを言っているのだろうか。王子の癖に、買うこともできないとか、ちょっとケチなことを言ってしまっただろうか。

 ネルフェットの中で不安が渦巻いてくる。


 いや、でも誰かに個人的に物を買い与えることは節操がなくなるからダメだと言われていることだ。

 それくらい、彼女であれば想像がつきそうだ。ならば何故彼女はこんなにもフリーズしているのだろう。

 もしや自分と街を歩くのが嫌なのだろうか。そうだ。彼女には今、ミハウという運命の相手がいるのだった。


(うわ……もしかして俺、空気読めてない……?)


 手に汗が滲むのが分かる。

 ネルフェットは上辺では冷静な表情を張り付けたまま、扉の前から動かない彼女の次なる言葉に緊張を覚える。


「ありがとうネルフェット! 確かにそうだね! ふふっ。良かった。助かった……!」


 意に反してぱぁっと晴れた彼女の表情に、ネルフェットは吐き出すはずの息を戻した。

 トニアはキラキラと瞳を輝かせてネルフェットのことを英雄のように見つめてくる。


「もう……不安で不安で……!」

「そ、そうか。あんまり気を張るなよ」

「うん……っ!」


 トニアの笑顔に照らされ、ネルフェットは乱れ始めた脈を元に戻そうと試みながら屋敷を出た。斜め後ろについてくる彼女の懸命な息遣いに、彼の心はじんわりと鈍色が侵食する。

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