第44話 遠藤紫門

「薬師様が心配されてるよ。大変だねえ」

 その将ちゃんは鼻血を拭くこともなく、にかっと笑った。その間抜けな顔に、桂花のパニックも徐々に落ち着く。落ち着くものの、この人は一体どうやってここに現れたのという謎が生まれ、頭の混乱は続いた。

「いや、あのね。ええっと、まず、鼻血を拭いてもらえるかしら。凄く悪いことをした気分になるし、止血しないと駄目よ」

 しかし、最も気になるのは鼻血が垂れたままだということ。自分が突き刺してしまった結果だと思うと恥ずかしさも増す。

「ああ、ごめんごめん」

 悪いのは桂花だというのに謝る将ちゃんは、無造作に身に纏っている異国情緒満点の服の、縛った部分のちょっと垂れ下がっている布で鼻血を拭った。すでに止まっていたのか、それだけで鼻血の痕跡はなくなったが、服で拭くなんてと桂花は軽い目眩を覚えた。しかもどう考えても洗濯が面倒そうな服で鼻血を拭くだなんて、桂花には絶対に出来ない行為だ。

「これでいいかな」

「う、うん」

 しかし、何だか注意するとややこしそうなので、これでいいことにする桂花だ。昨日の法明や弓弦とのやり取りから、手の掛かるお子様という認識になってしまっていた。

「それで、将ちゃん。どうやってここに来たの? っていうか、どこから入って来たの?」

「えっとね、緒方さんの匂いを嗅ぎながら来たんだ。そしたらここに繋がったよ」

「い、犬ですか」

 くんくんと鼻を動かす将ちゃんに、桂花は再び目眩がしてくる。というか、普通のやり取りが出来ない気がしてきて、非常に絶望を感じる。最初に薬局の休憩室に現れた方法も解らないままだが、取り敢えず、この子は何かがずれていことはすでに解っているのだ。せっかくやって来た救助者がこれでは、自分はまだまだこの空間を出られそうにない。

「場所が解ったから、薬師様にお知らせしないと駄目だね」

 だが、そんな桂花の心配とは裏腹に、将ちゃんはちゃんと法明に連絡を付けてくれようとしている。それにほっとしたものの、ここはスマホが通じないのだ。簡単に知らせるというが、その方法がない。

「待って。知らせるってどうやるの。スマホが使えないのよ。それに将ちゃんは入って来れたけど、私は出られないのよ」

「大丈夫。連絡なんてさせませんよ」

 桂花の問いに将ちゃんが答える前に、氷のように冷たい声がした。そして次の瞬間、将ちゃんがその場から唐突に消えた。将ちゃんの驚いた顔が残像のように目に残ったが、まるで初めからいなかったかのように消えてしまった。

「えっ、どういうこと?」

「まったく。使えないばかりか余計なことをしてくれる鬼だ。これならばまだ、篠原の式を相手にしている方が楽というのも。自我を持つ鬼は動きも予想外で読み辛い」

 すっと、どう頑張っても開かなかった障子が開き、そこには若い男が立っていた。スーツ姿なのは初めて陽明と会った時と同じ。顔立ちが整っているのも、どこか陽明と同じ。年齢も同じくらいに見える。

 しかし、決定的に違うのが、穏やかな顔をしているというのに隠し切れていない禍々しさだ。ニヒルな陽明の笑顔とは全く違う。穏やかに笑っているはずなのに悪意を感じる。対峙した瞬間から、ぞわっと言い知れない悪寒が走った。

「あ、あなたは」

「お初お目に掛かります。俺は遠藤紫門えんどうしもん

「え、遠藤」

 その名前は何度も聞いたことがある。陽明のライバルだという人だ。弓弦は対立していなければ陽明よりマシなんて言っていたが、この人はどう見ても陽明より危ない。それが直感的に理解できるほど、危険な空気を身に纏っている。

「あの男、今は篠原陽明と名乗る男からお聞きの事とは思いますが、俺は陰陽師です。それも、呪い専門のね」

 そこでにやりと笑う顔は、意外にも陽明そっくりだった。ころころと印象の変わる紫門に、桂花はただただ困惑する。しかし、禍々しさだけは全く変化しなかった。呪いを専門としているのは本当なのだろう。

「何をする気なの。まさか私に呪いを掛けるつもりなの?」

「まさか。今のところは何も心配しないでください。篠原と目的のあいつ、現在は薬師寺法明と名乗る小賢しい男が正しい判断をすれば、あなたに危害を加えることはありませんから」

 桂花の反応を楽しんでいるのか、紫門は最初の穏やかだが凶悪な笑みに戻って付け加えてくる。その顔にぞくっとしたものの

「あの、さっきから今はとか現在って言っているのは、一体どういうことですか」

 今、気になるのはそちらだった。昨日も弓弦の名前が実は月光という名前なのではというやり取りがあった。それが陽明や法明にまで該当するのか。その事実が、どんどん桂花を不安にする。

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