6 優秀な友だち

 情けない沈黙を嘲笑うように、トニアの頬を冷たい風が撫でる。

 マニトーアの温かいのんびりとした風とは違う感触に、トニアはそっと指で跡をなぞった。

 ちらりと隣を見れば、細く筋の通った鼻がどこか遠くの方を向いている。

 ネルフェットもまた上の空のようだ。トニアは彼を一目見た後で目を伏せた。


「あの……」


 視線の先に、色鮮やかな小さな綿の塊が飛び跳ねているのが見え、トニアは消え入るような声を出す。


「なんだ?」


 不機嫌ではないものの、柔らかくもない声が答える。


「鳥……飼っているの?」

「は?」


 並んで座っているネルフェットの靴先を指差し、トニアは控えめに彼の顔を見上げた。


「……いや、飼ってはいないけど」


 ネルフェットは足元に跳ねまわっている小鳥を見下ろす。ネルフェットと目が合うと、小鳥が嬉しそうにジャンプしたように見えた。


「餌、たまにあげてるからねだってるだけだ」

「そうなの? ふふ、懐かれてるんだ」


 珍しく普通の会話を返してくれたので、トニアの心の中で沈みかけた船は体勢を立て直した。

 ネルフェットは両手をベンチの背もたれに乗せたまま、組んでいた足を崩す。


「ほら、今日のご飯は終わりだから、あっちで遊んでなさい」


 足元の小鳥を諭すように、ネルフェットは真剣な表情で語りかける。小鳥は当然意味が通じていないようで、笛のような鳴き声を出しただけだった。


「まったく……小さいから、踏んだらどうするんだ」


 離れていく気配のない小鳥を呆れたような目で見ると、はぁ、とため息をついて伸ばしていた背中を背もたれに預けた。


「……ネルフェット」


 先ほどまで彼が纏っていた強固な鎧が薄れたような気がして、トニアは再び声をかけてみる。


「なんだ?」


 するとネルフェットはまた同じように返事をしてきた。ただの相槌なのに、トニアにとってはとんでもない進歩のように感じた。彼とまともに何かを話すのは恐らく初めてだ。

 宮殿を一通り見学した後、ピエレットが研究所の仲間に呼ばれて席を外している今、二人は離宮の前で彼女のことを待っているところだった。


「どうして、護衛をつけないの?」


 ネルフェットの瞳が一瞬こちらを向いたので、トニアはほんの少し胸を張って彼の無言の圧力に負けないように構えた。


「どうしても何も……必要ないし」

「でも、ネルフェットは、王子、でしょう?」

「そうだけど。俺ももう大人だし、一人になりたいこともあるから。それに学院に屈強な怖い顔をした人間が常に睨みを利かせていたら、皆、あんまり良い気分じゃないだろ? 幸い、護衛なしの外出も許可してもらえたし、その方が気楽だ」


 淡々と話すネルフェットの言葉に、トニアはしっかりと理解しようと集中して耳を傾けていた。何て言ったの、なんて、聞きなおすことだけはしたくなかった。ネルフェットの機嫌を損ねるかもしれない。ただでさえトニアにとっては厄介な存在なのに。

 トニアは宮殿の敷地内で何人も見た衛兵や警備員、ボディーガードのことを思い返す。確かに、学院の朗らかな雰囲気にはそぐわないかもしれない。


「怖くないの?」

「どうして?」


 ピクリと、ネルフェットの眉が動いた。


「王子に危害を加えようとする人だって、絶対にいるでしょう?」

「……そうかもな」


 ほんの僅かな間を開けてネルフェットは冴えない声でトニアの意見に同意すると、微かに息を吐いて笑う。


「ピエレットとは仲が良いみたいだな」

「え? うん……」


 ネルフェットが話題を変えたので、相変わらずこちらのことを見ようともしない彼の渇いた瞳に向かって頷いてみた。


「カフェテリアで本を読んでいたところに話しかけてくれたの。まだこっちに来たばっかりで、最初、ピエレットが言ってくれること、ちゃんと分かるかなって、ビクビクしてたけど、私が留学生だってわかると、すごく親切にしてくれたの」

「ふぅん」


 興味がなさそうな声だった。それでも、ネルフェットは会話を続ける。


「ピエレット、好奇心旺盛だからな」

「確かにそうだね。話しかけてきた時も、私が読んでた本の方に興味を持ったみたいだったし」

「どんな本?」

「図書館で借りた本だったんだけどね、ソグラツィオの伝承についてまとめた本。ピエレットの大好物」

「……なるほどな。あいつ、ほんと好きだよな、そういうの」

「ネルフェットはピエレットと付き合いが長いの?」

「まぁ、彼女が研究所に来てからまだ二年くらいだけど、歳が近いから話す機会も多いな」

「そっか。ふふ、ピエレット、王室の研究所に入っているなんて、すごいよね」


 トニアが投げた言葉のボールを受け取り、ちゃんと返してくれる。例え相手が感情の読めない声だとしてもトニアの声色は明るくなっていった。


「確かに優秀だ、ピエレットは。でも研究所で暇さえあれば自分の興味分野に没頭してるみたいで、ちょっと困ったところもあるけどな」

「そうなの?」

「ああ。あいつは伝承にある魔法の逸話について、ただの言い伝えじゃないって妙に目を輝かせて力説してくるから、反応に困る。必ず解析してみせるって張り切ってるし」

「ははは。そうなんだ」


 ネルフェットが弱ったような顔をするので、トニアは思わず息の抜けた笑い声を出す。この反応は失礼ではなかったかと口を抑えた時にも、ネルフェットは空を見たままだ。トニアはほっと胸を撫で下ろした。


「でも、私も気持ちはわかるな」

「え? ピエレットの?」

「うん」


 流れる雲を映していたネルフェットの瞳がトニアに向いた。


「ソグラツィオの昔話を聞いたとき、すごくどきどきしたことを覚えているから」

「……昔話?」


 彼の眉間に皺が寄り、トニアのことを未確認生命体を見るような目で見る。


「そう。小さい頃にお兄ちゃんに教えてもらった話。ネルフェットも知ってるかな? 運命の赤いタトゥーのこと」

「赤いタトゥー……聞いたことは、あるような……」


 斜め上に瞳を動かし、ネルフェットは記憶を辿った。

 トニアはくるっと変わったネルフェットの表情に、微かに頬を緩める。まだ知り合って浅い彼の、障壁のない姿と向き合えたような気がしたのだ。

 トニアがネルフェットに対する警戒を緩和させたところで、ピエレットがこちらに走ってくるのが見えた。


「ごめんね、お待たせしちゃって」

「ううん。大丈夫」

「ああ。むしろ研究所の用事は大丈夫か?」

「うん。ちょっと失くした物があっただけみたいだから……ちゃんと見つかったよ」


 ピエレットはにっこりと笑い、乱れた前髪を手で掻き分けた。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか? トニア、もう大丈夫そう?」

「うん。十分に見させてもらった。ネルフェット、招待してくれてありがとう」

「……俺は、別に」

「もう、素直に感謝は受け取りなさいよ」


 ネルフェットのことをからかうように笑った後で、ピエレットとトニアはネルフェットとわかれ、門までの長い道を抜けて街へと戻っていった。

 門の向こうを振り返ると、つい数分前までいた場所が別世界のように見えた。

 建物を見ることに必死で忘れていた非現実感を思い出すかのように遅れてやってきた胸の鼓動が全身へと響き渡る。トニアは高揚する熱を左の手で握りしめた。

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