5.手を繋いで歩きませんか?-10

(……本当に、夢じゃないのかな……)


 ずっと一方的に恋い慕っていた相手が、憧れだけで成就させる気などまったくなかった雲の上の人が、そんなに長く自分を想ってくれていたなんて。

 鏡がなくとも分かる。今のランヴァルトは、トマトもかくやと云うほど真っ赤だと云う事が。体温が急上昇して、涙さえ滲む。

 こんなにも幸福な事が、この世にあっていいのか。


「……私は、分からない」


 ぽつりと、エルヴィーラは呟く。

 相変わらず扇子で顔を隠したまま、少し俯きがちになって、彼女は心情を吐露し続けた。


「母も妹たちも、私の“コレ”は恋だと云った。けれど恋と云う脳の働きは、感情などと云う面倒なものを獲得した人類のみが所有していれば善いものです。生き物の使命、生きる意味は己の種族を保存する事。遺伝子の保持、種の存続。それだけ出来れば善いのです。なのに人類は文明を築き、感情などと云う不要なシステムを構築してしまった。種の保存に、無用な機能です。生き物は番って子孫を残せばそれで善いのに、無駄にもほどがある。だから恋などと云うものが生まれた。文明や感情などと云う面倒なものを獲得した人類にとって、円滑に繁殖を行うためのとても都合のよい機能です。恋はあらゆる理不尽を赦す。相手を独占したい、長く側へおいて置きたい、性交したい、それらは恋を理由に許容される、人類は許容する。それがあたかも、この世で最も崇高な感情であると、無様にもはき違えて」


 ミシリ、また扇子が軋む音。

『万年胡桃』の木材が砕ける可能性を感じ取り、今更ながら戦慄した。どんな握力をしているのだ、エルヴィーラは。

 それはそれとして。発言の内容を、ランヴァルトは上手く咀嚼出来ていない。

 恋や愛は、それはもう当たり前に取り扱われる感情だ。ランヴァルトだってエルヴィーラに恋をしていた。物語の中にあるような独占欲や情熱を抱く事こそなかったが、確かにそれは恋と呼べるものだとランヴァルト本人が自覚している。

 日常生活の中、娯楽の中、極自然にあるもの。メインが冒険譚や立身出世ものであっても、必ずと云っていいほど恋愛の要素は添えられていた。

 人と人は恋をして、互いを愛し、結婚する。その流れに疑問を持つ人類は、圧倒的に少ないだろう。当たり前の事、当然すべき事として、誰もが意識せず受け入れている。王侯貴族のように政略結婚が当然と云う中であっても、火遊びや禁断の恋は持て囃されているのだ。

 その当たり前の感情を、エルヴィーラは無駄だと切り捨てた。持たなくて善いものをわざわざ抱え込んだ人類は愚かだと、彼女は云っている。

 高見の視点――天よりも高い場所から、彼女は人類の在り方を見ていた。疑問ではない。決定だ。

 彼女は現在の人類を、不要な感情にとらわれた愚かな種だと、裁定していた。


「私のコレは、恋ではない」


 エルヴィーラは断言する。

 気にかけて、疑問に思って、追い求めて、二年も時間をかけて――それでも、ランヴァルトへ抱く感情は、恋ではないのだと。


「あなたを独占したいとは思わない。出来ることなら、好きに、自由であって欲しい。私の脳を支配した声が壊れる事を望まない。感情を保持したまま生きていてくれればそれで善い。どこへ行ってもいい。私は庇護を続ける。他の生物へ恋をしたと云うならそれでいい。赦す。感情の赴くまま振る舞えば善い。財貨ならば腐るほど、人を狂わすほど、国を滅ぼせるほどある。好きに使えばいい。私に害はない。赦す。あなたはあなたのまま、生き続ける事を私は望む。

 ――だが、損なわれる事は赦さない。キズをつける事は赦さない。人類があなたを害することを赦さない。天使、悪魔、神聖柱、竜種、精霊、妖精、迷宮君主、森の人エルフ、魔王、勇者、聖女、賢者であっても、赦さない。それが私自身であっても、決して、赦さない。あなたを害するものは、赦さない。それがたとえ、今や至天の玉座より消えた神であろうと、赦しはしない。

 ――私は、赦さない」


 人類だけで無く、あらゆる上位種族たちの名を出してまで、エルヴィーラ云う。

 自身すら含めて、ランヴァルトを傷付けるものは赦さないと。


(なぜ……そこまで……)


 ランヴァルトはまた分からなくなった。

 三年前の夜会で聞いたたった一言――ランヴァルトの取るに足らない賞賛の言葉一つが気になって、探して、見つけて、手に入れたエルヴィーラ。

 ランヴァルトに気付いてくれた事は嬉しい。欲しいと、思ってくれた事も。けれどその後が分からない。何があっても庇護し続けると、あるがままでいて欲しいと望むその思いが、一体どこから湧いてくると云うのか。


(分からない……分かりません、エルヴィーラ様……)


 彼女の言動すべてが、ランヴァルトの常識、許容範囲を超えていた。

 何一つ理解出来ない。凡人のランヴァルトには、エルヴィーラの事がまったく分からない。

 経済の概念において世界の頂点へ君臨する女傑。

 人類が消費文明、貨幣経済を続ける限り勝てないと確定している最強の一角。

 今こうして向かい合い、会話している間でさえ、彼女の名の下にどれだけの金銭が動いているか分からない。

 ランヴァルトからは遠い人。手の届かない、理解出来ない、どうしようもなく隔たれた存在。

 一連の会話がソレを理解させた。ランヴァルトとエルヴィーラは分かり合えないのだと。手の施しようがない。解決策がない。並び立てない対象だ。

 始めからわかり切っていた事。生まれが違う、育ちが違う、立場が違う、性別が違う、能力が違う、何もかもが違っている。

 だと云うのに、理解出来る訳がなかった。分かり合う事など、到底不可能だ。

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