小話二、河原兄妹の苦手分野

 小学六年生になったあたし、河原奈緒は困惑していた。兄が、運動が大の苦手の河原修悟が、弓道部に入ると言い出したのだ。

四月に入り、無事第一志望の葉山高校に受かった兄は、晴れて高校生になった。中学時代の部活は化学部で、中学三年生の二学期の評定は体育だけ四が付いたため、成績における満点である、オール五を逃した。それ以外の学期も評定は美術と体育だけが四で、それ以外は五だった。

 頭が良くて自慢の兄。優しい兄。でも、運動が苦手で、粘土を触ったり、絵を描くと、独創的な物体を作り出す兄。そんな兄が、まさか自分の苦手分野に手を出そうとしているなんて、あたしには信じられない思いだった。

「なんで、弓道?」

あたしは兄の部屋に入り、兄に直接聞いた。両親の前で話をしたら、適当にごまかされてしまう気がしたから。兄は答えた。

「うーん、かっこよかったから?」

「何それ」

「どんな部活があるか、説明してくれる「部活動紹介」っていうのがあってね。その時に、かっこいいなって思ってさ。それに苦手だからって、逃げてばかりじゃ、駄目だろう?」

「逃げてばかりでは、駄目」その言葉は、その後のあたしの方向性すら左右した。


  ◇


 弓道には道具がいる。弓道衣、袴、足袋、帯、弽(ゆがけ)。肝心の弓や、矢も必要だ。これにはどうしてもお金がかかる。兄は両親に出費がかかることを説明し、援助を申し出た。お小遣いでは、とても足りない。普段我儘など言わない兄の願いに、両親は一も二もなく頷いた。

 こうして無事に弓道部に入部した兄は部活に精を出し始めた。個人的にはそう思う。

「痛ってえ…」

リビングのソファの上で、脚の様子を看ながら、その脚の筋肉痛で呻いている兄に、あたしはそっと牛乳を差し出す。

「ああ、ありがとう、奈緒ちゃん」

 お礼を言いながら牛乳入りのコップを受け取った兄は、慎重に牛乳を飲み始めた。やけに動きが緩慢なため、もしかしたら腕にも筋肉痛が来ているのかもしれない。

「お兄ちゃん、きついなら、無理に続けなくても…」

五月に入り、練習が激しさを増し始めたのか、ここのところ兄は身体が辛そうだ。肝心な勉強にも支障が出ているのかもしれない。身体のことを思えば、潮時なのでは。そう思ってあたしは声をかけたが、兄はそう簡単には折れなかった。

「いや、まだだ。まだ。アイツと肩を並べられるようになるまでは、頑張らないと…」

「アイツ?」

あたしの質問には答えず、兄は空になったコップを持って、ソファから立ち上がる。

「奈緒ちゃん、牛乳ありがとう。ちょっと、勉強するから」

そう言って、兄は台所でコップを片付けた後、兄の自室に向かった。リビングに残されたあたしは、誰か分からない「アイツ」を知りたかったが、今すぐは聞けそうにもないことも感覚的に分かったので、そのまま黙って過ごすことにした。


  ◇


五月下旬、兄の高校で中間試験が行われたらしい。答案が返却されたことも知っていた。そのせいか、ここの所落ち込んでいる兄の様子を見に、あたしはこっそりと兄の部屋に入った。兄は机に向かっていた。返却された答案を見ながら、少し頭が下がり気味になっている。呟くように一言。

「勝てねえ…。こっちでも」

 話しかけ辛い雰囲気を感じ、兄に気付かれないようにまたしてもこっそり兄の部屋を出た。あたしは悲しくなった。勉強では、敵などいないような兄が、そうやって嘆いているのが、信じられなかった。


  ◇


 弓道の新人戦は十月八日に女子、九日に男子が行われたそうだ。その戦績を、九日の夕食の場で兄は語ってくれた。どうやら今年はいいメンバーが揃わなかったようで、団体、個人ともに、ほとんどが予選敗退となってしまい、本選に残った者も、入賞とまではいかなかったようだ。

「でも、ちょっと心残りがあって」

「心残り?」

母が先を促す。

「アイツが、宮内が出れば、もう少し、いいところいったのかもなって」

「宮内、さん?」

あたしが口を挟む。以前話していた「アイツ」が「宮内」さんのことなのだろうか。

「うん。勉強も、弓も、いや、運動全般かな。出来るんだよ、アイツ。弓に至っては、先輩たちよりできるんじゃないかな。なのに、大会に来なかった。もったいないよ」

「あら、本当にもったいないわね」

母が言う。横で父が頷く。

「そう、そうなんだ、よ」

兄は、苦しそうに言った。


  ◇


 中学生になったあたしは、勉強という大きな壁に激突していた。一学期の中間試験の結果は散々なもので、期末テストは何とか巻き返すため、麻結に頼み込んで家に来てもらうことにした。その話をあらかじめしたら、兄は少し寂しそうな顔でこう言った。

「…それくらい、おれも教えるのに」

「お兄ちゃんの負担を増やしたくないの。ただでさえ試験とか、部活で忙しいのに。それにあたしより次の受験は早く来るし。麻結もいいって言っているし、それに麻結もお兄ちゃんに会ってみたいって言ってたからさ」

「…分かった。楽しみにしているね」

少しぎこちなく笑う兄は、何かを無理に押し込めているように見えた。でも、その何かをあたしが知ってほしくなさそうなことも分かるから、言葉通りに受け取ることにした。


  ◇


 数日後、家にやってきた麻結は兄と少しよそよそしく挨拶を交わした。

「奈緒ちゃんの兄の修悟です。学校で仲良くしてもらっているみたいで…」

「初めまして。広瀬麻結です。こちらこそ、奈緒…さんには良くしてもらっていて…」

 自分の身内と友人が何とも言えない距離感にいるのをあたしはムズムズしながら見守った。

 .あたしは麻結を連れてあたしの部屋に移動した。部屋に入るなり、麻結は口を開いた。

「お兄さん、優しそうな人だね」

「うん。実際優しいよ」

「いいなあ、お兄さん。私も上の兄弟がいたらよかったなあ」

「そう?」

「うん。だって無条件で頼れる相手って貴重だよ」

この時のあたしは麻結の周囲を、彼女の抱える問題をあまりに知らなさ過ぎた。まだ親しくなって日が浅く、麻結もすべてを打ち明けるには早いと感じていたからだろう。だからあたしは、親もいるじゃん、と思ってしまった。麻結の言葉の真意を知ったのはそれからしばらく経ってからだった。


  ◇


 勉強会が終わり、麻結の見送りを終えたあたしに兄はこう話しかけた。

「ねえ、奈緒ちゃん」

「何?」

「奈緒ちゃんにとってさ、おれは頼りにならない、かな?」

迷子の子供のような顔をして、兄は言う。あたしは、兄がどうしてそんなことを言い出したのか分からなかった。

「なんで?」

「その…中学校レベルの勉強なら全部教えられるし、なんかこう、奈緒ちゃんにとっておれは、学校の友達より頼りにならない存在なのかなって…」

「…お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」

「奈緒ちゃん?」

「頼りになるかどうかじゃなくて、お兄ちゃんだから大事だし、だから無理してほしくないの」

「…」

「あたしはお兄ちゃんの負担になりたくないの。それに…」

「それに?」

「お兄ちゃんが言ったんだよ?『逃げてばかりじゃ、駄目』って。あたしは、自分の得意じゃないことを頑張ってるお兄ちゃんを見たから、あたしも頑張りたいなって思ったの。だから、頼りたくないのでも、頼りにならないのでもなく、お兄ちゃんにおんぶにだっこじゃなくて、自分の足で立てるようになりたいの」

「…!」

兄の目が見開かれる。

「…と言っても、自分一人ではまだ無理そうだから、麻結に助けてもらっているけど、ね」

「そっか…」

兄の顔には安堵と寂しさが浮かんだ。

「ああ、寂しいなあ。奈緒ちゃんの成長は喜ぶべきなんだろうけど、でも手が離れていくのは寂しいなあ」

「…たまには頼らせてね?」

「もちろん!」

あたしたちは進む。自分が苦手とすることでも、壁にぶつかりながらも、ただ、前へ。

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