第8話 ハンド

季節は春で、河川敷の桜の木の下を歩くにはもってこいだったのだ。



その川の近くには憧れの高校へと続く線路が走っていて、散歩をしながら娘に話しかける私の声は、時折電車の音に掻き消されて行った。



「ぱぱ」



危なっかしい足元で歩くわが子が、一言、そう言った。



「ぱぱ、ここにはいないよ。お仕事だよ」



私がそう言っても、「ぱぱ」「ぱぱ」と繰り返す。



疑問に思い、娘が見つめるその先へ、視線を移した。



……見るんじゃなかった。




咄嗟に顔を伏せ、わが子を手の中に抱き締める。



そこにいたのは、会社へ行っているはずの祐樹と、私の親友だった恭子の制服姿。



どう見ても、二人は普通の友達のような関係ではない。恭子の腰へ回された手、祐樹の肩にあたまをもたげる恭子。



今見たものがまぼろしでありますように。



そう願いを込めて、私はもう一度視線を移す。



けれど、さっき見た光景はそのままで、私に気付かない二人がゆっくりとこちらへ向かって来ている。



朝出かけるときはスーツだった祐樹が、今は私と始めてデートしたときと同じようなラフな格好をしている。



そのため、二人の年齢さはさほど離れていないように見えて、第三者から見たらただの学生カップルとでも思うのだろう。




だけど、その人は私の夫よ。



その人は、子供までいるのよ。



近づいてくる二人に、私は桜の木の陰に身を潜めた。



手の中で、いつもと違う空気が理解できるのか、娘が小さく息を飲んだ。



「大丈夫よ」



小声でそういい、真美の頭をなでる。まだ細くて、絡みやすい髪が頼りない。



二人が、さっきまで私たちのいた場所で呑気に桜を眺め始めた。



私は悔しさから奥歯をかみ締め、爪を木にめり込ませる。



裏切られていた。自分の一番大切な人たちに。



その思いが、ようやくリアルに私に遅いかかってくる。耐えられない、怒りと悲しみと侮辱感。



その勢いにまかせて出て行こうとした瞬間、隠れていた私に恭子が気付いた。



驚いたような表情を見せたあと、眼をふせ、祐樹に何もいわず立ち去ろうとする。



「逃げないでよ」



私は後ろ姿の恭子へ冷たい言葉を放った。



そこで、ようやく祐樹も私に気付く。本当、男ってどこまでも鈍感で嫌になる。



「夏海、違うんだよ、これは」



「違うって、何が?」



一番に言い訳を口にするあたりが、腹立だしい。



そして、祐樹は土下座した。



「ごめん、許してくれ!」



ホームドラマよろしく、あまりにもありきたりな展開に、私はこの男を川へ投げ捨ててやりたくなる。




自分から先に謝ってしまったことで、自分が浮気をしたのだと認めてしまっている。



ちょっと頭を使えば自分の逃げ道を自分でなくしているのだと気付くのに。



この男にはそんなことを考える余裕もないみたいだ。



「恭子、つったって見てないで、こっちくれば?」



私の言葉に、恭子が無言のまま祐樹の隣へ座った。



このとんでもなく重たい雰囲気の中、娘の真美はベビーカーの中で、ぬいぐるみを持って遊び始めた。



それから……。



それから?

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