小話四、ある夏の日

 蒸し暑さが本格的になってきた。六月の晴れた日、暑さを逃れるように、カウベルのついた扉を開ける。開けた隙間から、冷風が頬を撫でた。

「いらっしゃいませ」

 マスターの声がいつものように響く。私、広瀬麻結が両親とともに訪れたこの場所は、喫茶店『黒鳥』。父の友人であるマスターとはまさに生まれたときからの付き合いだ。母が臨月を控え、もうすぐ家族が増える私たちは、下のきょうだいが生まれる前の最後の来店にするつもりで今日ここを訪れた。

 マスターに挨拶を返しながら店内を歩き一番奥のボックス席に家族そろって腰掛ける。これもいつものことだ。

「今日は何になさいますか」

「いつもので!」

「かしこまりました」

 ここはいつもとは違った。今までは父が全員分の注文をすることが多く、私は注文をしたことが無かったのだ。しかし今日は違う。もうすぐお姉ちゃんになるのだ。少しでもしっかりしていかないといけない。

 マスターの手際はいつも見事だ。父のカフェラテ、母のダージリン、私のアイスティーがあっという間に淹れられていく。先日、母にティーバッグの紅茶の淹れ方を教わったけれど、ティーポット、アイスティーやコーヒーの淹れ方はまだまだ分からない部分も多い。不勉強を自覚しながら、マスターの手元を凝視した。

「どうぞ。あとこれも。他の方には内緒で」

 マスターがスコーンと小皿に入ったクロデットクリーム、ストロベリージャムを出してくれた。これはマスターからのサービスだ。

 口々にお礼を言ってからスコーンに手を付ける。

「いただきます」

スコーンを半分に割り、クロデットクリームとジャムをつけて口の中へ。さくりとした食感と重めのクリーム、甘すぎないジャムが程よく混ざり合う。続いてストローに口をつけ、アイスティーを飲む。砂糖、ミルクなどは入れない。そもそも個々人の舌に合わせてもう入っているからだ。

 スコーンの味の残る口の中に冷たさが広がり、飲み下すと内側から火照りが冷えていく。口の中で華やかな香りを楽しんでいるうちに一気に半分も飲んでしまった。

 各々がマスターに味の感想を伝え、人心地ついた。マスターはそんなところを見計らって、両親に話しかけた。

「体調はいかがです?」

 マスターがそう母に聞く。

「今のところは大丈夫です。まあ、体調よりもこの子が元気に生まれて来てくれるのが大事ですよ」

 母は大きくなったお腹を撫でながら言う。出生前診断では女の子ではなかという話だった。恐らく妹、が母に撫でられている。

「早く会いたいです」

わたしもお会いしたいですね。名前は考えてらっしゃるんですか?」

 マスターが両親の方を向きながら問う。それに父が答えた。

「綾子の希望で、顔を見てから決めるつもりでね。ただ、きょうだいだし、麻結に似た名前にしようかという話はしているよ」

 父は自分の妻の名前を私の前では口にしない。マスターの前だからこそ綾子と名前で呼ぶ。マスターの前では父と母は夫婦になる。

「麻結ちゃんに似た名前、か。候補は考えてあるのかい?」

「いや、そろそろかなとは思っているけれどね」

「候補を出そうとすると多すぎちゃって。絞れないんですよ、ねえ」

 母がそう言い添える。大人たちの談笑は続いていく。

 私は左隣に座る母のお腹を用心深く撫でた。内側が時折動く。妹か、もしくは弟がここにいる。早く会いたい。

 冷房の効いた店内は、外界と切り離されて時間の流れが止まってしまったかのような錯覚を引き起こす。ずっとこのまま、穏やかな日々が続いてほしい。きょうだいが増えてからも、こうして穏やかに。そう願いながら、私はアイスティーとスコーンの残りに取り掛かった。

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